しかしすでに論じたように、純粋なアイヌは、純粋な日本民族や純粋なフランス人が存在しないのと同じように、もともと実在しないのである。
進化論が正しいならば、人間(ホモ・サピエンス)はすべてアフリカが起源であり、一つの生物の種(しゅ)である。
それが各地に離散しながらその土地その土地の気候などの影響を受けて、容貌や体質が変化していったと考えられる。
ある集団は肌が白くなり、ある集団は目が青くなったり、ある集団は目が一重になり、ある集団は体毛が少なくなった。
なので世界各地の諸民族の風貌を見ると、肌が黒い人も入れば白い人もいる。彫りが深い人もいれば顔が平べったい人もいる。体毛が多い人もいれば、少ない人もいる。
そういった容貌の違いを基に人間を分類したのがいわゆる「人種」というものである。
その人間の諸集団は地球上に拡散しながら、その土地の風土に適応するように少しずつ違った形質を獲得して分化していったはずだが、それと同時に、その諸集団は結合・離散を繰り返しながらお互い関わってきたのである。
なので、アイヌも和人も朝鮮人もインド人もスウェーデン人もさかのぼればすべてアフリカが起源なのである。
アイヌの遠い先祖も、遠い昔、アフリカを出発し、ユーラシア大陸のどこかを通って北海道なり樺太なり千島にたどり着いたはずである。
その時代には「アイヌ」という名称は持ってなかったかもしれない。
その過程で、いろいろなところでいろいろな生活を経験したに違いない。そして、その中で、ほかの集団と接触し、婚姻関係を結んだり、影響を受けたり、さまざまな出来事があったはずである。
厳密には、人間一人一人の遺伝子は違うのであり、同じ「インド人」だからと言って、全員が同じ顔ではないし、遺伝子も当然違うのである。
遺伝子がまったく同じ生物が存在するならば、これはクローンということになる。
アイヌという民族集団の一人一人ももちろん遺伝的に多様な集団である。
地方で大まかに分けても、十勝アイヌや釧路アイヌ、日高アイヌ、石狩アイヌなどなど、それぞれで容貌が違うと言われている。
実際私も何百人という人に会ったが、地方によって若干風貌の傾向が違うような気がする。
アイヌに限らず、関西出身の平井堅(何代も前の先祖を調べたが全員日本人だったということである)のような顔の人もいるし、久保田利伸(静岡出身)のような顔もいる。
この日本列島は、和人にせよ、アイヌにせよ、琉球にせよ、それぞれさまざまな文化や血統が混交して成立していることは間違いない。
それを無理に「日本民族」で統一する必要はないはずである。
小林よしのりも日本人が、さまざまな人種・民族の混交によって成立したことははっきり認めている。九州出身の彼は自分について「わしという人間は、実は熊襲の子孫かもしれず、朝鮮からの渡来系かもしれない。わしの血筋は「和人」や「日本民族」という純粋種ではなく雑種である」(『わしズムp14』)と書いている。
そして、アイヌについても、「沖縄もアイヌも、大和(和人)との混交は古代からあった」「アイヌ文化に至っては、大和文化と北方文化が混交して、鎌倉時代以降に成立したものであり、「アイヌ」が成立する前から、北海道には大和文化が流入していたのだ」(いずれも『撃論ムック』p13)と書いている。
そして『わしズム』(p19~20)ではユネスコの声明から「純粋な人種は存在するという証拠はない」という文言を引用し、「純粋な民族」というものも存在しない、と書いている。
この部分については、おおむね正しい。
(ただし、アイヌ文化の成立において、北方文化と大和文化がイコールな割合で融合したかのような書き方をしているが、和文化の影響を過大視しているようにも感じられないこともない。物質文化はともかく、言語や精神文化においては、アイヌと和人の基層文化にはかなりの違いがある気がしてならない。)
一方で、すでに引用したように、かつて存在した「純粋なアイヌ」が現在はもういなくなった、だからアイヌは存在しない、という論法は、どこかおかしくないか。
もともと純粋なアイヌが「いない」のならば、「いなくなった」と言うこともできないはずだからだ。
存在しない前提を作り上げてそれを否定し、いやもはや純粋なアイヌはいない、アイヌという民族はすでに同化した、などと強弁するのは詭弁にしか思えないのである。