2012年04月22日

集団としてのアイヌ

さて、それぞれの地域で共同体を形成していたアイヌが、「アイヌ」という集団意識を強く持つようになるのは、やはり他者との関係が大きいであろう。


樺太のアイヌはニブフやウィルタと隣り合って生活していたわけであり、大陸に行ってツングース系の諸民族や漢民族(中国人)と交易したりすることもあった。

北海道アイヌについては、Sisam、つまり本州からやってきた和人と長年の接触がある。
 

アイヌは国家を形成しなかったが、各地域ごとに共同体を作っていた。
そして、自分たちとは明らかに言葉や風習、もしくは風貌が違う人たちと接する中で、「アイヌ」という集団意識が成立していったのであろう。

もちろん当時、「私たちはアイヌ<民族>である」という言い方はなかっただろうし、少なくとも自分たちはaynuであるという集団意識は中世以降次第に確立していったものと思われる。

繰り返しになるが、部族とか民族というのは漢語であり、近代に発生した概念である。

シャクシャインの戦いの時には各地のアイヌが共同で「和人」と戦ったことなども考えると、このころは、Sisamと自分たちという集団意識がかなりはっきりしていたように思えるのである。


1590年にポルトガル人の神父、イグナシオ・モレイラが、京都に連れてこられたアイヌに会い、蝦夷の島を「アイノモショリ(ainomoxori)」と呼んでいたことを記録している。
この頃すでに自分たちの住んでいる島をaynuの島であると認識していたということである。

カナダのイヌイットをはじめ、先住民族・少数民族において、民族の呼称が「人間」を意味する言葉になっている例が比較的多いことは注目される事実である。

もちろん、アイヌ内部に言葉や風習の違いが実際あったわけだし、それぞれの地域の集団意識も強かったのだから、もしかして、歴史が違う方向に進んでいたならば、それぞれ別の民族ということになっていたかもしれない。
民族というのは人間の作り出した概念であるから不変、固定的なものではない。

仮にもしもの話であるが、和人が北海道を占領せず、今のアイヌと呼ばれる人たちだけの国だったとしよう。
もしかしたら、Iskar(石狩)の人たちが、独立した意識を持って、「俺たちはアイヌじゃない。言葉も文化のほかの連中とは違うんだ。我々はイシカリ民族である」と主張して、別民族ということになったかもしれない。

樺太アイヌについては、「エンチウ」という別民族であるという、根拠のあやふやな主張があるのだが、これについては改めて書く。

posted by poronup at 23:46| 北海道 ☔| Comment(0) | 民族論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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