「民族」という概念が近代になって確立したものであるが、その厳密な定義となるとさまざまな議論・研究がある。
もちろん「民族」という用語はアイヌ語にはない。日本語にもかつてはなかった。
北海道内のアイヌについては、地域ごとにその地域の人たちを呼ぶ言い方があった。
たとえば日高地方の沙流(サル)川の川筋には、Sarputu(佐留太=富川)やPiraka(平賀)、Sumunkot(紫雲古津=シウンコツ)、Nina(荷菜)、Piratur(平取)、Niptani(二風谷)、Pipausi(こちらは和名なし)、Penakori(ペナコリ)、Nioi(荷負)、Nupkipet(貫気別)などなど、数々の村があった。
それぞれの村の住民は、○○村の人ということになるが、この沙流全体をSar kotan(沙流の村または「国」)と呼び、その地域の人たちをSarunkurと呼んだりする。サルの人、要するに沙流人ということである。
十勝人はTokapciunkur(トカプチの人)、釧路人はKusuriunkur(クスリの人)などと呼ぶわけである。
十勝にも、Operper(帯広)とかSatnay(札内)とかOtopke(音更)とか、Cirotto(白人=チロット)などなど、さまざまなkotan、村があったわけだが、地域としてはまとめてTokapciunkur、十勝人と呼ぶわけである。
なので、大きな分け方と小さな分け方といろいろあるわけである。
私の住んでいる日高地方の様似にも、Ninannayunkur(ニナンナイ人)、Saromapunkur(サロマプ人)などの地域ごとに、系統の異なる集団がいたことが分かっている。
北海道のおもに太平洋沿岸地域に住んでいる人たちについては、東西の2大系統に分けて、SumunkurとMenasunkurと呼んでいたことが知られている。
簡単に言えば「西の人」・「東の人」ということになるだろう。
これは、渡島・胆振あたりから、日高中部(静内あたり)までをSumunkurと呼び、日高東部(静内以西)から、十勝・釧路・網走・根室あたりまでをMenasunkurと言うのである。
また、北海道アイヌをくくって、ヤウンクルYaunkur(陸の人、要するに「本土人」と訳せるかもしれない)という言い方をすることもあったのである。
北海道をYaunmosir(本土のmosir)と呼んだりするが、Yaunkotan(本土のkotan)と言うこともあった。
mosirは「大地」「国」と訳される言葉である。なので本州、和人の国はSisam-mosirと呼ぶわけである。
kotanは通常「村」と訳されるが、Yaunkotanという言い方があることを考えると、北海道という大きな島がkotanであったわけである。
kotanは小さな村に限らず、人間が集まって暮らす場所を指す言葉でと言っていいようである。なので国(邦)と訳してもいいだろうと私は思っている。
さて、誰もが知っているはずのことであるが、aynuとはアイヌ語で「人間」という意味である。
かつて、「アイヌ民族」という言い方があったわけではなく、それぞれの地域の人たちは、自らを釧路人とか十勝人とか、千歳人とか、それぞれの地域の集団ごとに位置づけ、そしてお互いにそう認識したり呼んだりしていたのであろう。
とはいえ、これらのkotanは、お互い無関係に暮らしていたわけではない。隣同士なら当然頻繁に行き来するわけであるし、A村の人がB村に嫁に行ったり、あるいは何らかの事情で村にいれなくなった人が別の村に移住することもある。
また、何らかの事件があって、A村の人たちが集団でよその地方に移住して、そこにもともといた人たちに合流することもあった。
十勝アイヌが日高アイヌと戦ったとか、釧路アイヌが厚岸アイヌと戦ったとかそういうアイヌ内部の戦いもかつてはあったことが文献・言い伝えの中で確認できる。
アイヌ同士で自己紹介をする時も、かつては、アイヌ語で、私の先祖は○○村の出で、これこれこういう名前の人でありました、その子孫が私であります、などと自分の家系や出自を詳しく説明したりもしたという。
今現在も、「札幌に住んでますが、父親が十勝アイヌです」とか、「静内出身ですが、父親は平取アイヌで、母親は浦河アイヌです」とか、自分の家系を説明することも多い。
これらの地域はそれぞれの集団意識に基づいている。
(和人でも、「宮崎出身ですが、父親は福岡出身で、母親は大分出身です」などと説明することもあるだろう。)