2012年04月22日

「日本人」としてのアイヌ

日本にいるアイヌが日本国籍を持つ人たち、つまり日本国民であることは間違いない。そういう意味では「日本人」である。

今まで何百人というアイヌに会ったが、大部分の人は自分が「日本人」であると思って、それが自然なことであると思っているように思える。
「あなたは日本人ですか?」と聞けば「当たり前だろう。俺たちを馬鹿にしているのか」と怒る人もいるだろう。
彼らはワールドカップやオリンピックでは当然日本の選手を応援するのである。自分の属している国だから当然であろう。


しかし中には、「アイヌと日本人」とか区別する言い方をする人も時々いる。
(アイヌ研究者の更科源蔵の著書で『アイヌと日本人』(日本放送出版協会)というものも存在するし、歴史学者の菊池勇夫の『アイヌ民族と日本人』(朝日新聞社)という本も出ている。)

それは歴史的な経緯から言うと、北海道をはじめ、もともとアイヌの住んでいた島々は「日本」ではなかったわけだし、アイヌは日本人ではなかったという考えがあるからであろう。
「我々は<日本人>に侵略された」という表現をする人もいる。


有名な萱野茂さんの本(『アイヌの碑』)には、「アイヌはアイヌ・モシリ、すなわち<日本人>が勝手に名づけた北海道を<日本国>に売ったおぼえも、貸した覚えもございません」という有名な言葉が載っている。

10年ほど前に、写真家の宇井眞紀子氏が『アイヌときどき日本人』という本を出版した。
この本は、東京を中心に関東圏で生活し、文化伝承や権利回復運動に取り組む関東在住のアイヌの生き様を追った写真集であり、私は名著だと思っている。

ただ、この本のタイトルには関係者の中には異論を持つ人がいた。
その人に言わせれば、いつから私らアイヌが日本人になったんだ、というわけである。
アイヌは民族としてのアイヌであると同時に、日本国民であり日本社会の一員である。

とはいえ、24時間つねにアイヌとして特別に「生きている」わけではないし、一般日本人同様、サラリーマンとして働いたり、家で家事をしたり、学校に通ったり、買い物したり、趣味にいそしんだり、テレビを見たり、市民として暮らしているのである。
当然民族衣装を着て生活しているわけではないし、家でアイヌ料理を食べる機会などまれであろう。
ハンバーグを食べたりラーメンを食べたりもすれば、味噌汁に納豆とご飯を食べたりもするし、コンビニ弁当を買って食べたりもする。

そういう日常生活の中で、アイヌとして活動に取り組んだり、文化を受け継ぐ努力をしているのである。
『アイヌときどき日本人』というタイトルは、そういうアイヌの状況を著者の感性で表現したものであろう。
本に協力した当事者の中には、「これこそ私たちの状況を的確に表現している」と言う人もいたが、批判的な意見もあったのである。

こういう齟齬が発生するのは、「日本人」という表現の曖昧さが一つの理由であり、アイヌの置かれている微妙な状況を反映しているのだろうと私は思う。

posted by poronup at 02:11| 北海道 ☔| Comment(0) | 民族論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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