樺太アイヌをエンチウ(エンヂウ)と便宜的に命名・分類したのは、民族学者の河野広道であることを確認した。
ところが、樺太アイヌはエンチゥという別民族だという断定を始めたのは、河野広道の息子の河野本道のようである。
河野本道は、彼はもともとむしろ進歩的な研究者として、早い時期から、アイヌの活動家たちと行動をともにし、非常に差別的な旅行会社の広告の糾弾活動にも参加したこともある。
(『近代化の中のアイヌ差別の構造』、明石書店、初版1985年)
http://www.akashi.co.jp/book/b64101.html
また、ある時期までは、北海道ウタリ協会のアイヌ史編纂事業の委員になるなど、アイヌ研究者として、かつては民族運動に協力的な人物だったと言っていいだろう。
ところが、1990年代になり、ウタリ協会とアイヌ史編纂事業をめぐって紛争が起こったり、彼の関わった出版物をめぐって、一部のアイヌを含む左翼団体の抗議を受け、裁判になるなど、運動側とのトラブルが目立ち、民族運動への批判的な言辞が多くなった。
そしてついには、アイヌという民族が存在しないという主張を堂々と行い、民族運動や権利回復運動を否定・批判するようになった。
たとえば彼の論文集である『「アイヌ」その再認識』(北海道出版企画センター、1999年)には、いろいろな時期に書かれた彼の論文が掲載されている。
http://www.h-ppc.com/single.php?code=222、
この本の随所で、彼は、アイヌが「一民族集団」であるかどうかが疑わしいというようなことを書いている。
樺太アイヌについても樺太アイヌが他称であり、エンチゥという自称を持っていると書いてあるのである。
小林よしのりらの『わしズム』にも「〈アイヌ系日本国民〉を『アイヌ民族』と言えない学術的根拠」という文章を寄稿し、同様の主張をしている。
『「アイヌ」その再認識』に掲載されている論文の一つに、「エンチゥ(カラフト=アイヌ)の人口と居住域の推移」というものがある。
ここで、彼は、樺太アイヌの自称がエンチゥであり、さらに東西で墓標の違いがあり、「二つの民族的集団に別れていたという可能性が考えられる」と論じている。
その典拠として、父親の論文「墓標の形式より見たるアイヌの諸系統」を挙げている。
(もう一つ、金田一京助の弟子であり、アイヌ文化・口承文芸の研究者、久保寺逸彦の「北海道アイヌの葬制」(1956)という論文を挙げているが、こちらは、おおむね河野広道の上記の論文の分類を基本的に踏襲し、若干自らの調査結果を追加している程度である。)
しかし、すでに論じたように河野広道は、エンチウという自称があったとか、アイヌではない別の民族であったなどとは言ってないのである。
彼は、樺太アイヌをエンヂウと便宜上「命名」「分類」したにすぎないのである。
樺太アイヌが使っているenciwという言葉は確かに存在するが、それが民族の自称であるとは書いていないのである。
それを息子の河野本道は誤読したらしい。河野本道は自分の父親の論文さえきちんと読んでないのだろうか。
それとも分かっていて独自の解釈を打ち出したのだろうか。
そもそも、なぜ墓標だけが基準になるのだろうか。それが不明である。
民族の文化は墓標だけでない。住居、衣服、料理、芸能など、いろいろな要素がある。また、言語も重要な指標である。
実際、河野広道も書いているように、金田一京助による言語を基準にした分類は、河野広道の分類とはむしろ結果が違っているのである。
その他、芸能や着物の文様、料理などなど、基準によって分け方は違ってくるはずである。
河野広道の分類では、北海道の余市アイヌは、墓標が樺太西海岸のアイヌのものと似ているので、同じ「西エンチゥ」なのだそうである。
確かに余市アイヌの墓標は北海道のほかの地方のものとは違い、むしろ樺太アイヌに近い。
その他若干似た語彙も確認されている。
これは興味深いことである。もしかしてかつて両者の間に頻繁な交流がなかったとも言い切れない。
しかし、たとえば言語を見ると、やはり余市アイヌの言葉は、まぎれもなく北海道アイヌのものである。
(資料があまり残ってないが、単語程度の記録は若干残っている。)
また、樺太の東西の言葉を比べてみるとやはり共通点も大きいのである。
樺太の東西と、余市のアイヌ語を比べるとやはり、東西の樺太アイヌ語がやはり近いのである。
樺太西海岸のアイヌ語より、かえって余市のアイヌ語のほうが西海岸のアイヌ語に近いとは到底思えないのである。
北海道内では、稚内のアイヌ語は樺太に比較的に似ているようである。
稚内と樺太の間の宗谷海峡は、わずか40kmほどである。当然船による行き来はあったのである。
また、北海道アイヌの沙流方言には、不思議なことに樺太アイヌ語に似た語彙が若干見られることもある。
(金田一京助の有名な随筆「心の道」に出てくるhemata(何)など。)
沙流アイヌと樺太アイヌの墓標は相当違うが、言語について比較すると共通点もあったりするのである。
要するに、基準によって分類も変わってくるのである。
ということで、樺太アイヌはエンチゥという独自の自称を持った民族であるという主張には相当無理があることを検証してみた。
ところが、河野本道の解釈を真にを受けたらしく、最近、当の樺太アイヌの人たちの中に、自分たちがエンチゥという自称を持つ民族であると書いたり言ったりする人がいるようである。
間違った解釈が一人歩きしているわけである。これは由々しきことである。
ただ、樺太アイヌ(の末裔)が、今後、自分たちは北海道アイヌとは別の民族であると主張して別民族としての扱いを受けたいならばそれはそれであっていいだろう。
すでに書いたように、一つとされていた民族が分かれて別々のものになることもあるのである。
民族は人間の作り出した概念であり、もしくは場合によっては政治的な概念であるので、固定的なものではない。
たとえば台湾で実際にそういうことがあったし、その他の国・民族においてもよく見られることなのである。
実際、樺太アイヌ語は北海道アイヌ語とはかなりの違いがあり、話し言葉ならば相互の意思疎通はなかなか難しいのである。
(雅語の多用される祈り言葉や口承文芸などの場合は、相互理解度が高まるようである。)
もしかして状況が違ったならば、樺太アイヌが俺たちはカラプト人だとか、エンチウ人だとか主張して北海道アイヌと別の道を歩んだかもしれないのである。
しかし、少なくとも樺太アイヌたちは、北海道アイヌと同じく自分たちを「アイヌ」と呼び、その一部であると認識していたことは歴史的事実である。このことは動かすことができないのである。
少なくとも文献などで確認できる時代についてはそう言うことができる。