ただし、エンチウという言葉は確かに存在する。
樺太アイヌの言葉で「エンチウ」という言葉があることは古くから知られている。
エンチウ(enciw)という言葉は、樺太アイヌ語で「人間」という意味である。
(エンチウの「ウ」を小さくして、「エンチゥ」とする表記もあるが、ここでは引用を除いて、特にウを大きく表記しないこととする。また、「エンチュウ」「エンチュー」などの表記もあるが、enciwのカナ表記としてはエンチウもしくはエンチゥがもっとも適切である。)
たとえば知里真志保の『分類アイヌ語辞典 人間編』に載っているが、「人間」を指す樺太の言葉で、「雅語」としている。
『アイヌ語方言辞典』を見ると、樺太のライチシカ出身の藤山ハル媼によると、enciwという言葉は「人間」の意味であり「良」とある。「いい言葉」であるという意味のようである。
また、「アイヌ語」をaynu'itah(アイヌイタハ)と呼んでいる。enciw'itah(エンチウイタハ)などという言い方はない。
イギリス人宣教師・ジョン・バチェラーの辞典(『アイヌ英和辞典』)を見ても「Men (especially Ainu men). Used only in prayer and in reciting folklore.」とある。日本語に訳すと「男性(特にアイヌの男性)。祈り言葉においてと、物語を語る時にのみに使われる」とある。menという英語は「男性」のみならず「人間」という意味もあり、aynuやenciwに近い。
アイヌ史研究者の児島恭子は『アイヌ民族史の研究』(吉川弘文館、2003)に収録されている「エンチウについて」という論考で、エンチウというアイヌ語の用例を詳細に検証した上で、エンチウは樺太アイヌ語において、アイヌ(人間)と同義に使われる特別な言葉であるらしいことを検証し、河野広道が便宜上命名したエンヂウという名称が、カラフトアイヌの「民族名称」として存在したかのように受け取られている現状を指摘している。
なお、エゾ(蝦夷)という言葉は、アイヌ語のエンチウという言葉から来ているという説がある。この説が妥当かどうかここで詳しくは検証しないが、少なくとも一つの説として考えうる説である。
金田一京助は「アイヌ語学講義」(『金田一京助全集 第5巻』三省堂)で以下のように述べている。
「樺太アイヌは、和人との接触が新しく、侮蔑されたような苦々しい経験がなかったから、enjuと自分でも呼んで、enjuとainuを併用していて、enjuの方は古語で、雅語であると称している。即ち叙事詩や祈祷の語、談判の語や、会釈の辞など、改まった時に用いる語で(後略)」
「"enju"とは、kamui itak(神語)だと言って"ainu"から区別する。すなわち、神へ向って使う語、神が人間をそう言う語だと言う。これは、われわれのいわば「雅言」「古辞」ということなのである。」
ということで、エンチウは、樺太アイヌ語で祈り言葉や口承文芸に出てくる特別な言葉であり、「人間」を指すことは資料からはっきり言え、民族の自称と言えるものでは決してないのである。
ただし、樺太アイヌの一部の人たちが自分たち「アイヌ」のことを「エンチウ(エンジウ)」と言い換えることは時々あったらしい。
たとえば長万部出身のキリスト教の伝承者・江賀寅三の遺稿をまとめた回想録『アイヌ伝道者の生涯』(1986、北海道出版企画センター)という本がある。
この本の中に「樺太エンジウ」という言葉が3箇所ほど出てくる。
これは、江賀が樺太のタラントマリ(多蘭泊)で布教した時の思い出を、回想録として書き留めたものである。
そのうち2つは江賀自身の文章(地の分)で使われ、、もう一つは地元の樺太アイヌ自身のセリフ(あくまで江賀による再現されたセリフであるが)である。
『アイヌの本』(宝島社、1993)に出ている、興部町在住の樺太アイヌの古老、西平喜太郎さんの聞き書きに、川村三郎という人を指して「川村エンジュ」という表現をしている。
確かにこういう例はいくつかある。
しかし、これだけをもって、樺太アイヌがエンチウという自称を持つ別民族であると断定するのはあまりにも乱暴であろう。
少なくともエンチウが樺太アイヌの自称として一般的であったと言うことはできない。むしろ圧倒的に「アイヌ」なのである。