2012年04月23日

台湾の例

かつて日本の植民地だった台湾には、漢民族の移り住む前から住んでいた、オーストロネシア系の諸民族が住んでいた。
かつては、高砂族などと呼ばれていたが、現在は、原住民族というのが台湾では正式名称となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91

それらはそれぞれもとの源は一つということであるが、現在はそれぞれお互い通じない言葉を話し、風習も相当違う諸民族である。

現在、政府に認定された公式なものが14ある。
現在は漢民族化して独自の言葉や風習が消滅してしまって、政府に存在を認定されていない人たちも含めて、相当数の民族集団が台湾には存在した。


台湾原住民族は、長年、9民族であると言われていた。
それはすなわちアミ・タイヤル・サイシャット・ブヌン・ツォウ・ルカイ・パイワン・プユマ・ヤミの9つである。

その他の人たちはもうすでに漢化して消滅したかのごとくみなされていたのである。
おもに平地に住んでいて、早い時期に漢民族と接していた人たちである。平埔(へいほ)族と呼ばれてきた。
これは、日本の植民地時代の日本人による分類が土台になっていると言われている。

ところが、近年の原住民族の権利回復運動の流れの中で、それまで認められていなかった人たちが民族としての認知を求め、21世紀になって一つまた一つと政府の認定を勝ち取っていった。

まず、今までツォウ族の一部とされていたサオが2001年に独自の民族として認定された。
サオは日本統治時代の人類学者による分類の結果、ツォウの一支族であろうとされ、その分類が戦後も受け継がれていたのだが、言葉はまったくツォウ語と異なり、風習にもかなりの違いがあり、また、サオ族自身が自分たちはツォウとは違うという意識を強く持っていたこともあり、民族としての認知を求めた結果である。
彼らは風光明媚な場所として知られる日月潭(にちげつたん)という湖の周辺地域に住んできた人たちである。
漢民族との接触が早かったこともあり、漢化も早い時期に進んだと言われ、平埔族に分類されることもあった。

そして翌年、平埔族の一つだったクバランも運動の結果政府に認定された。


さらに、今まで「タイヤル」の一部とされていた人たちのうち、タロコと呼ばれている人たちおよび、セデックと呼ばれる人たちも、独自の民族としての認定を求め、ついには民族として認定された。

彼らはそれぞれ、もともとは、タイヤルの一支族とされていたのだが、言葉や風習が違い、何よりも自分たちは別の集団だという意識が強かったのだろう。
また、アミの一部とされていたサキザヤの人たちも民族としての認定を受けている。
(順番としては、タロコ、サキザヤ、セデック。)

ということで民族の区分は、その時その時の状況(本人たちの意識や社会状況など)によって、変動もありうるのである。

なお、セデックは、1930年の霧社事件で蜂起(暴動と呼ぶ人もいるが)した人たちである。
このセデックという名称は彼らの言葉で人間という意味で、2011年には事件が映画化され「セデック・バレ(本当の人間)」という題名である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://www.oaff.jp/program/screening/13.html
http://www.oaff.jp/program/screening/14.html
http://www.youtube.com/watch?v=-zNvshcMBwg

posted by poronup at 00:12| 北海道 ☔| Comment(0) | 民族論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
検索する
投稿する
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。