この8月新曲をレコーディングしました
作曲を担当したのは僕いきものがかりの水野良樹。
編曲は亀田誠治さん
一回通しでもいい?
歌うのはアイドルでシンガーソングライターの山本彩さん。
そしてこの歌の作詞は阿久悠。
昭和歌謡界の巨人と呼ぶにふさわしい偉大な作詞家その人です
今年2017年で阿久悠さんが亡くなられてから10年となります
本名深田公之。
1937年兵庫県淡路島生まれ。
広告代理店勤務や放送作家を経て彼は作詞家になりました。
1970年代の日本は阿久悠の歌であふれていました
阿久さんの歌はまるで映画のような映像的な描写の中に社会はこうあってほしいという願いがうまく組み込まれていて聴く人の心に響き背中をも押していきました
その歌の作り方や人々に影響を与えた熱い思いは今に通じるものがある。
僕はそう思います
僕たち「いきものがかり」は阿久さんが亡くなる前年にメジャーデビューをしました
以来顔も知らない多くの人たちのさまざまな気持ちを受け止められる器のような歌を作れないか。
僕はそう思いながらいきものがかりで詞を書き曲を作ってきました
2017年1月いきものがかり放牧宣言。
デビュー10周年。
グループのそしてメンバーそれぞれの可能性を広げるために3人でつけた一つの区切り。
そして今僕は一人のソングライターとして考えている事があります
…というのがすごく根本としてありますよね。
なんか…今この時代に自分はこんなふうにかっこいいですとかなんかこんな事を思ってますとかって感情を吐露しても何の解決にもなんない気がしていて。
いろんな人がいろんな正義を言ってていろんな人が戦い合ってて。
なんかその歌っていうものに自分の思いを込めるとか自分の考えを込めるとかっていうそんな単純な考え方だけで分かり合えない人と分かり合えるだろうかみたいな。
もっと違うやり方があるんじゃないかっていうのはすごく問題意識としてあるんですよね。
そんな時この番組の企画が立ち上がり阿久さんの未発表の詞に曲をつけるという依頼を頂きました。
自分が目指す歌の形を確かめるためにも阿久悠という偉大な作詞家を見つめ直したいと考えました
弱音とか吐かれてたんですかね。
先輩たちを訪ね話を聞く事にしました
ピンク・レディーに「モンスター」って歌があるんですけどあれひょっとしたら阿久先生自分の事言ってるんじゃないかと思うぐらいね。
共にピンク・レディーを生み出した音楽ディレクター
「肴はあぶったイカでいい」のあたりはあれ思想ですよね。
阿久悠に続き沢田研二のヒット曲を作詞したコピーライター
あのね勝ちたいの。
勝ちたいんですか。
作詞家阿久悠の親友でありその才能の行方を見つめ続けた音楽評論家
常に闘ってた方だなと思うんですよね。
阿久悠のシングル売り上げ記録を塗り替えたヒットメーカー
「上野発の夜行列車おりた時から」って言った時にもう映像浮かんでるじゃないですか。
今ミュージックシーンの最前線で才能を輝かせる同世代の作詞家
阿久さんは未発表の歌詞を数百編残しています
(ノック)
作曲するにあたりまずはこの方にご挨拶に伺いました
はじめましていきものがかり水野です。
この度はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
深田太郎と申します。
お会いできて光栄です。
阿久悠さんが残された歌詞に曲をつけるという事もさせて頂こうかなと思ってまして。
今日そのご挨拶に来ました。
よろしくお願いします!よろしくお願いします。
「愛せよ」の父の書いた原稿を…ちょっと見て頂きたいというか。
持ってきました。
これまだ…?初めて拝見します。
数多くの作品の中から僕が選んだのがこの「愛せよ」
「どこから来たのかどこへ行くのかぼくは一体誰か何が望みで何が夢かどうすることがいいのか」「愛せよ愛せよすべて愛せよ人を自然を時代を」。
それは「今の時代にも届く大きな言葉で書かれた歌」でした
この字自体が作品のように感じます。
作曲家さんをまず驚かせたかったのかなって思って。
作った時の熱量がすご〜く遠くまで行った時にその熱量が続いてるかどうかって分からなかったりもするじゃないですか。
やっぱりだからちょっとでもその熱量をなんか残したかったんではないかなっていう。
体当たりしてたんじゃないかなって思いますよね。
阿久さんは幅広いジャンルの歌を世に送り出しました
特に70年代10年間で発表した作品は実に1,966曲
1977年には「オリコンシングルチャート年間39週1位」という前人未到の記録を打ち立てます。
70年代の日本歌謡界はまさに阿久悠の時代でした。
その中で最も多く売り上げたシングルレコードがピンク・レディーの「UFO」
あっはじめまして。
いきものがかりの水野と申します。
飯田久彦さん。
阿久悠と共にピンク・レディーを生み出し育て上げた音楽ディレクターです。
70年代の絶頂期阿久さんはどうやって数々のヒット曲を発想し書き上げていたのでしょうか
ピンク・レディーのお二人が最初「スター誕生!」に出てこられた時ってその後のピンク・レディーのあの派手な衣装であるとかすごい楽しいダンスであるとかっていうのとは真逆のちょっとフォークグループのようなお二人で出てきたというお話をいろいろ本とかで伺ったんですけれども。
最初に阿久先生のとこ行って「なんか変わったものを作りたいんですよ」って事は先生には伝えたんです。
それで「ペッパー警部」…。
それで先生「よし分かった」というんで「ちょっと待ってろ」という事で出てきたのが「ペッパー警部」だとか「乾杯お嬢さん」とかっていうのが出てきたんですけど。
その次あたりからは先生がね何しろこの子たちはタイトルが非常に大事だからタイトルを考えようというのである時2作目か3作目のあたりでタイトルを50ぐらい作ってきた。
タイトルばっかり。
それでこのタイトルからちょっと次を選ぼうと。
その次もちょっと選ぼうと。
僕も面白くて「次先生これでどうですか?」「ダメだ」。
「これでいったらみんなから見抜かれちゃう」と。
「これじゃ面白くない。
これを裏切るにはこっちのタイトルだよ」。
そういうようなタイトルの決め方を…。
まだその段階では詞は出来てないんですか?詞は出来てない。
タイトルだけ。
その中に「UFO」もあったり「サウスポー」もあったり「ウォンテッド」があったり何があったりいっぱいしたんですね。
「サウスポー」売り上げ146万枚の大ヒット。
現場の作り手たちの熱い熱の中で生まれたものだそうです。
なんとこの歌は一度完成させたあと作り直したものでした
これがカーブとかなんかねまどろっこいっていうのかテンポがないというのかねスピード感がないっていうのか。
なんかレコーディングしたんだけど聴いててこれちょっと違うなと思ってね。
せっかくいいタイトルなんで思い切って2人の先生にたまたまホテルの所で会った時にちょっと部屋を借りてきてもらってじゅうたんで土下座して「お願いがある」と。
「何だ」って言うから「実は『サウスポー』というタイトルで全面取っ替えをしたい」と。
どっか一部分とか直しても障子の破れたの張るみたいなんでねよくにはならないなと思ったんで「全面取っ替えでもっとスピード感があるような歌を作りたいんだ」と。
スピード感があるって事は詞が当然多くなりますから阿久先生が「よく分かった」と。
「じゃあ俺は今晩これから帰ってやるから夜中の12時ごろ来い」とかって言われて。
あの「サウスポー」の一本足打法っていうのができたんで。
これが最初に録音された歌詞の一部
そして書き直した「サウスポー」。
「背番号1」など当時のスーパースターを連想させる言葉が並びドラマチックな物語に仕上げられています。
一晩足らずでこんな見事な書き直しができるなんて驚きです
よくああいう事が言えたなと思ったんですけど。
いやでも熱同士のぶつかり合いなんじゃないですか。
そうですね。
その前から先生にはそういう「温度」とか「熱」っていう事はまんたび教えて頂きました。
ですから詞が出来ると「手渡しで渡したい」って。
「これは自分が出来た時すごく熱い思いがした」と。
「だからこれをコピーだとかファックスで渡すと温度がどんどんどんどん下がってしまう」と。
「だから熱い…手渡ししたいんだ」って事を言われたんですよ。
熱の伝達みたいな事があったって事ですかね。
そういう事です。
それの熱い気持ち心が宣伝マンに伝わり営業マンに伝わりしいてはレコード店に伝わって一般のお客さんに伝わるんだという事はよく言われましたね。
はい。
その阿久悠という作詞家はディレクターからしてどのように見えました?曲とか詞っていうのはやっぱり「時代の飢餓感をキャッチする事から生まれるんだ」と。
今世の中に何が欠如してて何が求められてるのかって常に我々は考えようよ。
そういう事を考えながらものづくりしようよと。
だからどちらかというと賛否両論の作品が多いんですが今ヒットチャートにないもの今はやってないものその対局のものを作ろうよ。
ピンク・レディーなんかまさにそうなんですけど。
熱のぶつかり合いがいい作品を生み出す…。
僕も経験はありますが阿久さんたちの熱に及ぶかどうか。
その熱量の高さをうかがわせるものが阿久さんの母校明治大学の記念館に残されています
熱こもってんなぁ。
文字の背景にあるなんか…イメージだったりっていうものを作曲家さんに伝えたかったんじゃないですかね。
日本レコード大賞3年連続受賞。
70年代は記録ずくめでした。
それは阿久悠の熱量と「時代の飢餓感」を鋭く見抜く力の「産物」だったのかもしれません。
阿久さんはこう言い残しています
しかし70年代を過ぎると阿久悠の歌は次第に大ヒットから遠のいていきます。
なぜなのか。
阿久さんの次の世代の「言葉の名手」を訪ねました
1980年1月1日に発売された「TOKIO」。
新たな時代のまさに幕開けを象徴する沢田研二のヒット曲です
作詞は阿久悠ではありません。
気鋭のコピーライターとして当時注目を集めていた糸井重里でした
阿久悠さんの事についていろいろ勉強し直していて。
やはり非常に象徴的なのがあの1980年に出た沢田研二さんの「TOKIO」という歌があって。
その歌詞を糸井さんが書いていてその前は多くの場合は阿久悠さんが歌詞を書かれていて非常に象徴的なポイントだったと思うんですけれども。
どのように思われていたのかなというところから何かお話を伺いたいなと思ってて。
僕の所に「歌の曲名を考えて下さい」という依頼が来た。
自分としても人が作るんだからいいやって無責任な気持ちもあって楽しかったんですよね。
そうしたら「『TOKIO』っていう曲は糸井さん書いて下さい」って言われてでそうか大変だと。
ハッハッハッハ。
これは劇画ですよっていうつもりで歌詞を書けばいいんだと思ったんですよ。
フィクションって事ですか?フィクション。
どんどんこう漫画を書き込んでくみたいに「空を飛ぶ」って言っちゃったらあとはどんどん楽になるわけだよね。
その勢いで大げさに書けるわけですね。
そのやり方は玄人にはちょっと思いつかないだろうし。
ていうので「申し訳ございません」っていう感じで書いたんです。
誰に対してですか?阿久さんです。
よく阿久さんがおっしゃられた「時代を食って歌を書いていた」と。
でこれをもう少し細かく見ていくと世の中で何が起きているのか今何が求められているのか何が足りないのかっていう事をすごくこう社会学者のように世の中を見てそれの要素を自分の中に引き入れて再構築して出すみたいな。
阿久さんはそう説明したんだと思うんです。
で自分がそうやってるんじゃないかなってあとで多分解説したような気がするんですよ。
だから時代と時代とっていう説明のしかたは多分なんだけどあとで総まとめしたらそうだったなって。
これだと尽きないんですよね。
で自分はそこのところに「あ女の時代だな」とか。
でも逆に言うとそっからつまんなくなったんですよね。
「時代」って言ってからですか?うん。
阿久さんが書いてる事の面白さは「時代と」っていうニュアンスが入ってからやっぱりちょっとこう啓蒙的になったっていうか。
典型が「OH!ギャル」とかね。
はい。
・「OHギャル
(ギャル)ギャルギャルギャルギャルギャル」・「OHギャル
(ギャル)ギャルギャルギャルギャルギャル」・「女は誰でもスーパースター」女をもっと前に出してとかっていうのはプロデューサーの考える事で。
作詞家がそこまで引き受けてやるとたくさん仕事はこなせるけどつまんなくなると思うんですよね。
そのつまんないっていうのはどういった…。
ハハハ…結局「今の世の中を解説しますとね」っていう話なんか歌いたくないんですよ。
俯瞰になりすぎたって事ですか?そうですね。
俯瞰になりすぎた。
…ていうのと利口になっちゃったからほんとに書きたい事をやっぱり「何だろう」になっちゃったんじゃないでしょうかね。
僕だからこの企画のちょっと前に阿久さんの詞を僕が3つ選ぶみたいな企画があった時にまあ「津軽海峡・冬景色」は入れたんですけどそれの他に入れたのが「夢ん中」っていう歌とそれからあれですよ…。
前川さんが歌った…。
何でしょう。
すごいんですよ歌詞がね「人前でくちづけたいと心からそう思う」って歌詞があるんですよ。
書けないですよそんな歌詞。
つまり時代とどうつきあうかの話を全部すっ飛ばして「人前でくちづけがしたい」でそこで終わらずに余ったメロディーのとこ使って「心からそう思う」って歌になんないですよ。
繰り返しだし蛇足だしでも前川さんがそれを歌うともうめっちゃくちゃいいんですよ。
で阿久さんは俺はその歌を再発見した時にこの人やっぱりヤケになってるなっていうか。
要するに中から出したいものを出す場所を探してて。
・「人前でくちづけたいと」・「こころからそう思う」阿久さんの逆に作家性プロダクションではなくて作家性「自分が言いたい事」っていうのが糸井さんから見てどれぐらい出てたと思います?そういうもんではなかったのか。
いやいっぱい出てると思います。
自分の内面性みたいなものが出てる作品の方が結果的には世の中に受けていったと…。
受けてると思いますね〜。
だから演歌の時の方が出るような気がして。
つまりいろいろ自分がぜいたくになるわけですよ。
きっと実生活では。
だけど「肴はあぶったイカでいい」のあたりはあれ思想ですよねもうね。
でそうありたいってカッコして。
雨にも負けずみたいな感じですね。
だから「心からそう思う」ってカッコであっちこちつけられるようなところがあると思うんですよね。
一方で多分阿久さんすごい世の中を見ていて時代を見ていてそういう世の中になってる事を気付かないわけがないって僕思っちゃうんですね。
その80年代に入ったりとか当時80年代入った頃だと校内暴力があってまさに家庭が崩壊してるとかコミュニティーが崩壊し始めた頃だったと思うんですけど個人の。
でウォークマンが出てきてみたいな。
それが分からないはずがないと思うんですよ。
でそれこそ技術のある人であればそれを合わせる事もできたんではないかって仮説すると何でやんなかったんだろうなって。
それはね得意不得意があるんだよ。
(笑い声)だから個に個になっていくっていうのはそうだなって思っても俺はそれが増えると困るなと思ったと思うよ。
せっかく父とは何か母とは何か男とは何か女とはこうありたい理想は何だろうって考えてたのが全部一人ずつですよねってなるのは見えてても今まで俺が考えてきて得意だった事全部駄目になっちゃうじゃないですか。
自分はその歌の中に自分を入れすぎない事がより多くの人に広がる事につながるっていうふうにどこかで思ってたんですね。
自分の価値観であったりというものを入れすぎない方が。
そうしないと違う価値観の人と結び付かないから。
なるべく骨格だけ渡してみたいな。
…なふうに思っていたんですよ。
だけど阿久さん結構入れてますよね。
自分の思いっていうのを。
でも広がっていってるし。
ある種の「詠み人知らず」みたいな曲になってるし。
それは何なんだろうなぁとかっていうのはどっかで思うんですよね。
80年代以降も阿久さんは記憶に残る歌を書き続けました
・「熱き心に」
その歌は以前よりも阿久さんの意思や主張がはっきりと分かるものが増えていったように思います。
・「見つめつづける時代おくれの男になりたい」
(ノック)失礼いたします。
あっはじめまして。
いきものがかりの水野と申します。
よろしくお願いします。
よろしく。
音楽評論家小西良太郎さん。
スポーツ新聞の音楽担当の記者だった1970年阿久さん作詞の「ざんげの値打ちもない」を聴き「日本の流行歌が変わる!?」と広く伝えました。
以来死の直前まで寄り添った親友でもあります。
その小西さんに尋ねたかった阿久さんならではの歌との向き合い方。
そしてそれは時を経て変化したのでしょうか…
どれぐらいどのような意識で阿久さんが歌を書かれてたのかというところから伺いたいんですけれども。
阿久さんは結局それまでの作詞家や作曲家はある歌い手のために詞を書いたり曲を書いたり。
決定的に阿久さんが違うのはその歌い手を語り部にして自分の言いたい事を世の中へ発信すると。
だからまああのそう言うと歌い手さんには失礼にあたるかもしらんけども彼の表現のための道具だった極端に言うとね。
そこんとこが決定的に違うと思いますよ。
それは阿久さんご本人がはっきりおっしゃってたんですか。
はいよく言ってます。
その阿久さんがそれこそだんだんと時代が進むにつれシンガーソングライターが増えていって自分の言葉はこの小さな世界の中で出てきた感情を言葉にしてそれが世の中へ届いていくというスタイルのミュージシャンであったりシンガーであったりソングライターが増えてきた時に阿久さんは何を考えていらっしゃったんですかね?1つは歌がやせていく小さくなってくるなぁ。
君と僕になっちゃうからどうしても。
それとこれは個人的な意見ですけど作詞家ってねとても才能のあるヒットメーカーになる作詞家そういうタイプの作詞家ってね10年いいとこですよ。
10年書くとある種のみずみずしさみたいのが少しずつ薄れてくる。
で阿久さん70年でしょ。
まあ「ざんげの値打ちもない」から僕は彼とつきあい始めるんだけど。
79年にねちょっとそれが気になって「どうするの?ちょっと休んだら」って言ったら「何で?」って言うから「なんかちょっとねよくなくなってるよなぁ」って。
おっしゃったんですか?うん。
「どういうところですかね?」って言うからそれがねこの作品のこれというふうには言えないんだけど一つずつなんか少しなんか見え見えになってきてる気がする。
そういうふうに本人に言えなかったんだけど。
彼の詞って構造物みたいなところがあって言いたい事だの何かがコンクリートのなんかこんながっちりした階段もついて何もついてみたいのになってそれが骨子でそれに何かきれいな花が咲いてたりカモメが飛んでたり風が吹いてたりなんかっていう。
それがきれいで入っていくとコツンとあの人の世界に突き当たるってタイプの詞じゃないですかみんな。
これがねちょっとねコンクリの部分がね見え始まった。
強すぎるという事ですか。
ちょっとね。
そういうのがきっともしかするとみずみずしさがうせたうせつつあるみたいな事かもしれない。
なんか阿久さんが「放つ言葉」が詞以外でもすごく増えてきたと思うんですね。
やっぱりこう…自分をとにかく世の中に自分が思ってる事自分がこうなってほしいという事を伝えたいという気持ちはすごく強かったんですかね?そうね。
彼ぐらい自分が書いた歌の解説をしてる男はいないんじゃないですか。
はい。
はい。
阿久さんは70年代初めヒットメーカーとなった直後から晩年に至るまで自ら「作詞の技法」を解説し「仕事」を語り自分の作品のエピソードを書き残しました
それは俺の仕事だろうと。
いいかげんにしてよと。
「歌書きがいる歌い手がいる世の中があるそれを見ててああだこうだと能書き書くのは俺の仕事なのに全部やっちゃうのあんた」と言うと「ごめん」と言いながら「書きたい」。
あっ書きたいと思われてたんですね。
書きたい。
ああそうなんですね。
なんかすごくあれだけのヒットソングを飛ばしてあれだけの名声を手にしておられるけど認められたいという気持ちがなんかすごく強いんじゃないかというふうに。
あのね勝ちたいの。
あっ勝ちたいんですか。
勝ち負けなんですね。
うん。
あのねひところねレコード大賞の作詞の審査部門に作詞家を入れるっていう試みを作曲家協会とTBSがした事があるの。
で俺がその作詞のグループ仕切ってる頃になかにし礼と山口洋子が入ってきて「阿久さんもちょっと審査に入りな」と言ったら「いや絶対に嫌だ。
僕は取る側に回る。
ずっといたい」。
とんでもない人ですよね。
あのね話飛び飛びになるけど入退院を繰り返しますね。
ほとんどもう危ないんじゃないかなというくらいになっても僕は予約とかなしにいきなり飛び込んでいくんですけどいつも座ってるんですよ。
寝てないの。
何だってまあ勝ち気感に強い人なんだろうと。
今もし阿久さんが生きていらして何をおっしゃると思います?やはりメッセージするでしょうね。
日本よ日本人よですよ芯の芯は。
だからそれを言うとあの顔で80になってねまあおっちゃんまたうるさい事言ってるわってあなたたち世代には思われても彼はししとしてきっと言いつのってるだろうと思うな。
あ〜…。
「愛せよ」が書かれたのは1988年昭和63年の10月。
阿久悠が昭和最後の秋につづった歌です
すごいですよこの繰り返し。
「愛せよ愛せよすべて愛せよ」。
「人を自然を時代を」。
面白いのが前半部分に「時代は常に姿を変えて」って「時代」って歌わせてるのにわざわざ文字数を合わせ「時代を」ってルビまで振って「時代」って言葉を使って。
言葉の使い方そして阿久さんの他の歌に比べてとりわけはっきりとしたメッセージの表現にひかれました
「愛せよ」…だからつながれって事ですよね。
つながってでも相手の事を受け入れてつながって。
だからそこに阿久さんの意思を感じるというかそれをあえてやれっていう事の「愛せよ」ですからね。
命令形だから。
諦めるなっていう事じゃないですかなんか。
あぁはじめまして。
よろしくお願いします。
作詞家のいしわたり淳治さん
解散した人気バンドSUPERCARの元ギタリストです。
Superflyや少女時代など数多くのアーティストに作品を提供しています。
シンガーソングライターが全盛の今プロの作詞家として活躍する同世代のいしわたりさんに是非お話を伺ってみたかった。
作詞家阿久悠の作品は果たして「時代おくれ」なのでしょうか?
阿久さんの歌詞っていうものを意識される事ってありますか?え〜と今の音楽に圧倒的に欠けてるのは映像的であるか否かってところが大きくて。
例えば「上野発の夜行列車おりた時から」ていった時にもう映像浮かんでるじゃないですか。
でも今の音楽って「僕の心の青い炎が」みたいな。
これ映像浮かばないでしょう?ハッハッハ…辛辣ですね。
そういう概念的なもの概念的にどんどんどんどんなっていてなんかこうさみしかったら「さみしい」って結局書くし今は。
だけどカモメが飛ぶ様で映像的に伝えるだけであとさみしいと感じるかどうかは聞き手の自由みたいなところにいっているのがやっぱりあの時代の阿久さんを含めの歌詞で。
それのいいところってやっぱり聞き手の参加意識が一個のっかってるんですよ。
映像だけを浮かべてそこで何かを感じるというのはこれ能動的な作業。
だけど「青い炎」を押しつけられるのは受動的な作業で。
もうのるか反るか要は拒絶するか全部を受け止めるかのどっちかしかなくて。
なんかそういう聞き手に委ねられた部分というところが大きくてそこすらもコントロールされているっていう完璧な形。
「言葉」としての形というイメージが阿久さんですね。
なんかこうシンガーソングライターみたいなやっぱりどうしても日本って自分で書いたものが一番偉いみたいな意識があって。
そうなってくると作品って似てくるじゃないですか。
特に技術がない状態のものが世の中に出てしまうので。
それを繰り返していく要は拡大再生産されるとかってどんどんどんどん続いていくっていうのはあまり健康的な事じゃないのでいつかまたその作家というものが作ったよくできた音楽みたいなものがちゃんとこう世の中を…流れるような時代になってほしいなって気持ちはあります。
すっごい難しい質問なんですけどなぜこう…阿久さんが時代とずれてるように見えた…時代とずれてしまったのかもしれないけどなぜだと思います?なんか作詞って作詞しかできない人っていないと思うんですよ。
作詞ができる人ってもっと言うと他の企業に入ったらすごく仕事ができて出世できる人なんじゃないかなって思うぐらいやっぱり客観的でなくちゃいけないし行動力もなくちゃいけないし言葉に力がなくちゃいけないしだからともすれば音楽業界が魅力的でなく見えた場合才能ってもっともっとね世の中に流出してくわけじゃないですか。
だからある意味その…阿久悠さんが作ってきた歌謡曲の世界というものがとっても魅力的でみんながひきつけられたがゆえにそこにたくさんの才能が向かってきていわゆるニューミュージックというか新しい音楽がそこで生まれて阿久さんすらも飲み込んでいったという構図なのかもしれない。
阿久さんが80年代に入って言った事はウォークマンが出てきてヘッドホンだったりイヤホンで聴くようになってそれまではまあ家のレコードプレーヤーだったり街なかの電気屋さんだったり街鳴りというか歌というのはみんなで聴くとか結局みんなで聴いてしまうものだった。
で10万枚のヒットでも10万枚のヒットという事はその先に100万人ぐらいいてそれぐらい聴いてたと。
今は10万枚のヒットだったら10万人しか聴いてないとヘッドホンで。
でまあその表現はちょっときつすぎるかなって僕は思うけれども歌を点滴するようなものだと。
というような言い方をされてたんですね。
でその時のヘッドホンで聴く音楽歌というものと阿久さんが見ていた歌というものは違っていてこっちの歌が時代に呼ばれなくなったというかという事なのかなと。
そうだと思いますまさに。
今空気震わせて音楽を聴いた事があんまりないっていうような。
自分しかどうせ聴かないから表現ってどんどんどんどん過激になっていくし過剰になっていくしあけすけになっていくし…。
多分なんか今話してて思った事ですけど多分こっちの歌に僕ひかれてるんだと思うんですよ。
うんそうだと思います。
でいきものがかりがやろうとしていたのは多分こっちだと思うんですね。
もう多分完璧に。
じゃあ「ありがとう」が結婚式で流れました。
なんか花束贈呈の時に。
これ多分こっちの歌だと思うんですよ。
で「じょいふる」が学校の運動会でかけっこで流れました。
こっちの歌だと思うんですよ。
これずっと実現し続けるためにはどうしたらいいのかな難しくなってるなっていうのが僕の問題意識なのかな。
阿久さんの歌は聞き手一人一人の世界にとどまる事なく空気を震わせ多くの人たちの心をつないでいきました。
それは歌の在り方について悩む今の僕にたくさんのヒントを与えてくれるようにも思えます
もっと阿久さんの言葉に触れてみたくなりました
阿久さんが27年間書き続けた日記が明治大学に保管されています。
ヒット連発の絶頂期を過ぎた1981年から亡くなる2007年までの直筆の日記です
今回特別な許可を頂いて読ませて頂きました
全部見たくなっちゃいますね。
つぶさにね。
「逆境を好機に変える天才」と書いてありますね。
「逆境を好機に変える天才」。
推論ですよすごく推論ですよ。
推論ですけどこの日記がいつか人の目に触れるっていう事を絶対に意識しながら書かれてらしたんじゃないかなと思うんですね。
なので本当に自分が苦境であるとかもしかしたら書けなくなるかもしれないという不安をすごくここのところで抱えていたらまだ書かないんじゃないかなと思いますけどね。
これを書いてそれを乗り越える自信がおありになったんじゃないかと。
飢餓感と近いところなんですかね。
今から吹く風って事?それともないものをつくり出すって事ですか?フフッ。
阿久さんとの対談ですね。
ハハハッ。
フフフッ。
ワールドベースボールクラシックを見てたんだなと思って。
めちゃくちゃ個人的な事を言うとワールドベースボールクラシックで僕らの曲がCMソングになったCMが流れてたんで聞いてたかな〜とか。
ハハハッ。
2007年の日記帳…。
この年の8月1日阿久さんはがんとの闘いを終え70年の生涯を閉じます。
その中にこんな言葉がありました
いや〜これぎりぎりですね。
ちょっと想像できないなぁ。
「死ぬなまだ死ぬなまだまだ求められているそれに応える責任があるたっぷりと知らしめることだ体が弱っても頭と右手が元気ならいい飽きるな生きることに飽きるな書けば誰かが喜ぶ書けば道が出来る道はつづくそれを見とどけよ」。
自分が…何だろう名声を得たいとか自分が自己実現をしたいとかそういう話は出てこないというか誰かが求めてくれてそれに対して応えなきゃ「お前には責任があるんだよ」って自分自身に言いかけて。
で最後に「書けば誰かが喜ぶ」と。
「誰か」って言ってるんですよね。
絶対自分以外の誰かがいてその関係性の中で「お前は書くべきだ」「生き続けるべきだ」「書き続けるべきだ」みたいな事を言ってますよね。
阿久さんは常に誰かに向けて「歌」を書き続けようと送り続けようとしていました…
最後に会いたかったヒットメーカー。
阿久さんと同じく放送作家を経て作詞家になった秋元康さん。
AKB48のプロデューサーであり阿久さんの持っていたおよそ6,800万枚のシングル売り上げ記録を塗り替え次々とヒットを生み続けています
秋元さんはその…阿久さんも放送作家からスタートしていて作詞家っていう大きな肩書があるけれどもやられた事は作詞家っていう範囲にとどまらなくて勝手な判断ですよ勝手な判断ですけど表面的な事が違うだけで本質でやってる事は紙の前なのかPCの前なのか分かんないけどやっている事は同じというか。
そうそう。
だってそれはもう阿久悠さんに対する憧れというか阿久悠さんを目指したわけではなくて自分が気付いて仕事をして40年近くしてふっと見たら何だこの道は結局阿久悠さんの延々歩いてきた道なのかと。
つまりそれがもっとすごく手の届かない所まで延びてるわけ。
いやこれ無理だなっていう感じがするわけ。
だからよく言うのは「北の宿から」と「ピンポンパン体操」とを書けるっていうところがすごいんだよね。
それが冗談で「北の宿から」も書いてるんだけれども「ピンポンパン体操」も書いたんだよねっていう感じではないんだよね。
つまり同じなんかこう真剣で「ピンポンパン体操」を書いてるところがすごいんだよね。
多分ねやっぱ阿久悠さんてねほんとにねスタイリッシュなんだよね。
つまりハードボイルドに生きたかったんだと思うんだよね。
最後まで愚痴らなかったって小西さんがおっしゃってました。
ほんとに亡くなられる直前に病室に行っても寝てるところを見た事がないって。
あんな人は見た事がないってずっと崩れなかった。
そういう…人なんだよね。
だからなんか…文章にしても阿久悠さんがお書きになったものを読んでもぶれてないのねずっと。
はい。
言い方を変えるとその…なんかもっと肩の力抜けばいいのにぐらいな。
皆さんおっしゃってますね。
でもそれはすごいきっちりなさってるんだよね。
でも僕は全くないですよね。
だからそれがなんか…。
すごく違うんですね。
その緊張感のなさっていう僕なんかは。
だから阿久悠さんがすごいなすごいストイックでその…刀の抜き方みたいなものが…。
完全に真剣ですよね。
そうそう。
それがピリピリくるわけ。
「ざんげの値打ちもない」とかが大好きだし「時の過ぎゆくままに」もそうだけどもそういう詞を読んでるともうほんとにこれはもうすごい思いで書いてるなっていうのが分かるんですよね。
もちろん僕も書く時は人間ねヘラヘラしながら書けないじゃない?でもヘラヘラしながら書けないけども闘い方が何か違う気がしますよね。
どれぐらい秋元さんが入ってるんですか?歌詞の中に。
いろんな人が歌って。
でもちろん見せ方はまあヘラヘラしてますとかなんかそのそういうふうに映すけどヘラヘラしてちゃ書けないわけじゃないですか。
必ず入っちゃうじゃないですか嫌でも。
それどれぐらい入ってるものなんですか?それは全部入ってるよね。
全部入ってるんですか?うん。
もう100%入ってる。
つまり100%入って自分の中でうぬぼれない限り出せないじゃない世の中に。
あのいろんな方にいろんなお話を聞いてう〜ん…。
分かった事もあれば聞けば聞くほど分からなくなる事もあって。
阿久さんは「時代」っていう言葉をすごく頻繁に使っていて例えば糸井さんは「時代っていう言葉を阿久さんが使い始めた時に阿久さんの歌詞がつまらなくなったんではないか」っていう辛辣な事をおっしゃってましたし。
いろんな見え方があってその中で最後に秋元さんに伺いたいんですけど阿久さんがどのように時代っていうものに対して自分を置いていたのかって…。
僕は阿久さんがどういう気持ちであるいはどういう意図で書いたのかは分からないけれどもただ…阿久悠さんたちの世代ってやっぱり痩せ我慢の世代なんだよね。
例えばさ時代というすごく抽象的な言い方だけど時代という「サウナ」に入るとするじゃん。
ね。
時代というサウナで汗だくなの。
俺多分もう5分ぐらいで「熱い!」って言って出ていくの。
でも阿久さんはそこでずっとこう腕組みしてタラタラタラタラ汗をかいてるんじゃないかなと思う。
だから何を言いたいかというともしも阿久さんが糸井さんが「時代という言葉を使った時からずれた」とおっしゃるんであればでももうちょっとするとまた阿久さんがぴったり合う。
つまりそれもよく言うんだけどさ「止まってる時計は日に2回正確な時間を表す」じゃない。
だから一番駄目なのは時代を見て追いかけたり仕掛けたりしてそうすると1分遅れとか1分早かったりするじゃない。
だからなんか阿久さんはそれが分かってるからずっとそのサウナの中でずっと汗を流しながらただひたすらお書きになったのかなっていう気がするんだよね。
自分はここで書き続けていれば。
そうそうそうそう。
なるほど。
阿久さんは決して時代を見失ったわけではなく時代から身を引いたわけでもなかったのかもしれません。
こびる事もおもねる事もなく同じ場所に立ち続け「移ろう時代」へ確固たる意思を持って阿久悠は自らの言葉で問い続けていました
今ほんとにみんな分かり合えてないんでその中でみんな自分の正しさだけを主張してしまいがちですぐ手に入る正論を簡単にポッと武器のように出してしまいがちでもあるような気がしてて。
「俺はこう思うお前はどう思うんだ」の「お前はどう思うんだ」が出てこないっていうか。
じゃあこう突き合わせようっていうのが出てこないから。
俺が正しい俺が正しい俺が正しいってなってしまってるような気が僕にはするんで。
そういう時にその「愛せよ」っていう言葉が他者に向けての言葉としてもしくは自分と同じように時代を生きてるそれぞれの一人の人間として生きてる人たちにもっと愛した方がいいんじゃないか人を。
う〜ん…自分以外の存在を。
いろんな事があってもっていう事がすごくメッセージとして強いものがあるしある種の答えとまではいかないけどヒントというかすごく提示してくれてるような気がするんですよね。
そうすると必ず何かが起こっていくっていう。
お疲れさまで〜す。
よろしくお願いします。
いきものがかりでもお世話になっている亀田誠治さんにサウンドプロデュースをそして山本彩さんに歌をお願いしました
阿久さんは当時実際ご自分が書いた原稿をそのまま作曲家の方であったりとかにワープロ打ちとかではなくて渡されてたらしいんですね。
あ〜すごい。
きれい。
(亀田)手書きだと全然違うね。
(山本)違いますよね。
これはあっちに持っていって…。
どうぞ。
もしよろしければ。
ありがとうございます。
ちゃんと前に立ってきますね。
うん。
じゃいきますね。
(山本)はい。
・「時代は常に姿を変えて」・「若い心を試す」・「何が恵みで何が罪か」・「このままいてもいいのか」・「愛せよ愛せよすべて愛せよ」・「人を自然を時代を」・「きみよ愛せよきみよ愛せ」・「愛せよ愛せ愛せよ」・「愛せよ愛せよすべて愛せよ」・「人を自然を時代を」・「きみよ愛せよきみよ愛せ」・「愛せよ愛せ愛せよ」・「愛せよ愛せ愛せよ」
(パッド君)
惑星探査機ボイジャー。
2017/09/23(土) 23:00〜00:00
NHKEテレ1大阪
ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」[字]
「津軽海峡・冬景色」「UFO」…誰もが知る数々の昭和歌謡を作詞した阿久悠が亡くなって10年。仕事と人生をいきものがかりの水野良樹がたどり、自分のめざす歌を問う。
詳細情報
番組内容
他者となかなか分かり合えない今の時代、より多くの人々とつながれる歌とは?水野良樹がその答を、阿久悠の軌跡に探す。ヒットチャートや賞レースを席巻した70年代。次第に大ヒットからは遠のくが、記憶に残る歌を書き続けた80年代以降。ピンク・レディーを共に生んだディレクターたちや糸井重里、いしわたり淳治、秋元康と阿久悠をめぐる対話を重ね、日記を読み、未発表詞の作曲に挑む。タイトルは「愛せよ」、山本彩が歌う。
出演者
【出演】水野良樹,深田太郎,飯田久彦,糸井重里,小西良太郎,いしわたり淳治,秋元康,亀田誠治,山本彩
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
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