今年は大政奉還から150年目、つまりは明治維新から150年目の節目の年です。私は時々読書感想文やTwitterなどで書いてきたように、明治維新について広く信じられている歴史とは、軍事クーデターの結果政権を手に入れた明治新政府が、自らの正当性を確立するために都合良く編纂した「正史*1」に過ぎず、彼らに絶対的な正義や大義があったという考え方は懐疑的です。
それを言ったら「歴史」とされているものは常にそればかりで、日本に限らず世界中に当てはまるのでしょう。宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の中で「その時代の歴史を知るには、その時代の人が信じていた歴史を知ることである」と書いています。
さて、堅苦しい変な話から始めてしまいましたが、福島県の裏磐梯でカヌー遊びをした翌日は、会津若松を訪れて鶴ヶ城を見てきました。ここはご存じの通り戊辰戦争の主戦場となった場所です。戊辰戦争は大政奉還の翌年でしたので、来年で150年を迎えることになります。
ここには明治維新に関する「正史」からはこぼれ落ちた、敗者側の歴史がたくさん詰まっているはずで、一度見に来なくてはと思っていました。
鶴ヶ城の長い歴史の一部が垣間見える石垣
白河にほど近い宿泊地からは、高速道路を使わずに山道と国道118号を使い会津若松市内へ向かいました。ところどころで雨がぽつぽつ降り始めていましたが、風はなくまだまだ穏やかです。
午前9時過ぎに鶴ヶ城に到着しましたのですが、駐車場の標識に従って進んでいくと、なんとどう見ても門跡のような石垣の間を通り抜け、堀を渡った先に誘導されました。どうやら西出丸跡がそのまま駐車場になっているようです。なのでその周囲はこんな城跡らしい風情の堀と石垣に囲まれていました。ちょっとビックリです。ここはもちろん鶴ヶ城跡に一番近い駐車場で、それほど広くありません。休日はすぐに一杯になってしまうのかも。しかしこれ以外にも東口や南口駐車場があるようです。
さて、車を停めた西出丸跡から梅坂を登っていくといきなり大きな石垣が目の前に現れます。ここにも門があったのでしょうか? クランクした枡形を通り抜けてさっそく天守へ行ってみましょう。
全国の城跡はだいたいそうですが、中でも鶴ヶ城は桜の名所として有名です。花の季節はさぞ壮観なことだろうと思わせるだけ、立派な桜の木がたくさんありました。なお、まだ紅葉は始まっていませんでした。
会津若松城の歴史はわりと古く、創建は14世紀だそうです。天守台の石垣はいつ積まれたのかよく分かりませんが、見たところ野面積みのような小さな不揃いの石で積まれていて、かなり古い石垣のように思えました。
角はもちろんちゃんと算木積みされています。この天守台はかなり巨大で、現在の再建天守も端っこまで使われてないのが不思議に思っていたのですが、なんと16世紀の蒲生氏の時代には、7層の巨大な天守が建っていたとか。その天守は残念ながら地震で崩壊してしまったそうです。
全体像はこんな感じ。鶴ヶ城の特徴の一つはこの勾配が緩やかで裾野広がった巨大な石垣ですが、これも野面積みされた古い石垣だからと思えば納得です。
天守の横にあったV字型の武者走りと呼ばれる石垣。左右に階段が作られています。このような構成の武者走りは他に例がなく珍しいものだとか。左の階段は修復されているのか、今でも使えそうなくらいに綺麗ですが、右は崩落しているようでした。
そしてこちらはかなり巨石が使われているようですが、石の形状や大きさが不揃いですし「打込み接ぎ」でしょうか? 他にもさらに時代の新しい「切込み接ぎ」っぽい石積みも散見されました。会津若松城は歴史が長く、主も入れ替わりも何度もあったため、改修や増築などが何度も行われたのだろう、ということがよく分かります。
なんの表示もなかったのですが、井戸が何カ所かにありました。覗き込むとまだ水が沸いてる様子。籠城戦にとっては水の確保は何よりも重要なこと。泰平の江戸時代にはその役目は半分も果たしていなかったのでしょうが、戊辰戦争では1ヶ月間の籠城を支えた重要な井戸だったのかも知れません。
特別企画展「戊辰前夜」が行われていた天守閣
といことで、いよいよ天守閣に入ってみます。
冒頭にも書いた通り、来年はこの会津若松城が戦場となった、戊辰戦争から150年目を迎えます。その前年となる今年は、会津若松城内で「戊辰前夜」なる特別展示が行われていました。
京都の二条城では今年「大政奉還150年」ですし、薩摩や長州その他一般的には「明治維新150年」と言われています。しかしここ会津では「戊辰150年」であり、その展示内容にも「幕末」という言葉こそ使われているものの「維新」と言う言葉は出てきません。そこに会津の意地を感じます。もちろん、歴史は様々な見方があるので「維新」が正史に過ぎないのであれば、会津の意地もまた歴史の一面に過ぎません。
その重要な部分は撮影禁止だったので写真はありません。しかし松平容保公が京都守護職を引き受けていこう、どのような経緯をたどって会津藩が戊辰戦争へと向かって行ったのか、貴重な資料や文化財などとともに展示されています。特に、京都守護職時代に孝明天皇から松平容保公へ送られた手紙や下賜された品々などは、大変に興味深いもので食い入るように見てきました。
そしてもちろん、3年前の大河ドラマ「八重の桜」の主人公として取り上げられた、新島八重(山本八重)さんなどなど、その後の明治時代まで足跡を残した会津の人々に関する展示などもあって、大変盛りだくさんでした。
来年になるとさらに展示物が一新されるようです。「1868年、その時会津に何が起こったか」と題したもので、再度それも見に来たいと思っています。
さて、コンクリート天守とは言えせっかくですからてっぺんまで登って会津若松の市街地を高いところから眺めてきました。これは南東方面ですが、どっちを向いてもぐるっと周囲は山で囲まれており、会津若松が盆地であることがよく分かります。
現在の建物は戦後に建てられた典型的な鉄筋コンクリート製の再建天守です。
本丸跡から眺める姿が一番美しいのではないかと思います。なお天辺の鯱の目には2カラットのダイヤが埋め込まれているので、晴れた日はもちろん、この日のように曇りでも角度によってはキラッと目が光るそうです。
なお芝生の広場に舞台が作られていますが、これは今週末に行われるお祭りで使われるようです。新島八重役をやった綾瀬はるかさんもやってくるとか。壁に並んでいる家紋はこの会津若松城を支配した歴代大名家のもの。江戸時代の保科氏から松平氏のあたりは圧倒的に有名ですが、戦国時代まではいろいろな大名が入れ替わっていたことを始めて知りました。
木造で再建された南走長屋と干飯櫓
さて天守閣から南にある小さな2層の干飯櫓と、そこに延びる南走長屋は、天守閣とは違って平成に入ってから当時の技法をなるべく忠実に再現した木造で再建されています。
一方、ちゃんと近代兵器のことも考えられていたようです。でもこれらは戊辰戦争では役に立たなかったのでしょう。鉄砲はともかく、相手は大砲を撃ち込んできたわけですから。
それにしてもやはり城は再建するなら木造にして欲しいですね。名古屋城の木造再建の計画は進んでいるようですが、それがきっかけになって、全国の昭和30〜40年代に建てられたコンクリート天守も、そのうち木造になったら良いのに、と思います。もしろん、この鶴ヶ城も。
ということで、百名城スタンプも無事にゲットしました。これで17個目。まぁまぁ予定通りのペースかと思います今年中にあと3個くらい集めたいところです。
その他
本丸の南東部にはひっそりと「荒城の月」の歌碑がありました。作曲した滝廉太郎は大分県の岡城をモチーフにしたとのことですが、作詞の土井晩翠は仙台の青葉城とともに、この鶴ヶ城をイメージして詩を書いたそうです。明治後期のことですから、まだ戊辰戦争の記憶は今よりもずっと新しく、天守が取り壊されて放置されていたとすれば、実際のこの城跡は荒れ果てていたのかも知れません。
さらに本丸の隅っこには麟亭という茶室があります。これは付属する待合室の方ですが、超小さい建物です。これらは千利休の息子が建てたものと伝わっているそうです。
にじり口とか。現代人でも出入りは出来そうですが、昔の人は今より小さかったそうなので、出入りにそれほど苦労は亡かったのかも。
なおこの麟亭は天守閣への入場とは別に入場料が必要ですが、共通券を買うと割安になります。ただし窓口で何も言わずにチケットを買うと、デフォルトで共通券が出てきますので、天守だけで良いという場合は明確にそう言った方が良いです。
またこの麟亭では600円でお菓子付きの抹茶をいただくことも出来ます。
何やら屋台のようなものが並んでる一角があったのですが、荒天のために中止となっていました。この時点では風も雨も大したことなかったんですけどね。まぁ仕方ありません。
ということで、会津若松城散策は以上です。まだ時間はあるのでもう少し会津若松市内をもう少し散策してみましょう。と言うことで続きます。
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*1:その国の政府が正統と認め、対外的に主張し、また教育する自国の歴史