19世紀、イギリスは大英帝国(だいえいていこく)と呼ばれ、植民地・海外領土を合わせると、世界最大領土をもつ超大国でした。
東アジアの大帝国・清は、そのイギリスに対抗できる軍事力がなく、あっさりと「アヘン戦争」で負けてしまいます。
負けた清は、多額の賠償金を払い、香港島を割譲しました。香港島はイギリスの植民地になったのです。
その世界最強の軍事力を持つイギリスに、日本の小さな地方政権でしかない薩摩藩が、「薩英戦争」で、負けるどころかイギリス軍を追い払ってしまったのです。
薩摩藩はイギリスの艦砲射撃により、鹿児島城下の約一割を焼かれ、軍事施設にも損害を受けました。
しかし、「ちっぽけな薩摩なんか、すぐ降伏してくるだろう」と油断していたイギリスは、予想外の損害を被ります。
薩摩藩の放った砲弾がイギリス軍の旗艦ユーライアラスに命中したのです。艦長・司令や次官司令などの士官が戦死しました。
その後、イギリス軍は劣勢に立たされ、薩摩への攻撃を諦め、講和して横浜に逃げ帰ります。
この薩摩の戦勝に、世界中が驚きました。
当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
参照元:薩英戦争-ウィキペディア
スポンサードリンク
薩摩藩は海外と貿易して力をつけた
江戸時代、日本は鎖国をしていました。しかし薩摩は琉球(沖縄)を通じて、密貿易を行っていたのです。
薩摩藩の第11代藩主・島津 斉彬(しまづ なりあきら)のときには、西洋の工業技術を積極的に取り入れていました。
富国強兵のため、地雷・水雷、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設をしました。
その他、ガラス・ガス灯の製造、水力発電や電信通信(モールス信号)が、薩摩藩内で実施されていたのです。
いずれも日本初ともいえる技術が実用化されていたのです。
薩摩藩以外の他藩や幕府は、ここまで熱心に西洋文明を取り入れてはいないようでした。
鎖国状態で戦のない平和な日本は、「井の中の蛙」になっていたようです。
競争の原理が働いた薩摩藩
密貿易で海外と交流していた薩摩藩は、日本国内では「鎖国」に近い状態でした。
幕府の隠密が薩摩の内情を探りに侵入すると、絶対に生きて戻れない、とまで言われていました。
密貿易や富国強兵のことも外部に知られないよう、徹底していたのです。
これは幕府を「仮想敵国」と考えていたからです。
薩摩藩内では、武術鍛錬も他藩と比較にならないほど盛んでした。「薬丸自顕流」という超実践的な剣術流派を学ぶ人が多く、農民まで習っていました。
幕末、幕府との戦で、この薬丸自顕流が大活躍します。
薩摩藩は幕府を「敵」とすることで、競争の原理が働き、世界最強のイギリス軍にも負けない軍事力を持つことができたのかもしれません。
スポンサードリンク
ひとこと
成長の糧として、敵(ライバル)の存在は、とても重要ですね(●´∀`○)