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宮川氏ご本人に許可を頂き、この記事を転載します。
なお、拡散大歓迎です。
「黎子( れいこ )は女子部の鑑( かがみ )だ。
今は立派な理論よりも、そう言うことを残しておこう。
青木、吉田、中西ーー この三人で今の十倍、二十倍の闘いをした。
男に勝る戦いをした。毎晩、二時、三時。 愚痴一つ言わずに黙々とやった。
右翼に狙われて帰れない事もあった。」
「途中で亡くなる人が損なのか。残る人が偉いのか」
「交通費もあげられなかった。食事も出来なかった。
本部は、朝8時に始まる。黎子は毎朝7時に来て、
全部、本部の掃除をやった。 一級闘志はすごい根性の持ち主だった。
本当の娘だ。 一生忘れない。日記が全部取ってあるので出版したい。
大功労者だ。完全に陰の人、裏の人だった。
ああ言う時に、あれだけやったのは、男にだっていない。
5年が50年に匹敵する闘いだった。
ローソクのように、忽然と消えた人を会長の私が、このように話をしている。
幸せな事じゃないか。そこに創価学会の精神がある。
伝統、歴史ーー目に見えない事を知らせていく。」
☆七月十六 日( ブラジルのサイトウ理事長と ).
「黎子の日記を全部読んだ。一生懸命闘った人が、早死にして、
闘わなかった人間が偉くなっていく。それでいいのか?
(創価学会はだんだん官僚的になって、本当に闘った人が認められなくて、それでいいのか?)
読みながら、刃物で胸をえぐられるようだった。」
「ある時、本当に闘っている婦人部に会った。
お金は、あるのか?と聞いたら、「 ありません 」と爽やかだった。」
(一生懸命学会に、人に尽くした人が何も得なくて、そうでない幹部や本部の人間が、内内で賞賛され、
社会的な力を得ている。矛盾じゃないか)と。
「嘆くな。僕が祈る。僕がついている。僕が見ている。全部見ている。
それでいい。それで、いいじゃいか。それで何もいらない 」と言ったんだ。
そう言う精神を忘れては、いけない。
(サイトウ理事長は、娘さんが創価女子学園に入学された報告と御礼に来日していた )
「幹部同士の間で、子供の事を言う必要はない。
自慢したりするのは、本陣の戯( たわむ )れである。」
皆んないて、そこに、足の不自由な子が居たら、僕は、その子が一番かわいい。
その子が大将だ。
恋愛して、成功して、ゴールインした人よりも、
失恋して、題目を上げて立ち上がる人の方が、僕は、数倍かわいい。
同志の集いじゃないか。
ある意味、大幹部は、自分のウチなんか、メチャクチャでいいんだ。
会員が第一だ。それが幹部だ。
「日蓮は、泣かねども涙ひまなし 」だ。
悦子( サイトウ理事長の奥さん )、悦子、
子供、子供、あなたは、それを捨てなくてはいけない。一家主義になってはいけない。
ウチは( 先生のご一家 )、そう見えるけど全然違う。
いつも妻に言っている。息子たちにも、いつか嫁が来る。でも、他人だよ。
孫も出来るだろう。でも僕は可愛がらないよ。
その分、創価学会の苦労した人を、もっと大事にするよ、と奥さんに言ったんだ。」
(奥様がうなづかれて口を開かれた )
「主人はいつも、会員さん第一なんです。私は会長である主人に、何も出来ない。
だから、せめて、会員のお一人お一人の事を祈ろう。
だから、せめて、誰かいらしたら、何でもしてさしあげようと。」
(再び、先生が )
「息子達の結婚式も、目黒文化会館で、数十人で、静かにやりたい。
「 教弥( おしえ.いよいよ )高ければ、位弥( くらい.いよいよ )低し 」
平凡な庶民でいいんだ。
あなた( サイトウ理事長 )には、それが足りない。」
「妻は私が死んだら、四畳半の部屋で、暮らすと言っている。
そして、学会の方が訪ねて見えたら、広宣流布の為に、闘っていらっしゃる方だから、私より偉い、大事にします、と言っている。」
「一切、幹部は家族のためではいけない。妻子は報障だ。」
(昭和52年7月15・16日手記 )
☆文中に出てくる黎子さんの事を、先生が「忘れ得ぬ同志」に綴って下さっている。
黎子さんはどれ程、嬉しかったであろうか。
☆『野菊のごとき青春 ☆
ーー青木 黎子さんーー
【広布の激流に黎明の光】
一冊の日記帳がある。
題して『黎子抄』。
青木黎子さんが死の間際まで綴ってきたものである。
それを親しき友人たちが一冊の本にまとめあげた。
昭和五十一年一月二十九日、ご両親に見守られながら黎子さんは三十五歳で逝いた。
美しき瞳。 美しき心。 美しき青春の人であった。
一周忌に私は、ご家族とともに学会本部で勤行をした。
そのとき、黎子さんが綴られていた日記帳の事を聞いた。
美しい字で書かれた数冊のノートを、やがて見せていただいた。
そこには、病魔との戦い、『生と死』の葛藤、信仰の素晴らしさ、友情、自己の使命・・・等々、
日々の心境が曇りなく記されてあった。
ご遺族と友人たちの意向が実り、三回忌を記念して限定出版されたのである。
その香りしたたる一冊が私の所へも届いた。
昭和四十二年から四十五年までの闘病記がある。
こんな一節が目に止まった。
『昭和四十二年 二月二十四日(金) 雨
注射。今日の雨で春を感じる。まどの外に水仙の芽が出ているのを見つける。
なんという生命の不思議さ。強さ。あの大雪の下に、あのとき、すでに発芽していたのだ。
なんとしても治るのだ。一年前の私は毎日" 死 "との対決だった。』
東京・清瀬の病院。
武蔵野の早春に心の嵐と戦う、けなげな同志である彼女の青春を思うとき、私の胸は熱くなった。
学会本部に勤務していたのは、昭和三十七年後半から約四年間と記憶している。
彼女は、あまり丈夫ではない小柄な体を駆使しての、日夜、私のそばで広宣流布への戦いの連続であった。
彼女と最初に会ったのは三十七年初夏のころである。
女子部の代表との研修会があったときに、彼女のことを女子部の先輩から聞いた。
ある銀行の人事部に勤めていただけあって、まことに聡明で、誰からも称賛される人柄であった。
懇談の折、『今までお世話になった人は?』と聞いた。
彼女は間髪を入れず六人の姓名をすらすらと言った。ふつう姓は言えても、なかなか名前までは出てこない。
記憶力抜群の人とみた。
入信は昭和三十一年六月、十五歳のときであった。都立白鴎高校の出身である。
また女子部の部隊長としても活躍してきた。
『黎子抄』に、当時、共に職場で戦っていた多田時子さんが、次のような追憶の記を寄せている。
『ひとたび仕事の事になると非常に責任感が強く、電話の応対や接客にもそつはないし、
字も綺麗に書けば、あれこれと、どれ一つを取り上げても見事にこなす人でした。
また何より素晴らしいと思うことは、どんな事があっても笑顔をたやさない人柄のよい人でした。
それは又、自己に厳しい強さを持っていたからかもしれません』
当時の学会は激流のような建設期にあった。
私も朝から夜半まで、多忙の連続であった。
その為もあって、彼女は庶務部で同じように遅くまで、その任にあたってくれたのである。
私は幾度となく彼女の健康を心配して早く休むようにすすめたことがある。
しかし、今にして思えば、彼女は自分の短命を自覚してのことか、
最後まで繁多な職場で自己の使命を全うせざるを得ない宿命的とも言える回転であった。
夜遅くなっても朝は誰よりも早く出勤した。
表面には疲れもみせぬ素振りであったが、東京の葛飾区からの往復は、さぞや疲れが増していったに違いない。
最後までグチひとつこぼさず、全ての作業を一つ一つこなしきって行った。
模範的な若き妙法の乙女であった。
『一月二十六日(月) 晴のち曇 S先生、回診あり。
先日聞きもらした右上葉の一番難しい空洞のことを聞いたら、消えているとのこと。
・・・なんということか、あんなガンコな病巣が消えているなんて。
御本尊の偉大さにただただ感謝』
昭和四十五年十一月、清瀬の病院を退院。
結核もすっかり治した。
再び職場に復帰した彼女は、不死鳥のごとく活躍し始めた。
しかし、定業であったのであろうか、心臓が弱り、数年して、多くの後輩たちの星となって逝いた。
彼女は、いまはの際に、か弱い体で起き上がり、厳として題目を唱えたあと、横になった。
そして母に向かって、
『私には何の悔いもありません。広宣流布に生き抜いたのですから世界一の幸福者です』と一言いった。
亡くなる寸前、私たち夫婦はせめてものお見舞いにと、サファイアの指輪を贈った。
彼女はそれを病床で指にはめ、ことのほか喜んでくれ
『私が死んだら、この指輪をはめてほしい』と母親に語っていたという。
一週間後、母親は彼女の希望どおり、合掌したその指に指輪を飾って霊山に送ったのである。
ご両親はいまなお葛飾の地で朝夕、黎子さんの写真を見ながら、広布の庭に活躍している。
ただ、私が胸を痛めるのは、同じ年ごろの女性が結婚し、
子供を育てる姿を見たときのご両親の気持ちはいかばかりであろうか、ということである。
彼女の生涯は自分なりに一つの主義主張に青春を賭けた、劇のような行動であった。
それはいわゆる表舞台だけではなく、辛労多き陰の舞台にも誇り高く走り、また美しく咲き薫った名優であったといえよう。
人によって短い人生というかもしれない。
しかし、彼女は幾十歳にも通ずる輝くばかりに充実しきった、黄金のごとき青春の生涯と自負していたことであろう。
多くの女子部の人たちが、野菊のごとき青春であったと口々に讃えたことは、それを証明している。
生命は永遠であるが故に、彼女は生きいきとした生命を得て、この世に再び活躍していくことを、私は信じてやまない。
(昭和55年8月21日)
以上です。
この妙法のジャンヌ・ダルクが、先生と共に作った偉大な創価学会を、原田や秋谷如き薄汚れた獅子身中の虫、
反逆者共に乗っ取られてはならない。
写真は、私が青木黎子さんに 新しく贈らせて頂いた
「芙蓉院清浄妙黎大姉」と言う大姉尊号と、
ブラジルの広布を築いた女性、故 シルビア・悦子・サイトウさんの遺影。
シルビア・サイトウさんは、数千万遍の唱題と戦いで、ブラジルの天地に妙法の華を咲かせて下さった妙法のジャンヌ・ダルクです。
青木黎子さんも、シルビア・サイトウさんも、再び師の元に生まれて、
今、立正安国の危機に生まれ、師の一大事に、 創価存亡の時に、
人類の未来を決するこの時に、生まれて 久遠よりの誓いを果たす戦いの陣列に居て下さる事でしょう。
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