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魂を揺さぶられる『言葉』の先に…

 投稿者:mission  投稿日:2017年 9月23日(土)15時07分33秒
編集済
  私達は何を感じ取り、何が見えているのだろうか?
たとえ其れが、聞く*読む*目にしただけだったとしても、「言葉」として伝えた人にも『私達と同じ体験からの願望や想望があったのだ』と感じ取れ、力強い「言葉」からは、絶望から起き上がった(行動)情景を思い描く事ができ、だから『励まされている』と心に響く…見えない「魂」で繋がるんだと思います。

大聖人様の教えや牧口先生*戸田先生*池田先生の言葉を、幅広い眼界や探究がなくとも理解できるのは、特権階級ではない庶民出身の『師』である人達が、一人一人の民衆(会員)の為に国家権力と戦われ、弾圧から何度でも立ち上がった歴史があるから。
「論」ではなく、その真実の『言葉と行動』に「魂」が揺さぶられるのではないでしょうか?

《平田真吾様》が投稿された短い「言葉」だけでも『伝えたい想い』が くみ取れます。
『私も負けない!・Interactive・双方向不二の唄』と紹介された「You Raise Me Up」
─たとえ唄であるけれど、受け手も送り手になる事ができる「対話」である。それは二ツに見えるが、実際は一ツなのです─

2005年ノーベル平和賞のステージで、Secret Gardenが「You Raise Me Up」を披露したと聞いた事があるけれど、私は2006年トリノのエキシビジョンで荒川選手が採用した時が印象的でした。
『You Raise Me Up』…あなたは私を奮い立たせる─

You raise me up, so I can stand on mountains
君は頼りない僕を励ましてくれる。だから山頂に立つことが出来るんだ。
You raise me up to walk on stormy seas
君が僕を勇気づけてくれるから、嵐の海を彷徨うことなく進める。
You raise me up to more than I can be.
あなたの存在が私に力をくれるから、自分を越えて頑張れる。

伝わる人には、必ず伝わるんです。
共有でき無い異分子達が、大聖人の御文や池田先生の御指導を作為的に「切り文」で使ったとしても、後々必ず不自然さが目立ち間違いだと気付く事になる。
そこには「一人を守る」という、真実の『言葉と行動』が無いからです。
そして其れは、果てしなく難しい事では決してない。
「気付いた人達」の輪が、勢いよく広がることを私は願っています。

この「宿坊」や今日も開催されている《元職員様》達の座談会での体験にも、その人達が踏みしめている大地で孤軍奮闘している姿を心に描ける投稿が本当に沢山あります。
『You raise me up to more than I can be.』
「宿坊の皆様の存在が力を注いでくれるから、私は弱い自分を越えて頑張れます」─感謝。


 

SaySaySayさん!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 9月23日(土)13時53分21秒
  SaySaySayさん

 「清浄」の振動が、かつてSaySaySayさんが仰ったように400ヘルツかどうなのかどうかは、私にはわかりません。情報不足です。いや、勉強不足ですか(笑い)。
 でも、「清浄」には、何もない「清浄」もあるのかも知れませんが、すべてがある「清浄」があるのではないかとは思っています。十界すべてが含まれる「清浄」です。ちょうど、すべての物質は電気的に中性で、その中にはプラスもマイナスもあるように。大気の水蒸気が上空で氷になってぶつかり合い、雲自体ががプラスかマイナスに帯電するのと同じではないでしょうか。雲同士、あるいは地上に放電して、ゴロゴロと雷になります。いや、正確には大気を渡る電気の波動が音として我々に伝わってくるわけですが。

 もっとも、「十界すべてが含まれる清浄」といっても、ヒッグス粒子があるのかないのか分かりませんが、宇宙そのものが「中諦」の“場”そのものですものね。「清浄」というのは、「生命」のそのままの“姿”で、何にでも変わり得る可能性を孕(はら)んだ当体であることをいうのかも知れません。つまり、“光の三原色”でいうなら「白」です。長い波長になれば「赤」、短い波長になれば「青」と、人間には見えてしまいます。しかし真実の当体は「白」です。波長が変わるだけです。“光子”は同じものなのでしょう。

 九州のラーメンはとくに福岡では匂いがきつくて抵抗がありました。でも、味は抜群。紅生姜が必須でした。土地の人からは、「あの匂いがいいんじゃないですか」と言われてしまいましたがね(笑い)。


 

逆になってしまいました。

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)13時17分31秒
  すみません。

7/11と8/11が逆になってしまいました。
 

「永遠の生命」の視座 7/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)13時13分53秒
  川田:生物学的な情報というと、DNAに含まれているのでしょうが、たとえば、鼻の形をどの様
   にしようとか、皮膚の色が白いか黒いかとかまた、極端にいえば、指は何本にしよう
  (笑い)とかいったことですね。
      手足の指は五本ずつでないと困りますが、鼻の高さなどは、個人によって多少の差は
   あります。
   まあ、こういったことが、DNAに含まれています。

   ところで、「現在」ということに帰りますが、哲学者の波多野精一氏は、「時と永遠」
   という著書のなかで、「現在は、けっして単純な点に等しきものではない。一定の延長を
   有し、一定の内部的構造をそなえている」といっていますが ― 。

池田:まだまだ浅いけれども、方向性は正しいといえる。まさしく、一瞬には「内部的構造」が
   そなわっていると考えてよかろう。
   むろん、構造といっても、空間的なものではないがね。

川田:そこで:まず、現在に包含された過去の内容ですが、一言でいうと、私たちの体験は
   すべて、どの様にささいな出来事でも、記憶としてとどめられているといいます。

   身体の経験は、それぞれの細胞や臓器に刻印されていますが、興味深いのは、精神的な
   体験ですね。
   私たちが、すっかり忘れてしまっているようなこと、たとえば、赤ん坊のころ、
   オネショをしてしかられたとか、となりの子供をいじめたとか、もっと古いのになると、
   産湯をつかったことまで、ちゃんととどめられているといわれています。

   その場所を大脳生理学的にいうと、側頭葉と古い皮質の海馬という領域になります。
   側頭葉には、言葉や学校で学んだ知識や、考えたことなどがとどめられ、海馬領域には、
   喜びとか、恐怖とか、悲しみとかいった
   情動的な体験がすべて記憶されています。
   それはちょうど、吸い取り紙にインクがべっとりとしみこんだだようで、
   この吸いとり紙を「記憶の貯蔵庫」と呼んでいます。

北川:よく聞くことですが、人間が死を迎える時には、過去の記憶が、ちょうど走馬燈の
   ように、すべてよみがえってくるといいます。
   しかも、それが、一瞬にですね。

池田:死に直面して「記憶の貯蔵庫」のカギが、一度に開いたわけだ。
   現在の一瞬に含まれる過去の内容が、すべて、意識の表面にうかびあがったのでしょうね。

川田:「身体と心」の章でも、少しふれましたが、私達の個人的な体験の、もう一段奥には、
   人類としての百万年にもわたる体験が刻まれています。
   原始人類が、猛獣と戦ったこととか、火を発見した喜びとかいった体験が、現実に私達の
   いまの生命に息づいています。

   さらに、その奥には、哺乳類としての経験とか、アメーバとしての経験なども、私たちの
   生命体としての全体験の内容を占めているかもしれません。
   哺乳類としての経験などは、ある程度、想像できますが、アメーバとしての経験と
   いうと、ちょっと、私たちの思考を超えているようですが、考えられないことも
   ありません。

   例えば、アメーバは、栄養分が流れてきたり、浮かんでいたりすると、それを感じて、
   すうっと寄っていきます。
   そして、とりこんでしまう。食欲の原型みたいなものですね。
   私達も家に入ったとたん、よいにおいをかぐと、たちまち空腹を感じる。そして、
   つまみ食いしたくなることもある。(笑い)

池田:ゆかいな実例だね。さて、そうすると、現在の瞬間には、少なくとも、地球の歴史を
   すべて包んでいることになるね。
   瞬間の生を、深く思索すればするほど、その内容は豊かになり、過去へと限りなくのびて
   いくと考えられよう。
 

「永遠の生命」の視座 8/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)13時01分52秒
  川田:こんどは、未来についてですが、これは「空」のところでも話に出ましたが、身体的な
   ところからいっても、私たちの身体には、生物学的にいって、五十億もの情報が
   内容としてつまっています。

   つまり、私たちの身体には、無限といっても過言でないほどの、未来への可能性を
   そなえているといえるわけです。

池田:瞬時の生命に、無限の未来をはらんでいるということだね。

川田:そうです。その未来を、現在の生が切り開いていくと考えられます。
   そこで、有名な話ですが「パスツールの軌跡」というのがあります。
   彼の偉業は世界中に知れわたっていますが、その大部分が、脳卒中のあとでつくられた
   ものであるという事実は、意外と知られていません。

   彼が脳卒中で倒れたのは四六歳の時です。もう絶望的だというので、フランス政府は、
   彼の為に研究所を建設中だったのですが、それを中止しました。
   その報告を聞くと、パスツールの症状は、さらに悪化したのです。

   ところが、彼の友人が、政府に働きかけて工事を再開させると、その症状はしだいに
   よくなり、その後、二七年間、新しい研究所で人類のために尽くしました。
   この間の業績は、彼の生涯のうちでも、もっとも輝かしいものだったそうです。

池田:うむ、おもしろい話だ。奇跡と呼ぶにふさわしい生命の力だね。
   それにしても、将来にかけた希望や、人類から苦悩をとりのぞきたいという目標への
   情熱が、まさしく、医学的な不可能をも可能にした一つの例でしょうね。

川田:そうしますと、希望、期待、未来への情熱などは、人間生命に含まれる未来をひきよせる
   力と考えられますね。

池田:希望の精神の躍動、未来を信じ行動する情熱などは、人間生命にとって、未来への原動力
   といえます。
   だからこそ、希望と目標を失い、絶望の底に沈む人は、みずからの生をとざすことにも
   等しいのではなかろうか―。

北川:ウィーン大学の神経科の教授でもあり、ユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に
   入れられ、死線を越えてきた、フランクル博士は、その体験を託して有名な
   「夜と霧」という本を書いています。
   その中に、次のように記されています。

   「彼自身の未来を信じることができなかった人間は、収容所で滅亡していった。
   未来を失うと共に、彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも
   転落したのであった」とあります。

池田:博士が生き延びることができたのも、未来にかけた信念の賜物だろうね。
   希望、夢、使命、信念などは、未来を開く力であり、内的な主柱であり、力強い生命流の
   内容だと思う。

   私達の生命流は、現在の瞬間に生きながら、過去の全ての体験を含み、それを基盤と
   しながらも、無限の可能性をはらんだ未来を切り開いていく。
   具体的にいえば、過去のあらゆる記憶を再現し、回想させつつ、未来への希望あふれる
   目標に向かって、出立していくのが、現在の瞬間の生というわけだ。

   したがって、過去の生も、そのすべてが現在の内容となり、未来のかぎりなく開かれた
   人生の基盤もまた、いまのこの一瞬に集約されている。
   つまり、過去、未来と切り離された現在は、現実には存在しないし、現在の生に包含
   されない過去もなければ、未来もありえない。

   日蓮大聖人の「御義口伝」には「已(い)とは過去なり来とは未来なり已来(いらい)の
   言の中に現在は有るなり」とある。
   現在の生と、過去、未来の生の本源的なあり方を考えさせてくれる至言です。

北川:過去といい、未来というも、その本源をたずねれば、現在と一体である。
   しかも、その現在の生に含まれる過去と未来は、私達の生命を、その内奥まで深く
   たどればたどるほど、かぎりなく広がっていくのですね。

 

「永遠の生命」の視座 6/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)12時46分46秒
  「生命を語る」単行本 第一巻 時間の謎
「瞬間と永遠」p164~179

北川:これまでのところで、私達の生命にとって、持っている時間の不思議な性質が、だいぶ
   わかりかけてきたようです。
   だが、もう一点、時間の謎のうちでも、もっとも根本的な、つまり、過去、現在、未来と
   いうことについて、おうかがいしたいと思います。

   古来、多くの哲人は、万物が時の経過と共に転変していく様を、川の流れに例えています。
   西洋では、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが「万物は流転する」との名言を残して
   いますし、東洋仏法でいう「輪廻(サムサーラ)という言葉も、川の流れを表現したもの
   だとされています。

池田:うむ。
   よく「時が流れる」というけれども、今のヘラクレイトスの言葉が意味しているのは、
   流転するのは ”万物” ということです。
   ”輪廻” という場合も同じです。

   最初に話し合った様に、実在するのは、宇宙、物体、生命です。
   その一切が運動し、変化し、流転している。
   この運動、変化、流転を認識する枠組みが時間、空間です。
   だから、”流れて”いるのは、万物なのだけれども、視点を考えると、時間が流れていく
   ように思えるわけです。

北川:ところで、こうした万物の流転によって感ずる時間の経過から、過去、現在、未来という
   概念が出てくるわけですが、
   これを、川の流れに例えますと、未来は絶え間なく現在に流れ込み、その現在は瞬時に
   して過去になっていきます。

   しかし、過去は「かつてあった」のであり、未来は「未だない」ものであって、実在する
   のは「現在」の一瞬しかないということですね。

池田:うむ。私達の生命の実在は、この瞬間にしかない。私達は紛れもなく、現在の瞬間に、
   苦と楽を実感し、幸、不幸とを感じつつ生を営むわけです。

北川:「現在」という一瞬は、幾何学で言う「点」みたいなものとして考えられて
   いますが ― 。

池田:幾何学の「点」は位置だけあって、その内容がないという事実をあらわしているのだね。

北川:そうです。大きさ、重さ等は認めていません。

池田:「現在」という瞬間をその様に考える事は大きい錯覚です。
   そこには、実に豊かな内容が含まれている。
   私達の生命のこの現在の一瞬の実在を考えてみても、そこに実は、過去の全ての記憶が
   包含されているのです。
   肉体的な記憶もあれば、精神的なものも、しっかりと刻み付けられているにちがいない。

   また、未来への希望、期待、欲望、活動性なども、現在の瞬間の生命に備わっているね。
   さらに、私達の身体自身のもつ各種の生物学的な情報も、未来を先取りした肉体の智慧と
   いえるでしょう。
 

圧政 vs 市民 の戦い

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 9月23日(土)12時09分32秒
  安倍首相が国連で演説し、トランプ氏とグルになって、戦争を散々けしかけたおかげで、北朝鮮が太平洋上で過去最大の水爆実験を行う可能性が出て来た。

安倍政権は、北朝鮮問題の本当の危機はもっと先に来るから、今のうちに衆院解散しておくのだなどと、訳の分からない屁理屈をこね回していたが、とんでもない読み違えだ。

これ以上は無いというほどの危機を、今現在に引き寄せてしまったではないかっ!!

ドイツやフランス、韓国の指導者と比べると、まるでクソガキレベルの知性しか持ち合わせていない様に見える。ロシアの外相が、幼稚園児の喧嘩と評していたがその通りだ。

万が一戦争になったとしても、アメリカ本土が大被害を受ける可能性はまだ低く、ある意味いつも通りのやり方だが、日本はそうは行かないのだ。

壊滅的被害を受けるのは、ほぼ確実だ。仮に生き延びたとしても、日本、韓国の経済は壊滅。全世界の経済も致命的な影響を受けるだろう。

もしもそんなに戦争がしたいなら、戦争を始めた指導者の家族と親類縁者は、真っ先に最前線で戦う、という法律を成立させてからにしろ!

日本には、たとえ戦争をして負けても責任を取らず、自分達だけは生き残るという、不思議な階級が存在している。
安倍首相は間違いなく、そういう階級に属する者だろう。

私の様なルンペンプロレタリアートとは違うし、戦争になっても自分は死なないと、とんでもない誤解をしているネトウヨ達とも違うのだ。


そんな安倍首相が、この28日、やっと開催された臨時国会を、所信表明もせず審議にも応ぜず、モリカケ隠しの為、冒頭解散する。

こんなデタラメな安倍自公がその後の選挙で勝てば、どんな事になるか、言うまでもない。

無関心を決め込んでいたら、いつの間にか徴兵されていた…程度ならまだいいが、気がついたら家も家族も消えていた、などという事にならぬ様、次の選挙、絶対負ける訳にはいかない。

ここへ来て、劣勢を伝えられていた野党4党と市民の連携は、逆に強くなり始めている様だ。
座して死を待つよりは討って出よ、だ。
死に物狂いになった軍の強さを、腐れ貴族と化した、自公のアホどもに見せつけてやればいい。
私も野党の側に立つ。

間違いなく救国の戦いだ。ヤツらにはひとかけらの正義も無い!






 

我が師.池田先生との思い出 No.9

 投稿者:シャクソンファイブ  投稿日:2017年 9月23日(土)11時51分18秒
  宮川氏ご本人に許可を頂き、この記事を転載します。
なお、拡散大歓迎です。


「黎子( れいこ )は女子部の鑑( かがみ )だ。
 今は立派な理論よりも、そう言うことを残しておこう。
 青木、吉田、中西ーー この三人で今の十倍、二十倍の闘いをした。
 男に勝る戦いをした。毎晩、二時、三時。 愚痴一つ言わずに黙々とやった。
 右翼に狙われて帰れない事もあった。」

「途中で亡くなる人が損なのか。残る人が偉いのか」

「交通費もあげられなかった。食事も出来なかった。
 本部は、朝8時に始まる。黎子は毎朝7時に来て、
 全部、本部の掃除をやった。 一級闘志はすごい根性の持ち主だった。
 本当の娘だ。 一生忘れない。日記が全部取ってあるので出版したい。
 大功労者だ。完全に陰の人、裏の人だった。
 ああ言う時に、あれだけやったのは、男にだっていない。
 5年が50年に匹敵する闘いだった。
 ローソクのように、忽然と消えた人を会長の私が、このように話をしている。
 幸せな事じゃないか。そこに創価学会の精神がある。
 伝統、歴史ーー目に見えない事を知らせていく。」


☆七月十六 日( ブラジルのサイトウ理事長と ).

「黎子の日記を全部読んだ。一生懸命闘った人が、早死にして、
 闘わなかった人間が偉くなっていく。それでいいのか?
 (創価学会はだんだん官僚的になって、本当に闘った人が認められなくて、それでいいのか?)
 読みながら、刃物で胸をえぐられるようだった。」

「ある時、本当に闘っている婦人部に会った。
 お金は、あるのか?と聞いたら、「 ありません 」と爽やかだった。」

 (一生懸命学会に、人に尽くした人が何も得なくて、そうでない幹部や本部の人間が、内内で賞賛され、
 社会的な力を得ている。矛盾じゃないか)と。

「嘆くな。僕が祈る。僕がついている。僕が見ている。全部見ている。
 それでいい。それで、いいじゃいか。それで何もいらない 」と言ったんだ。
 そう言う精神を忘れては、いけない。

(サイトウ理事長は、娘さんが創価女子学園に入学された報告と御礼に来日していた )

「幹部同士の間で、子供の事を言う必要はない。
 自慢したりするのは、本陣の戯( たわむ )れである。」
 皆んないて、そこに、足の不自由な子が居たら、僕は、その子が一番かわいい。
 その子が大将だ。
 恋愛して、成功して、ゴールインした人よりも、
 失恋して、題目を上げて立ち上がる人の方が、僕は、数倍かわいい。
 同志の集いじゃないか。
 ある意味、大幹部は、自分のウチなんか、メチャクチャでいいんだ。
 会員が第一だ。それが幹部だ。

「日蓮は、泣かねども涙ひまなし 」だ。
 悦子( サイトウ理事長の奥さん )、悦子、
 子供、子供、あなたは、それを捨てなくてはいけない。一家主義になってはいけない。
 ウチは( 先生のご一家 )、そう見えるけど全然違う。
 いつも妻に言っている。息子たちにも、いつか嫁が来る。でも、他人だよ。
 孫も出来るだろう。でも僕は可愛がらないよ。
 その分、創価学会の苦労した人を、もっと大事にするよ、と奥さんに言ったんだ。」

(奥様がうなづかれて口を開かれた )

「主人はいつも、会員さん第一なんです。私は会長である主人に、何も出来ない。
 だから、せめて、会員のお一人お一人の事を祈ろう。
 だから、せめて、誰かいらしたら、何でもしてさしあげようと。」

(再び、先生が )

「息子達の結婚式も、目黒文化会館で、数十人で、静かにやりたい。

「 教弥( おしえ.いよいよ )高ければ、位弥( くらい.いよいよ )低し 」
 平凡な庶民でいいんだ。
 あなた( サイトウ理事長 )には、それが足りない。」

「妻は私が死んだら、四畳半の部屋で、暮らすと言っている。
 そして、学会の方が訪ねて見えたら、広宣流布の為に、闘っていらっしゃる方だから、私より偉い、大事にします、と言っている。」

「一切、幹部は家族のためではいけない。妻子は報障だ。」

(昭和52年7月15・16日手記 )

☆文中に出てくる黎子さんの事を、先生が「忘れ得ぬ同志」に綴って下さっている。
 黎子さんはどれ程、嬉しかったであろうか。

☆『野菊のごとき青春 ☆

ーー青木 黎子さんーー

【広布の激流に黎明の光】

一冊の日記帳がある。

題して『黎子抄』。

青木黎子さんが死の間際まで綴ってきたものである。
それを親しき友人たちが一冊の本にまとめあげた。
昭和五十一年一月二十九日、ご両親に見守られながら黎子さんは三十五歳で逝いた。
美しき瞳。 美しき心。 美しき青春の人であった。

一周忌に私は、ご家族とともに学会本部で勤行をした。
そのとき、黎子さんが綴られていた日記帳の事を聞いた。
美しい字で書かれた数冊のノートを、やがて見せていただいた。
そこには、病魔との戦い、『生と死』の葛藤、信仰の素晴らしさ、友情、自己の使命・・・等々、
日々の心境が曇りなく記されてあった。
ご遺族と友人たちの意向が実り、三回忌を記念して限定出版されたのである。
その香りしたたる一冊が私の所へも届いた。
昭和四十二年から四十五年までの闘病記がある。
こんな一節が目に止まった。
『昭和四十二年 二月二十四日(金) 雨
 注射。今日の雨で春を感じる。まどの外に水仙の芽が出ているのを見つける。
 なんという生命の不思議さ。強さ。あの大雪の下に、あのとき、すでに発芽していたのだ。
 なんとしても治るのだ。一年前の私は毎日" 死 "との対決だった。』

東京・清瀬の病院。
武蔵野の早春に心の嵐と戦う、けなげな同志である彼女の青春を思うとき、私の胸は熱くなった。
学会本部に勤務していたのは、昭和三十七年後半から約四年間と記憶している。
彼女は、あまり丈夫ではない小柄な体を駆使しての、日夜、私のそばで広宣流布への戦いの連続であった。
彼女と最初に会ったのは三十七年初夏のころである。
女子部の代表との研修会があったときに、彼女のことを女子部の先輩から聞いた。
ある銀行の人事部に勤めていただけあって、まことに聡明で、誰からも称賛される人柄であった。
懇談の折、『今までお世話になった人は?』と聞いた。
彼女は間髪を入れず六人の姓名をすらすらと言った。ふつう姓は言えても、なかなか名前までは出てこない。
記憶力抜群の人とみた。
入信は昭和三十一年六月、十五歳のときであった。都立白鴎高校の出身である。
また女子部の部隊長としても活躍してきた。
『黎子抄』に、当時、共に職場で戦っていた多田時子さんが、次のような追憶の記を寄せている。

『ひとたび仕事の事になると非常に責任感が強く、電話の応対や接客にもそつはないし、
 字も綺麗に書けば、あれこれと、どれ一つを取り上げても見事にこなす人でした。
 また何より素晴らしいと思うことは、どんな事があっても笑顔をたやさない人柄のよい人でした。
 それは又、自己に厳しい強さを持っていたからかもしれません』

当時の学会は激流のような建設期にあった。
私も朝から夜半まで、多忙の連続であった。
その為もあって、彼女は庶務部で同じように遅くまで、その任にあたってくれたのである。
私は幾度となく彼女の健康を心配して早く休むようにすすめたことがある。
しかし、今にして思えば、彼女は自分の短命を自覚してのことか、
最後まで繁多な職場で自己の使命を全うせざるを得ない宿命的とも言える回転であった。
夜遅くなっても朝は誰よりも早く出勤した。
表面には疲れもみせぬ素振りであったが、東京の葛飾区からの往復は、さぞや疲れが増していったに違いない。
最後までグチひとつこぼさず、全ての作業を一つ一つこなしきって行った。
模範的な若き妙法の乙女であった。

『一月二十六日(月) 晴のち曇 S先生、回診あり。
先日聞きもらした右上葉の一番難しい空洞のことを聞いたら、消えているとのこと。
・・・なんということか、あんなガンコな病巣が消えているなんて。
御本尊の偉大さにただただ感謝』

昭和四十五年十一月、清瀬の病院を退院。
結核もすっかり治した。
再び職場に復帰した彼女は、不死鳥のごとく活躍し始めた。
しかし、定業であったのであろうか、心臓が弱り、数年して、多くの後輩たちの星となって逝いた。
彼女は、いまはの際に、か弱い体で起き上がり、厳として題目を唱えたあと、横になった。
そして母に向かって、
『私には何の悔いもありません。広宣流布に生き抜いたのですから世界一の幸福者です』と一言いった。

亡くなる寸前、私たち夫婦はせめてものお見舞いにと、サファイアの指輪を贈った。
彼女はそれを病床で指にはめ、ことのほか喜んでくれ
『私が死んだら、この指輪をはめてほしい』と母親に語っていたという。
一週間後、母親は彼女の希望どおり、合掌したその指に指輪を飾って霊山に送ったのである。
ご両親はいまなお葛飾の地で朝夕、黎子さんの写真を見ながら、広布の庭に活躍している。
ただ、私が胸を痛めるのは、同じ年ごろの女性が結婚し、
子供を育てる姿を見たときのご両親の気持ちはいかばかりであろうか、ということである。

彼女の生涯は自分なりに一つの主義主張に青春を賭けた、劇のような行動であった。
それはいわゆる表舞台だけではなく、辛労多き陰の舞台にも誇り高く走り、また美しく咲き薫った名優であったといえよう。
人によって短い人生というかもしれない。
しかし、彼女は幾十歳にも通ずる輝くばかりに充実しきった、黄金のごとき青春の生涯と自負していたことであろう。
多くの女子部の人たちが、野菊のごとき青春であったと口々に讃えたことは、それを証明している。
生命は永遠であるが故に、彼女は生きいきとした生命を得て、この世に再び活躍していくことを、私は信じてやまない。
(昭和55年8月21日)

以上です。

この妙法のジャンヌ・ダルクが、先生と共に作った偉大な創価学会を、原田や秋谷如き薄汚れた獅子身中の虫、
反逆者共に乗っ取られてはならない。

写真は、私が青木黎子さんに 新しく贈らせて頂いた
「芙蓉院清浄妙黎大姉」と言う大姉尊号と、
ブラジルの広布を築いた女性、故 シルビア・悦子・サイトウさんの遺影。

シルビア・サイトウさんは、数千万遍の唱題と戦いで、ブラジルの天地に妙法の華を咲かせて下さった妙法のジャンヌ・ダルクです。
青木黎子さんも、シルビア・サイトウさんも、再び師の元に生まれて、
今、立正安国の危機に生まれ、師の一大事に、 創価存亡の時に、
人類の未来を決するこの時に、生まれて 久遠よりの誓いを果たす戦いの陣列に居て下さる事でしょう。
 

不思議

 投稿者:不軽菩薩が理想  投稿日:2017年 9月23日(土)11時09分38秒
  宿坊の掲示板の皆様、おはようございます。

窮状 様
記事のご紹介、ありがとうございました。牧口先生、戸田先生、池田先生の戦い、御指導を胸に刻んでいる創価学会員なら、この78歳の方のお気持ちになるのが普通だと思うのですが、殆どの学会員が何の疑問ももたずに、三代のおしえに反逆する方向に何の疑問ももたず(?)に従い、やっきになっているのが、とても不思議です。

 

我々にできることは小さいかもしれない・・

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 9月23日(土)10時36分9秒
編集済
  杉原 千畝(チウネ)、シンドラー、ポーランド人のイレーナセンドラさん、

ほかにも、先生が紹介してくださったある女性も・・

そして、ここにも

https://bushoojapan.com/tomorrow/2017/08/04/102879


一人の勇気ある存在、大量ではないにしても救われた人たちにとってはその意義は大きい

自分には大きい事はできないが・・身直なメンバーを鬼畜原田学会から救えば・・

救われた人たちにとっては、実に大きい意味のある事・・

(私自身、宿坊様・信濃町の人々さま他、心から感謝してます)

さらに大聖人の仏法を知らずにいる、苦しむ友人を一人、一人と救って・・

酷き実態への落胆と無力感を希望に変え・・・戦っていきたい。

いや、戦っていかなければならない・・


くぼてつ様、鈴之助様、コメントありがとうございました。
 

ランニン

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 9月23日(土)10時34分49秒
  今日は福岡座談会ですね。参加される方、充実の一日でありますように。
http://harunokoime20150831.blog.fc2.com/blog-entry-130.html
<9・23(土・祝)九州・福岡座談会 開催のお知らせ>平成29年9月23日(土・祝)午後1時5分~午後3時50分 エイムアテイン博多駅前貸会議室の「会議室5H」(福岡市博多区博多駅前3-25-24 八百治ビル5階)

螺髪様
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74480
イメージだけで言いますが、「清浄」という言葉には「完全なる境智冥合」というイメージがあります。
電気屋の私は池田先生が生命を電波のように例えられることが分かり易く、宿坊でもそのように書きますが、いわば宇宙には10種、10チャンネルの生命チャンネル(十界)があります。
その10チャンネル、いずれの周波数とも人間・宇宙は境智冥合するのですが、「清浄」なのが仏界チャンネル=南無妙法蓮華経ヘルツですが、なかなか「完全に境智冥合」しにくく、凡夫の一念には雑音=ノイズが混ざりやすく、その波形(正弦波:サインカーブ)は歪んでしまいます。(今も私は菩薩界チャンネルでこれを書いているつもりですが、久しぶりに食べに行く天下一品のこってりラーメンのことをつい考えてしまいます。)
この雑音が消えてS/N比が理想的な状態であるときが「清浄」で、「境智合しぬれば即身成仏するなり」なのだろうかと思います。難しいですねぇ、「清浄」て。つい安易に逃げてしまいます。何事も本気で向き合わないと境地合しないのに。

煩悩まみれですよ、私なんて。ヤフオクに出したら誰か買ってくれるかなぁ~。
福岡かぁ~明太子も美味しいなぁ。九州出身の友人にはよく、とんこつラーメンに連れていかれたなぁ。新宿の熊本ラーメンの店まだあるかなぁ。パーコめんが忘れられない。

“もうこれ以上 自分自身からは逃げたりしない 一緒に すべてに打ち勝つのよ”
“もう 逃げない 逃げない 逃げない 逃げない”
“もうこれ以上 自分自身から逃げたりしない”
“すべてと向かいあう覚悟ができた”
“自分を失うことは すべてを失うことだから”
『ランニン』ビヨンセ
https://www.youtube.com/watch?v=eJSik6ejkr0

『実名告発 創価学会』(野口裕介・滝川 清志・小平 秀一) アマゾン「ベストセラー」で絶賛発売中!!!
http://amzn.to/2fxRlFX
 

「永遠の生命」の視座 5/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)09時56分6秒
  生命論 戸田城聖

http://nitiren21.blog.shinobi.jp/%E8%B3%87%E6%96%99/%E7%94%9F%E5%91%BD%E8%AB%96%E3%80%80%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%81%96
 

北朝鮮のミサイルはどこまで飛ぶことができるのか

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 9月23日(土)09時55分29秒
  本日のスプートニク日本版より・・

https://jp.sputniknews.com/infographics/201709224112698/
(詳しい図解と解説)

将来的に北朝鮮の弾道ミサイルが核弾頭を搭載して使用される可能性はあるが、

今のところ、北朝鮮がこれらのミサイルに適合する弾頭を製造しているという裏付けはない。


アサンジ氏

https://jp.sputniknews.com/politics/201709234114273/

内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者ジュリアン・アサンジ氏は北朝鮮を完全破壊するという

トランプ大統領の警告が、核兵器を求める北朝鮮の願いを強めるだけだと述べた。

(アベの思惑通りになるか・・・)
 

ユー・レイズ・ミー・アップ

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 9月23日(土)09時28分38秒
  平田真吾様
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74493
https://youtu.be/S0mOXC8pJfM
あまりにも良い歌なのでもう一度。こんな詩とは知りませんでした。

窮状さん、ありがとうございます。ちゃんとこういう人もいるのですね。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74494
>今、もの凄い勢いであっちもこっちも皆んな立ち上がっています。もう、止められません! さらば ハラダよ!<

『衆院解散 これでいい? 有識者「憲法の規定逸脱」』毎日新聞
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20170923/k00/00m/010/101000c?fm=mnm
『詩織さん被害届 準強姦容疑は「不起訴相当」 検察審査会』毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20170923/k00/00m/040/011000c?fm=mnm
政治は権力闘争の世界だから何でもアリ? そういう品格が問われているんだ!!!
そうか? あんなのと同じか? 修羅・畜生界ベースで? そんな「大六天」に仏・菩薩界を開かないなら、わざわざ地涌の菩薩が必死に応援して政界に送ってやる必要はない!
泥の中に花を咲かせようと必死になっているんだ地涌の菩薩たちは! ただ泥に染まるなら「お前はもうすでに死んでいる!」
「大義」を求めなかったら人間の世界ですらない! ただケダモノの世界だ!
そんなニッポンジンに生まれたくないからこの国は少子化しているんだ!
「未来」に見捨てられたいか!?

“落ち込んで 心がとても疲れた時 困難がおとずれて 心に重荷を背負った時”
“そんな時は ここで静かに じっと待つわ あなたが来て 私のそばに座ってくれるまで”
“あなたは 私に力をくれる だから 山の頂に立つことができるの”
“あなたは 私に力をくれる だから 嵐の海を歩くことができるの”
“私は強くなれるの あなたの肩に寄りかかっている時”
“あなたは 私に力をくれる 自分を越えていけるように”
“飢えない命なんて無いの すべての心臓は休むことなく鼓動を打つ とても不完全に”
“けど あなたが来て 不思議と満たされると 時々 永遠を垣間見てるんじゃないかって思うの”
“あなたは 私に力をくれる だから 山の頂に立つことができるの
“あなたは 私に力をくれる だから 山の頂に立つことができるの”
“あなたは 私に力をくれる だから 嵐の海を歩くことができるの”
“私は強くなれるの あなたの肩に寄りかかっている時”
“あなたは 私に力をくれる 自分を越えていけるように”
『ユー・レイズ・ミー・アップ』ケルティック・ウーマン
https://www.youtube.com/watch?v=Yfwlj0gba_k
女歌で。日本ではケルティック・ウーマンの方が有名らしいが、私はあっちの方が良い。
 

人間池田大作

 投稿者:風林火山  投稿日:2017年 9月23日(土)09時14分33秒
  ご参考迄。原点に戻りましょう。

https://www.youtube.com/watch?v=3So9GpFcFhs
 

メキシコ大地震への義援金

 投稿者:五分の魂  投稿日:2017年 9月23日(土)08時56分32秒
  創価学会として300万円の義援金。
会員1人あたり1円以下。
恥ずかしくて知人にも言えない。
 

公明党よ、これでもまだ野合するのか!!!

 投稿者:ダメよ~ダメダメ  投稿日:2017年 9月23日(土)08時55分28秒
  解任された元副支部長さんが激しく憤っておられました。

今回の国連での安倍発言は明らかに池田先生の思想とは真逆。

本来の創価学会、公明党の生き方とも当然真逆。

それでも予定される総選挙において安倍自民党候補を支援し、公明党も連立を維持するのか?


国連総会での安倍発言は、師匠・池田大作先生の「平和思想」とは真逆のモノ!

東北各部合同研修会 (1987年7月5日)

民衆がしっかりしないと、権力者や為政者達の意のままの社会がつくられてしまう。いつの時代も、苦しみ、悲惨さを味わうのは結局、民衆である。ゆえに、私どもは、一人一人がすばらしき人生を生きるために、人間共和の連帯の輪を、この社会に広げているわけである。
戦争を起こしてはならない。この地球上から「悲惨」と「不幸」をなくしていきたい。本当に正しい人が幸せになり、悪しき人々の力を封じこめて「平和」で「安穏」な世界を築きたい。これが、皆さま方が日夜、推進しておられる広宣流布の活動なのである。
 

もっと勉強しよう

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 9月23日(土)08時54分4秒
 

---------------------------------
新・人間革命「勇舞」より

人間は実力だ。学歴がなんだというんです!

自動車の整備士として、油まみれになって働いて、
その仕事で、みんなの模範になればよいのです。

学歴が無いことは恥でも何でもない。しかし、学ばないことは卑しい。
勉強しないことは恥です。

私も毎日、勉強している。

1日に20分でも、30分でもよい。寸暇を惜しんで読書し、
勉強することです。その持続が力になる。

---------------------------------
新・人間革命「薫風」より

学会は、実力主義であり、信心の世界ですから、学歴は関係ありません。

しかし、学力は必要です。忙しくとも読書に励み、あらゆることを勉強し
抜いていくんです。

社会の一流の人たちが「学会のリーダーはさすがだ」と感服するくらい、
教養をつけて、智慧を発揮していかなければならない。

---------------------------------

池田先生の学歴を調べたら
現・東京富士大学短期大学部。
一流大学、東京大学の出身ではない。
貧しく苦労して夜学に通って、やっと
卒業できたらしい。

原田会長の経歴は東京大学。
あの舛添まんじゅうの知事さんも
東京大学出身。

ここいらへんに、創価学会と原田学会の根本的なちがいが
あるのかも知れない。

日蓮大聖人も、貧しき漁師の両親の
もとでお生まれになったとか。
エリートで育った空海とはまったくちがう。

創価学会の会長に中卒の人や高校中退
の人はなれないのだろうか。女性の会長が
いてもよいのではないか。

政治家もおなじだと思う。高学歴や人脈、お金がないと
選挙で当選するのはむずかしい。

選挙の候補者、二世、三世の候補者、そして
タレント議員、すべてが悪いわけではないが、
やっぱり何かおかしい。

けっきょく日本列島は忖度列島なんだ。

大切なのは学歴でもなく、金や権力ではなく
その人のあり方なのだと思う。

3代会長に共通していて、原田会長にないもの。
絶対的確信にもとずく不惜身命の信心かな?

それを示さないと、忖度だけでは人はついていかないでしょう。

宗教を考えると人間革命の山本青年が
今の日本に登場してほしい・・・ではなく、
自分がならないと。

政治を考えると西郷隆盛さんのような政治家が
今の日本に登場してほしい・・・ではなく、
自分がならないと。

結局は自分の人間革命、自分の宿命転換しかないのです。

---------------------------------

己を尽くして人を咎めず。

我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。

我を愛する心を以って人を愛せ。

自己を許すが如く人を許せ。

人を責めるが如く自己を責めよ。


- 西郷隆盛 -

---------------------------------

http://imagine-happy-life.tokyo/

 

呉越同舟

 投稿者:  投稿日:2017年 9月23日(土)07時12分29秒
  国連演説でも北朝鮮危機を煽りまくった安倍首相に、
NYタイムズコメント欄でも批判殺到! 戦争ゲームに興じる子どもみたい
安倍首相自身が、不要な挑発をくり返し北朝鮮をけしかけている
北朝鮮危機も、拉致問題も、選挙向けのパフォーマンスに利用

http://lite-ra.com/2017/09/post-3468.html

 

「永遠の生命」の視座 4/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)06時44分53秒
  池田:それに対し仏教では、生命は輪廻を繰り返しながら、そこで各人が自由意志で行った
   行為が因果の法に従って、その報いを生じていくとし、人がそれぞれに持っている
   千差万別の姿は、このために生まれたとします。

   したがってここでは差別を持って現れている個々の事象も全て普遍的な法の世界に
   包含され、その意味で万人は平等となります。

   そればかりでなく、自己の運命も自らの行為が原因なのですから、運命に対する主体的
   権利を各人が持っていることになり、これによって個の尊厳性はより徹底したものと
   なります。

   因果の法の支配を、どこまでも徹底していくなら、あらゆる人に無限に前世があった
   ことになり、何かによって創られたり、何かの時に生じたりということはないことに
   なります。
     p83

池田:仏教では、生命が永遠に存在するものであり、始まりも終わりもないとし、つねに因果の
   法にしたがって転変していくと説きます。
     p84

カラン、シン:人は、その霊魂がモークシャ(解脱)を成就するまで、いくつもの長大な期間に
   渡って再生を繰り返さなければならない、というのがヒンドゥー教の基本的な教義です。
   またサンサーラ(輪廻生死)は、どうしても超克しなければならない状態であると
   考えられています。

   その理由は、サンサーラが必然的に私達のいう「苦」に満ちているからでなく、この世の
   悦楽は長続きしないからです。

池田:なるほど、そこで輪廻生死(サンサーラ)を超克し、解き放たれる事を
   解脱「モークシャ」、その様になった状態を涅槃「ニルヴァーナ」といったわけですね。
     p199

カラン、シン:忘れてならないのは、ヒンドゥー教の見解では、この世に生まれ、
   また次に生まれてくるまでの中間期は、その人自身のカルマ(業)次第で快適な
   状態で過ごすか、あるいは不快な状態で過ごさねばならないかが定まるという事です。
   善きカルマの人は死後の状態を快適に過ごし、そのうえ、来世は有利な条件の
   もとに生まれてくることができます。

   しかし、ウパニシャッドは、どんなにうっとりさせられる様な天上の喜びも、
   より長大な時間的単位でみれば、つかの間の、はかないものに過ぎない、としています。
   であるからこそ、生死の流転を超克しなければならないのです。
     p200

転載終わり

この対談では、大聖人の仏法とウパニシャッド哲学との共通部分と相違部分がはっきりしています。
輪廻転生、業の意義などは共有していますが、最終的に輪廻(もちろん”業”も含む)を超克(乗り越える)することを目標にするウパニシャッドに対して、先生は、因果の法則の永遠性を基にするところからくる無始無終の生命の輪廻を説く大聖人の仏法の思想は「運命に対する主体的権利を各人が持っていることになり、これによって個の尊厳性はより徹底したものとなります。」
と結論づけられています。
 

「永遠の生命」の視座 3/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)06時36分23秒
  転載開始

輪廻観の起源 ―「内なる世界 インドと日本」

池田:生命が輪廻するという考え方は、インドではウパニッシャドに始まるとされていますが、
   ほぼそれと同時期の西方ギリシアにおいても、たとえばピタゴラスが、そのような
   考え方をもっていたということが伝えられています。

   ある時、ピタゴラスが友人と一緒に道を歩いていて、犬と行き会った。どういうわけか、
   その友人がこの犬を蹴飛ばした。
   ピタゴラスが咎めて「やめろ!もしかしたらこの犬は君のなくなった父親かもしれない
   じゃないか」といったという話です。

   これは、とりたてて理論的に輪廻思想を説いたものではありません。
   しかし、さりげない言葉でそうした考え方が述べられた事実に、むしろ、この輪廻観が
   当時のギリシア人にとって、かなり常識化していたことがうかがわれます。
      p73~4

カラン、シン:輪廻という概念が、世界の偉大な宗教の多くに見られるのは事実です。
   セム系(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを信仰する民族)の諸宗教ですら、
   死後も霊魂は存続すると信じています。しかし、それらの宗教はただ一度の生のみを
   仮定しており、その後は霊魂が幾劫もの間リンボ界(リンボとは「縁」を意味する
   ラテン語に由来し、地獄と天国の中間にある霊魂の住む場所をいう)にとどまって
   最後の審判を待つのだとしています。

   これに対して、東洋の諸宗教では、再生がその哲学全体の中心概念であり、これと密接に
   結びついているのがカルマ(業)という概念であるわけです。

   ”業”の概念を正しく理解することは非常に大切です。
   西洋の思想家のなかには、”業”とは人間の置かれた状況を宿命的なものとして
   甘受することにすぎない、という誤った主張をするものもいます。
   事実はこれと全く反対です。

   ”業”とは、各人がいかなる時点においても、種々の択一的な行動様式のいずれかを
   選ぶ能力を持っており、また事実そうした選択が必要なのであって、各人は自分が行った
   選択に基づいて自分の行為の結果を刈り取ることになる、ということを意味します。

   ”善”の行為とは無知と激情からの解放を助ける行為のことであり、”悪”の行為とは
   個人が無知や激情にますますはまりこむ原因となり、それによって究極的な開放を
   より困難にする行為のことです。

   ウパニシャッドの神髄は、不滅のアートマンという概念と業の概念をうまく結びつけ、
   それによって個々の人間が道徳的、精神的に発展するための
   骨組みを生み出すことができた、という点にあります。

   輪廻、業という二つの概念が密接に結びついていることは明らかです。
      p75~6
 

「永遠の生命」の視座 2/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)05時33分38秒
  かなり長くなりますが、過去の資料から、これらの件を補う部分を転載します。
読み比べて観てください。

1と2に関しては、ヒンズー教の最高峰といわれ「梵我一如」を説くウパニシャッド哲学の大家であるカラン、シン博士と池田先生の対談「内なる世界 インドと日本」から転載しました。
カラン、シン博士は、輪廻や業について、また、カースト制度についても、彼なりの見解をもっています。

それと、生死の問題を解決したが故に会長の任務を受け入れる事にしたとまで言われた戸田先生の生命論も読んで下さい。
私は、大聖人の仏法は、700年来少しも変わる事なく一念三千を基にした「生命哲学」だと思っています。

3に関しては「生命を語る」より転載しました。
私の大好きな箇所のひとつです。

「内なる世界 インドと日本」は1992年に発行されており、「生命を語る」は1974年、「二十一世紀への選択」は2000年です。


教学は理屈ばかりだと批判を浴び、それでも守られてきた時代は終わったと思われます。
ひとりひとりの自立した正しい「信」と、そこから発信する正しい行動だけが、これからの時代の自他共の幸福を築くための指標になるのではないでしょうか。

ちなみに、赤胴様の投稿自体に水を差すつもりはないので、ご了承下さい。
学ぶべきはそれとして謙虚な姿勢を持ち続けることは、大切だと思っています。
私が憂慮しているのはp177~184の間だけです。
赤胴様の努力に感謝します。
 

「永遠の生命」の視座 1/11

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 9月23日(土)05時19分42秒
編集済
  早めに書くといいながら書いてない件、失礼しています。
頭が疲れていて懈怠の魔に負けている今日この頃です。(笑)

今回とりあえず気になる別件について、タイプしましたが、
この件に関しての教義的な見解は以前にも何回か投稿しているので、詳しくは省略します。
赤胴様が投稿している「二十一世紀への選択」のp177~184に網羅されているメッセージの中から概略で以下の様な意味合いの部分が含まれている件についてです。

「永遠の生命の視座」の章から
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74364
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74365
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74398

 1 大聖人の仏法における輪廻説は事実かどうかではなく、象徴的意味(慈悲心を養うため)が
   大切
 2 輪廻の基となる”業”の義がカースト制度を維持するイデオロギーになりかねない
 3 仏教の生死観は、今の一瞬に無限の生命を生きることができるという意味

私としては、これらに関しては、大聖人の仏法の真実の一部だけであり、全体的視野を持たないと
間違ったメッセージを伝承してしまう危険があると思っています。
つまり、ある意図でもって読者をある一定の方向に誘導できる危険性があるということです。
以前にも書きましたが、例えば、私のいるこの国の最高幹部はじめ、地元のメンバーも、”業”や”輪廻”の思想は大聖人の
教えではないということ(彼らはそう信じている)の論証を、先生の言葉として、この本のこの箇所を提示してきます。

法華経は諸経の王であり、本来、その立ち位置さえ確認していれば、仏法全般、そして外道さえも一部分の真理として活用できます。
問題は、その一部分であるはずの教えが、他の部分を意図的に切り離して、我ひとり尊しとして独り歩きを始める時に邪宗に変わります。
その上、過去には長い期間正しく仏法を学んでいた会員達が、近年勉強の機会を失い、空虚になってしまったその心に、その様な邪宗的見解が入り込むのは簡単です。
なぜなら、組織から提供されているその様な思想も正法の一部であるため、会員がそれに気づくのは、至難の技だからです。

例えば、1と2では、みんなが納得するようなもっともらしい言い回しで、「輪廻」や「業ー因果の法則」の思想を脇にさておくようにしながら、じょじょにみんなの頭からこういう思想が薄れていくことを意図していることが読み取れます。

3においては、「今」だけに焦点を当てることを強調することによって、未来への展望や因果の「果」に疎くなる精神状態に誘導しようとしている意図が読み取れます。

このように指導しながら、目の前の功徳の強調との組み合わせで、自分達の行動の結果が現実に近未来の国の命運を左右し他ならぬ自分の未来さえも破壊していることに対して、会員の自覚を麻痺させることに加担します。
「未来に偉大な目標を定め、それに向かって決意し、未来を先取りしながら、使命感にめざめた現在の歓喜に生きたいものだと思うね。」ー「生命を語る」第一巻 p179
という先生の言葉とは、相反しているといえるでしょう。
そして知らぬ間に、長期間そういう逆流に流されてしまったら、もう元の岸辺にもどる為に逆流に逆らうにはよっぽどの決意がいるでしょう。
 

21世紀への選択 「にもかかわらず」生きる・・・絶望を希望に転換する勇気 P193  投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 9月23日(土)02時07分39秒
  第六章「宗教的精神」の蘇生━━ 価値を創造する魂

 21世紀への選択 「にもかかわらず」生きる・・・絶望を希望に転換する勇気 P193  投稿します。

ポイント

*、テヘラニアン
 そのとおりです。ティリッヒ博士は同書のなかで、現代の苦悩と絶望を真正面から

見すえながら、「それにもかかわらず、生きていこう!」と訴えています。

*、池田
 現実の深淵を見ようともせずに、欲望の達成と快楽だけを幸福といってはばからな

い、薄っぺらな楽観主義とはまったく異なります。

人類がこれほどの悲惨を起こしてしまったのは、単にヒトラーやナチスだけが問題で

あったのではない。

ティリッヒは、民主主義もいつしか体制順応主義に堕落し、「冷笑主義」「無関心」

「無感動」の虚無に飲み込まれる可能性があると指摘しています。

そうさせないためにも、人間存在そのものの奥底に横たわる深い闇を見すえながら、

「にもかかわらず」生きてゆこう・・・そういう強靭な意志が『生きる勇気』では語られ

ています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北朝鮮のかましと、米トランプ大統領の恫喝外交、戦争を見据えてのにらみ合い、この危険な状況で

解散総選挙、安倍・のほほん首相だけは、森加計問題隠しの選挙を企てています。

首相官邸は、北朝鮮から核攻撃に対応できる、核シェルターで守られています。

北朝鮮が、ミサイルを準備していると、報告を受けると、シェルターに逃げ込んで、自分だけは安全地帯
にいることが出来るのです。

こんな腰抜け首相を我々は、今度の総選挙で、叩き落し、自民党を勝利させてはいけません。

 池田先生は【現実の深淵を見ようともせずに、欲望の達成と快楽だけを幸福といってはばからな

い、薄っぺらな楽観主義とはまったく異なります。】

肚堕SG会長も核シェルターに逃げこめば助かると思っている一人です。

生涯&広布一筋兄弟様の投稿を読ませていただきました。

『志梅さん』への、人権侵害の事実は目をふさぎ、耳を覆いたくなるほどの凄惨の極みです。

【「宗教や国籍に関係なく、溺れている人を見たら助けなければならない。そう言われて育ちました」
とセンドラーさんは話している。】

しかし我々は、刮目して現実を見聴きして、世界平和と人類の幸せを祈らなければなりません。


野党が固まらないうちに、選挙で叩いておこうと言う、姑息な総選挙です。

選挙に勝つためなら、恥も外聞もない、やけくそ解散であることを、コンペー党は反対できないほど、

自民党化しています、これは、日本会議(邪宗連合)の思う壺です。

『現実の深淵を見ようともせずに、欲望の達成と快楽だけを幸福』と思っている連中、輩の野合です。

必ず!!絶対に、粉砕しましょう


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝日新聞より抜粋 松本京子さんの場合

「諦めたら終わり」訴え続ける

松本京子さん(拉致当時29)は77年、鳥取県米子市の自宅近くの編み物教室へ出かけ、行方不明に。

日朝首脳会談から4年後の06年、政府から拉致被害者と認定された。

「帰国まで政治家は交渉を」

兄の孟さん(70)・・同市・・は署名活動を続け、救出を訴えてきた。

今月13日には、県内の小学校で拉致問題をテーマに「出前授業」。

京子さんが拉致された当時を振り返り、「手がかりがないかと、来る日も来る日も海岸を歩いた」。

北朝鮮がミサイル発射を繰り返す状況について、「問題は難しいが、解決しないことはない」。

そして、子どもたちにこう語りかけた。

「諦めたら終わり。みなさんも興味を持って勉強してください


 

21世紀への選択 「にもかかわらず」生きる・・・絶望を希望に転換する勇気 P193

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 9月23日(土)02時03分25秒
  21世紀への選択 「にもかかわらず」生きる・・・絶望を希望に転換する勇気 P193

テヘラニアン
 その処方箋の一つが、仏教やイスラムですね。すでに話し合ったように、

両者はともに、迷信や呪術的な伝統に対する、精神覚醒の運動でした。

池田
 そうした次元でいえば、イスラムという言葉の意味は、一般に「神に絶対的に帰依

すること」と聞いていますが、それは著名な神学者パウル・ティリッヒが「宗教」につい

て定義したように、"存在に通じる概念の根源に、究極的にかかわること"をめざした

といえるかもしれません。

テヘラニアン
 ええ。厳密にいえば、それはすべての存在への「積極的かつ完全なるかかわりとあわれみ」

を意味するといえましょう。

 それは積極的平和、すなわち愛と勇気を合体させた状態を意味するのです。

池田
 前に、イスラムは「宗教改革」であったと語り合いました。

ユダヤ教やキリスト教の信仰への疑念を表したということでしたね。

テヘラニアン
 ええ。ユダヤ教、キリスト教への疑念として、『コーラン』の次の言葉が

それを物語っています。

「我々(ムスリム=イスラム教徒)が誠の限りをつくしておつかえ申すのはアッラー

(アラー)のみ」〔二・一二三〕(井筒俊彦訳『コーラン』、岩波文庫)

また、呪術的な多神教に対して、ムハンマドは徹底的に批判をしています。

ところで、会長はいまパウル・ティリッヒに言及されました。

それは、私の心に懐かしい「ティリッヒ先生」の思い出を蘇らせてくれました。

実は、私の恩師なのです。私は彼からすべての偉大な精神的伝統に共通する宗教的精神

について多くを学びました。

池田
 よく存じています。

ティリッヒ博士は、ナチスに追われてアメリカに亡命しています。

テヘラニアン博士がティリッヒ博士から直接学ばれたのは、ハーバードの大学院生時代

ですね。

偉大な師をもつことは、人間にとって最高の宝です。

テヘラニアン
 本当にそう実感します。

池田会長にも戸田城聖第二代会長という師匠がおられた。

ともに、すばらしい師との出会いがあった・・・。

池田
 ティリッヒ博士の著した『生きる勇気』は、アウシュヴィツとヒロシマ以後を生

きる私たちに、希望を与えてくれました。

不朽の名著であり、人類の財産です。

テヘラニアン
 そのとおりです。ティリッヒ博士は同書のなかで、現代の苦悩と絶望を

真正面から見すえながら、「それにもかかわらず、生きていこう!」と訴えています。

池田
 「にもかかわらず」ードイツ語で"トゥロッツ"・・・それが『生きる勇気』の

キーワードでした。

その態度は、二十世紀を代表する名著『夜と霧』の著者・ヴィクトル゜フランクルにも

通じますね。

「それでも人生にイエスと言おう!」です。

テヘラニアン
 アウシュヴィッツを自ら体験し、人間の悪の面をいやというほど味わいな

がら、フランクルは「それでも」人間を信頼しよう、人生を肯定しようとするのです。

池田
 その態度は、エドワード・W・サイードが座右の銘としている、グラムシの「認識

においては悲観主義、意志においては楽観主義」という言葉にも通じます。

「意志における楽観主義」とは、言い換えれば不屈の勇気といえるでしょう。

現実の深い闇を直視しながら、それでも前進しようとする勇気です。

テヘラニアン
 全面的に賛成です。それらの人々はまったく同じ志向性、同じ姿勢をもっています。
 

(無題)

 投稿者:サンダーバード  投稿日:2017年 9月23日(土)01時02分18秒
  私は創価学会の解散をすすめます

現実は存続するよね

なぜなら、皆先生の指導を無視するから

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」


ただここに来てほぼ解散と同じ事が起きそうなので

日蓮世界宗創価学会の立ち上げ

良かったかも、ですね


日蓮世界宗創価学会、名前は先生の構想が実現しそうですね


先生の教えを人生の指針にする人・先生を師匠(先生)と決める人

って書いたのだけど、良い言葉がわからなくて

「教え」ってのはやっぱりおかしいですね


先生の言葉を心に刻む人には

宗教の違いなどどうでも良いことですね


たまたま先生が信じた宗教が日蓮正宗だった

その為、54年の悲劇が起こった


宗教の違いなどどうでも良いってことは

日蓮世界宗創価学会員でも良いになりました

犯罪的な教団でなければね
 

生涯広布&広布一筋(正義の師子同盟)様

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 9月23日(土)01時01分16秒
  栃木の久保田です。m(._.)mヽ(^○^)ノ

生涯広布&広布一筋様、感動的なお話をありがとうございます。m(._.)m

ポーランド人のイレーナセンドラさんのお話はしりませんでした。人類は今まで数々の過ちを犯しながらも未だ差別したり争いの連続で人として人間性を失うこと以上の不幸が有るのでしょうか?

北朝鮮と万が一にも戦争することになってしまえば両国の罪の無い国民がどれ程の被害を受けるか想像も出来ないですよね隣国も只ではすまないのでは無いのでしょうか?

愚かな指導者に率いられる民衆ほど不幸なことはないとの人間革命の一節が我が師匠のどれ程深いひと言なのかがわかります。

いざとなった時に人間の本性が出るのでしょうが、私もかくありたいです。そのような状況にそうぐうしないと分かりませんけとm(._.)m

 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 9月22日(金)23時55分21秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
平田真吾様
良い曲、ありがとうございました
おやすみなさい
 

同盟題目!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 9月22日(金)22時56分17秒
  23時より開始です。池田先生、奥様のご健康を祈ります。よろしくお願い致します。  

小説「人間革命」とは。

 投稿者:連絡の局  投稿日:2017年 9月22日(金)22時45分4秒
編集済
  よいとまけ様の意見は意見として大事だと思う。

言論問題を経て54年会長辞任につながるのは、ここで様々な論師が多角的に捉え今に至るまで様々書き込みをされてきた。

今の青年部、ヤング壮年部の幹部、下手すると職員ですら知らないだろう。「社長会記録」なる、本来なら門外不出の筈の「言行録」が大事に保管されていた本部より流出する事態になり、大変な騒動に発展し、学会を取り巻く環境が窮地におちる。

流出させた輩は、その後、職員の証言や党関係者、または市井の一会員達の手により今や明らかに。

その社長会記録は外郭団体、K氏のメモによるものである。

以下、一部を紹介する。どう捉えようとそれは自由であり、信濃町はお得意の怪文書である、著作権がどうのとか言うだろう。
ーーーーーーーーー
昭和43年11月25日

戸田先生の事をこんなに自由闊達に話せるのは私しかいない。「人間革命」は先生お一人が見ていただければ良いのだ。
 

【定期案内】「教学部レポート」「遠藤文書」のおすすめ!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 9月22日(金)22時06分56秒
編集済
  「教学部レポート」「遠藤文書」をお読みください!

■公明党の変質。実は、その理由は学会の現執行部の狂いにあります。原田学会となり、権力により人を抑圧する狂った様子がよくわかります。

教義変更の裏にあるのは、4人組みによる池田先生のつくられた創価学会乗っ取りの策謀です。事実、教義変更、会憲の制定と、記載された内容の通りに事が運んでいます。

遠藤文書では原田会長の指示により携帯電話を取り上げるなどの人権無視の有り様がうかがえます。なぜ怪文書と騒いだのか?執行部の魂胆が透けてみえます。

********************
【教学部レポート・遠藤文書を希望される方はこちら】
をご覧ください。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64034

【教学部レポートとは】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=10270

【遠藤文書】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=2096
 

創価学会と『人間革命』

 投稿者:よいとまけ  投稿日:2017年 9月22日(金)20時54分51秒
  ・『人間革命』とは、創価学会名誉会長池田大作の小説である。創価学会では、日蓮遺文を
 「御書」と呼び聖典としているが、『人間革命』も「現代の御書」とされ重視されている。

・創価学会は平成3年(1991年)に破門されるまでは日蓮正宗の信徒団体だった。日蓮正宗
 ではその総本山大石寺の大御本尊を唯一絶対とし、創価学会も大御本尊を神聖視していた。

・『人間革命』の大部分は破門前に執筆されたため現在の信仰の在り方と齟齬が生じている。
 「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教
 と断定すべきである」(『人間革命』第二巻)
 「なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の信仰だけは、絶対に疑っては
 ならぬ」(『人間革命』第六巻)

・創価学会は平成26年(2014年)、大石寺の大御本尊は〈謗法の地にあるので受持の対象に
 しない〉と聖教新聞で宣言した。教義を変更し、日蓮正宗の信仰を全否定したのである。
 このような「矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定すべき」ではないのだろうか。
 

平田 真吾様へ

 投稿者:窮状  投稿日:2017年 9月22日(金)20時44分37秒
  感動の歌 ありがとうございます。

今、もの凄い勢いであっちもこっちも皆んな立ち上がっています。

もう、止められません!

さらば ハラダよ!
 

本日の東京新聞

 投稿者:窮状  投稿日:2017年 9月22日(金)20時09分2秒
  核禁止に対し公明姿勢問う  

私も負けない!

 投稿者:平田真吾@nanriguyメール  投稿日:2017年 9月22日(金)19時14分19秒
編集済
 
Interactive双方向不二の唄



https://youtu.be/S0mOXC8pJfM




 

おまけ

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年 9月22日(金)17時54分11秒
  「森友・加計学園問題」と「グラマン事件」(1979)の驚くべき類似性・・・ここでは皆まで言わない、書かない。。

戦時中は「八絋一宇」、戦後になると「世界は一家、人類は皆兄弟」と説くファシスト(国家主義者)。
金は天下の廻りもの、、、と言うものの、しょせん「国家」とは富める者が財を貪り囲う必要から貧しき者をたぶらかす道具でありイリュージョンに過ぎない。

グローバリストはファシストと同一人格。機に応じてそれぞれの顔を使い分けるだけである。

そして学会も、あの安保闘争のさなか「八絋一宇」の旗印を「世界広布」に書き換えただけの感覚の元・軍国少年たちが32歳の青年会長を取り囲んでしまった。
何ら必然性もないのに公職に在る間「陸軍航空士官学校」卒業を詐称し続けた“平和の党”の党首……いくつになっても消えない軍人への憧憬の念。。

 ♪戸締まり用心 火の用心……親を大切にしよう! 一日一善~~!!!
 モーターボート競争の収益金はウンタラカンタラ・・・

 ---地獄へ至る道は、いつも善意で舗装されている---当然、いま現在もそう。。

追記;下のほうで安倍応援団・長谷川某の駄文を貼付ける「周回遅れのネトウヨもどき」がまたぞろうごめいてきた。

 

一部補足の修正

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 9月22日(金)17時35分53秒
   【「信」の法性は清浄の都にこそ立つ!】の最終部分を一部補足しましたので、ご報告致します。
 発言者の名前を特定する資料が見つかったためです。すみません。
 http://6027.teacup.com/situation/bbs/74480
 

mission様、細かいようですが……

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年 9月22日(金)17時05分53秒
  《学会は公明党の指示母体》・・・X指示母体→○支持母体ですね。
「政党指示」ではなく「政党支持」。

現状、先生が意図したものとは真逆の実情ではありますが。。
さらに深読みをしていけば、、、

 ↓昭和54年当時、あるジャーナリストが先生“勇退”直後に記した文章から↓

 ーーーーー ーーーーー

 イデオロギー集団を撃つには、その教義と組織を頂上から裾野へ向け撃つしかない。この両面で、立正佼成会と創価学会は共に、地上の権力たる政界とマスコミ界により撃たれた。立正佼成会の場合、岸首相の要請で昭和35年の安保条約締結に際し、宗教界を二分し、賛成側に廻り、その後、自民と民社に肩入れした権力追従の道を歩む。
 創価学会の場合、自民の田中角栄が調停に乗り出したが、民社・社会・共産3党の拒絶に遇い“左”から徹底して撃たれる。
 ところが、今回の反創価学会キャンペーンでは明らかに“右”からのそれで、政治的にみれば自民(政府・内調・公安)と民社、そして右派教団、右翼団体の線だ。
 すでに根本教義を放棄した〔引用者註=国立戒壇の件と政教分離での王仏冥合の否定〕創価学会は公称の1600万どころか400、500万といわれるほど衰弱化しており、別働隊としての公明党が逆に伸びている。
 だから今回の仕掛人が「公明党幹部のY」といわれる所以が理解できる。

 ーーーーー ーーーーー

 たとえば今日の宗教界再編成(右旋回)を策す国際連邦運動の別働隊として「日本を守る会」〔引用者註=日本会議の前身組織の一つ〕が、極右文化人、宗教人に率いられ、自民党の青嵐会に連結される。そして、バチカンによって「ファシズムだ」と規定された創価学会が新宗連という対学会包囲網と戦い、現在では雑誌ジャーナリズムを中心に“言論弾圧”されている。日共が撃たれ、次に学会という順番だ。
 つまり、攻撃されているのは創共協定なのである。学会を撃ち公明党を右旋回させれば自公民路線が接近する。簡単な構図だ。

 「日本を守る会」とは極右の日本主義者からなる国際連邦運動者であり、それらの上位に日本の政財界エリート層と結合したバチカン・プロテスタント勢力の欧米多国籍企業のファミリーが遠望できる。こちらも、きわめて簡単な構図だ。
 WCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会では、この3月、「第七回宗教者研究集会」を開き、「世界共同体を指向する宗教」をメイン・テーマとし、日本の五大宗教団体〔引用者註=仏教、神社本庁、教派神道、キリスト教、新宗連加盟教団〕が足並みをそろえはじめた。
 いよいよ出たな。これはこの8月、ニューヨークで開かれる第三回WCRPへ備え、「経済・軍縮・人権・教育」など各個別の世界的テーマを練るためである。
 反創価学会キャンペーンを、こうした高見から眺め、「汚ねぇなぁ」と推理しなければつまらないし、もとより「グラマン事件」とて同様な見地から眺めることが必要である。

 (引用終わり。以上、赤間剛:著『思想劇としての戦略』より)

 ーーーーー ーーーーー

 >>政教分離以降、疎遠化していく党と学会の間隙を突き竹入・矢野らを傀儡にした「公明党を通じての学会支配」を企図する勢力の存在…。

 >>WCRP(世界宗教者平和会議)日本委員会の名誉議長を長年務め、国際間の宗教協力に中心的役割を果たしてきたのが立正佼成会開祖・庭野日敬(1999年10月死去)
   彼は1979年(昭和54年)4月9日・・・すなわち創価学会・池田第三代会長辞任の直前・・・「宗教界のノーベル賞」といわれるテンプルトン賞を受賞。
 

お久しぶりです。

 投稿者:スーパーバットマン  投稿日:2017年 9月22日(金)16時20分1秒
  連絡の局 様
大事な御指導、誠に有難うございます。

思えば、青年部時代は苦しかったが、その何百、何千、何万倍も楽しかった!

このような先生の生の声と鋭い眼光に照らされているような魂の御指導に触れ、
己の全生命が、躍動し、大歓喜の涙に咽ながら学会活動に全身全霊で没頭できた。

それが、今はどうだ!
国粋主義者どもに連なる政治活動があたかも学会活動の王道のよになってしまった学会。
戦えばた戦うほど、反池田思想・反仏法になってしまうとしか思えない大矛盾を抱えながらの苦々しい、確信のもてない学会活動!

何たることか!!

一騎当千の獅子の陣列を腑抜け同然の羊集団に貶めたのは原田!執行部!お前たちだ!!
どれほど仏法上の罪が重いことか!!
どれほど池田先生のお心を殺せば気が済むのか!己の臆病な保身の為に!!

それにしても今の青年部は可哀そうだ。
こんな官僚的、全体主義的、形式的な学会で、全生命が溶鉱炉の中で先生と融合するような信心の大歓喜を感得する法戦を経験するなどほとんど不可能であろう。

すべてお前たち増上慢の執行部の責任だ!!
本部職員どもよ!そして畜生のごとく上に隷属するのみの中堅幹部どもよ!
お前たちは極悪中の極悪ぞ!!
肝に銘じよ!!御本尊の前で一切の誤魔化しはきかんぞ!
 

折々の指導を再掲します

 投稿者:連絡の局  投稿日:2017年 9月22日(金)14時11分26秒
編集済
  (2010・3・9開催 県長会での理事長指導)要旨

今後、これらの指導が現執行部で都合よくアレンジ(特に赤い文字の幹部)され、職員幹部を中心に現場や新聞で煽るだろうと予測されます。
末端組織の皆さま、先手を打って是非、ご活用ください!
--------------------------------------------------------------------------

幹部はフル回転で動き戦いなさい。

学会の為、会員の為、誰よりも真剣に祈りなさい。


祈って祈って誠実に動くのだ。戦いは上で決まる。上が真剣であれば諸天は護る。

真剣でなければ諸天は護ってくれない。

戦いは甘くないよ! 真剣勝負だよ! 死に物狂いで動け!

自分の為でなく学会の為に動くんだ。

あえて厳しく言うのも会員の為、学会の為だから だから言うのだ。

勝たなければならない。 負ければ会員が可哀想だ。

戦いと言うのは、先生の為に喜んでもらうために戦い、勝つのだ。

私はTの為にすべて そうしてきた。

第一線の学会員は一生懸命戦って下さっている。心配なのは上だ。


何度も言うけれども、油断が一番こわい。私は50年間厳しい中で戦ってきた。

ただ、師匠の為に この一点で戦った。幹部の一念はこの一点。

師匠の為に戦うという一点しかない。

「心こそ大切である」心が乱れてしまったら、大変じゃないか。

Pの息吹を叫ぶ、師弟不二の息吹がないと勝てないよ。


先生の為にという息吹を強くするんだ。今こそ大事だよ。

本物の師弟に生きる人材となれ、人材を造れ、剣を抜け、幹部は大革命するんだ。

幹部がぼーっとしていると会員が苦しんでしまう。

幹部が苦しんで会員を楽にしてあげるんだ。勝利に走って行くんだ。


勝ちなさい。人格で戦い。誠実で戦い。真剣で勝っていくんだ。

絶対に油断するな。ここまで学会を作って、おめおめと崩されてはならない。

http://

 

「99%」という幻想

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 9月22日(金)14時02分3秒
  (引用ばかりで恐縮です・・)

ルモンド日本語版より・・

<貼り付け開始>

水は100℃に達すれば間違いなく沸騰する。

だが、人間社会そのものが物理学の法則に従うことは期待しないほうがいい。

世界で生み出される富の大部分を上位1%の人々が独占していることは確かだが、だからと言って、

残りの99%の人々が連帯した社会グループを形成するとは限らない。

まして一つの政治勢力となって沸き立つようなこともない。

中略

他の99%の人々には、現体制を打ち倒すためのエネルギーを結集できるほど多くの共通点があるのだろうか?

中略

しかし、たとえ人々の結集と団結が力を生み出すとしても……

歴史を振り返れば、彼らが一体となって行動する重大な瞬間は長くは続かないことが分かる。

ラマルティーヌが友愛を唱えた1848年2月、

労働者とブルジョワの人々は一緒になってバリケードを守ったが、

数週間後には彼らは互いを敵視して衝突し、死者を出す「六月事件」へと至った



「人間社会から寡頭支配を排除する」といった大まかな考え方に基づいて

共通の計画や持続的な政治勢力を構想するならば、せいぜいユートピア的幻想となるか、

最悪の場合、選択をしない、決断を避けるといった無気力に人々は陥ることになる。

そして結局、彼らは当事者間の契約に関わる法律や子供の虐待、

交通事故といった身近な事柄にしか関心を持たなくなる。

セルジュ・アリミ (Serge Halimi)
訳:村松恭平
出典:http://www.diplo.jp/articles17/1708-1Le%20leurre%20des%2099.html

<貼り付け終わり>

今の我々の問題を解決するには、一人立つしかない・・

一人の偉大なる人間革命・・による、革命・変革・

持ち場、持ち場、自分の地域、周りから・・

その一人立つ者の連帯の広場・・宿坊・・感謝
 

永遠の21歳

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 9月22日(金)13時43分36秒
  ・・大紀元の記事より・・

<抜粋貼り付け開始>

収容所で薬物注射、暴行、精神喪失…エリート学生が非業の死を遂げるまで

・・・・

収監中、筆舌に尽くしがたい虐待を受けていたことは、出所後の彼女の言動から察しがつく。

親戚や地域の法輪功学習者が身の回りの世話を行っており、

彼女の周囲に起きた出来事について明慧ネットに報告していた。



2005年の冬。

ガラスのない窓から北風が吹きつける粗末な小屋に、無表情で、オンドルに腰かける志梅さん。

尿で濡れた布団。自らの便を塗った壁。部屋に充満する異臭も分からないようで、

ただぶつぶつ、彼女は独り言をつぶやいていた。

精神喪失状態の志梅さんは、時折、表情をこわばらせ、外に向けて何かを押し出す姿勢をとった。

部屋に人が立ち入ると、部屋の隅に移動して、手で胸を保護した。

親戚の女性が志梅さんを着替えさせるとき、うっかり胸に触れた。

突然思い出したかのように、親戚の手を自分の乳房の上に押しつけ、乱暴に扱れた様子を述べた。

「彼らは私をこのように殴ったのよ。このように、このように。私はとても痛かったの…」

志梅さんの臀部から足首までは濃い紫色で覆われていた。足幅を広げた通常の歩行はできなかった。

生理は3~5日間と頻繁にきて、服が真っ赤に染まった。

永遠の21歳

志梅さんは、年齢を聞かれると真面目に「21歳」と答えた。

清華大学での学園生活を謳歌し、学業に勤しんでいたときだった。

彼女の時間と記憶は、当時のまま静止しているようだった。

http://www.epochtimes.jp/2017/09/28422.html

<貼り付け終わり>

昨日のシナモンゴー様の代理投稿であった、神聖であるべきはずの我が教団・・

そこに、多くの鬼畜のような者が跋扈していることがわかった・・

二つの暴力で精神を破壊、他人救済ではなく人間破壊、断じて許してはならない・・
 

ユダヤ人の子供たちを救出したポーランドの女性

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年 9月22日(金)13時01分30秒
編集済
  ・・庶民の中に真の英雄・・

出典:http://www.epochtimes.jp/2017/09/28343.html

1940年、外交官として数千人のユダヤ人に「命のビザ」を発給し、彼らを迫害から救出した杉原千畝。

ポーランドにも、命の危険を冒しながらユダヤ人の子供たちを救った女性がいる。

ポーランドにドイツ軍が進駐し、ワルシャワにユダヤ人ゲットー(強制居住区)が設置された頃、

ポーランド人のイレーナ・センドラーさん(Irena Sendler)は、看護士として働いていた。

彼女はクリスチャンだったが、ユダヤ人が迫害されていることに憤りを感じていた。

彼女はユダヤ人救済のための地下組織ジェゴタ(Zegota)に加わり、

ユダヤ人の子供たちを救出することに乗りだした。

センドラーさんが行った救出作戦は、命がけだった。

ゲットーに収容されている子供たちに病気にかかったふりをさせ、次々と病院へ連れ出したのだ。

監視の目が厳しくなると、彼女は子供たちを棺桶やスーツケース、ゴミ袋などに隠し、

こっそりと彼らをゲットーから救出した。

迫害が終わった時に家族と再会できるように、彼女はひとりひとりの子供の名前をリストに残していた。

活動が発覚して逮捕されるまで、彼女は2500人以上の子供を救ったのである。

中略

センドラーさんの勇敢な行動の原動力は、何だったのか。

スウェーデンの日刊紙 Sydsvenskanに語ったところによると、

彼女は父親から、「人が溺れているのを見かけたら、たとえ泳げなくても、

その人を救出する努力をするべきだ」と教えられていたという。

彼女にとって、当時溺れかけていたのはユダヤ人だけでなく、ポーランドという国そのものだった。

「宗教や国籍に関係なく、溺れている人を見たら助けなければならない。そう言われて育ちました」

とセンドラーさんは話している。

<貼り付け終わり>

今、第六天の魔王によって溺れさせられているのはメンバーだけではなく、創価学会そのもの・・
 

長谷川幸洋

 投稿者:tso  投稿日:2017年 9月22日(金)12時54分33秒
  私の予測が的中した理由
安倍晋三首相が衆院解散・総選挙の意向を固めた。野党や左派系マスコミは「森友、加計疑惑隠しだ」「解散の大義がない」などと一斉に反発している。本音は「敗色濃厚の選挙はしたくない」だろう。受けて立つ気概はないのか。
私は先週のコラムで、9月臨時国会での冒頭解散を予想した(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52905)。末尾で首相の決断について「いまは『いずれ、なんらかの展開があったときに分かる』としか申し上げられないのが、実に残念」と書いたら、直後に解散報道が相次いだ。自分で言うのもなんだが、まさに申し分のない展開である(笑)。
なぜ予想できたかといえば、秘密はべつに何もない。自分の読みだ。首相や官房長官に取材しようと思えばできなくはないが、恥ずかしくて「解散するんですか」などとはとても聞けない。「バカな質問するなよ」と苦笑いされるのがオチだからだ。
なんでも直撃質問すればいいと思っている厚顔無恥の女性記者が話題になっているが、彼女はただの「おバカ」か「ピエロ」だ。ときには直撃も大事だが、客観情勢から「こうなる」と分析するのも記者の仕事である。私は主に後者を仕事のスタイルにしている。
先週のコラムで書いたように、各マスコミの世論調査で内閣支持率が急回復した半面、野党への期待は冷え切っていた。民進党は山尾志桜里議員の不倫スキャンダルが尾を引く一方、離党の動きが止まらない。小池百合子東京都知事の新党構想も進んでいない。
となれば、総理が解散したくなるのは当然である。そこを書いただけだ。日本のジャーナリズムには、なぜか私のようなスタイルの記者が少ない。というか、ほとんどいない。読者には、ぜひ今後ともご愛読をお願いする(笑)。
さて宣伝はこれくらいにして(笑)、本題に移ろう。
衆院解散に大義は必要なのか。私は、とってつけたような大義名分は必要ないと思っている。なぜかといえば、衆院解散とは本質的に与野党の権力闘争であるからだ。
政権与党はこれこれの国家戦略と理念、政策を掲げて国民に信を問う。それに対して、野党も野党なりの国家戦略と理念、政策を掲げて戦う。国民はそれを見たり聞いたりして、どちらに国の行く末を任せるのに適当か、判断を下す。それが総選挙だ。
これほど分かりやすい選挙もない
安倍政権と野党の政治路線はあきらかに違う。安倍政権の経済政策は成長重視だ。それに対して野党は格差是正、言い換えれば分配重視である。安倍政権の外交安全保障政策は日米同盟を基軸にして中国や北朝鮮の脅威に対抗するのが基本である。
それに対して民進党は日米同盟重視と言いながら、一昨年の安保関連法見直しに強く反対し、いまの前原誠司代表も政権をとれば廃止・見直しを公言している。共産党はもっと極端で、日米安保条約そのものの廃棄や自衛隊の解消を掲げている。
加えて最近の野党はといえば、北朝鮮情勢の緊迫化などほったらかしで、ひたすら森友学園や加計学園問題で政権追及に精力を投入した。国会はモリカケ問題に多くの時間を費やしたが、結局「総理の関与」を示す証拠は出てこなかった。
それどころか、加戸守行・元愛媛県知事が国会で「加計学園を招いたのは私」と決定的証言をしたにもかかわらず、NHKを含めて左派系マスコミは加戸証言を無視してほとんど報じなかった。「偏向報道も極まれり」である。かくのごとく安倍政権と野党(加えて左派系マスコミ)の対立は深まっている。
そうであれば、なおのこと、安倍政権と野党勢力のどちらが国の将来を担うのにふさわしいか、日本の平和と安全、繁栄が脅かされている戦後最大の重大局面で、解散・総選挙は国民の声を聞く最善の機会になる。それこそが「解散の大義」にほかならない。
もしも安倍政権が間違っていると国民が判断するなら、早めに軌道修正したほうがいいに決まっている。逆に、政権があらためて国民の信頼を得るなら、いっそう強力に安倍路線を推進できる。
国民の目から見ても、今回の総選挙は分かりやすい。多くの人々は安倍政権と野党勢力(加えて左派系マスコミ)との対立構図を十分承知している。私たちはどっちがいいか、選ぶだけだ。これほど分かりやすい選択はめったにない。
「分かりやすさ」は民主主義にとっていいことだ。「どう選んでいいか分からない」「どちらを選んでも一緒」というような状況だと、何が起きるか。政治がつまらなくなって無関心層が増え、結局、社会が停滞する。
北朝鮮情勢が緊迫する中、日米同盟弱体化につながる安保法制廃止を唱える民進党に政治を委ねるべきか。あるいは同盟廃棄や自衛隊解消を唱える共産党に期待すべきか。これだけ路線が明確に違えば、有権者は判断しやすい。
「解散するな」と言う人々の自己矛盾
テレビの報道番組を見ていたら「大義なき解散」という批判では言い足りないと思ったのか、あるコメンテーターは「衆院解散は国民に対する背信行為」とまで述べた。重大局面で国民の声を聞くのが、なぜ国民への背信になるのか、私はさっぱり理解できない。
モリカケ問題で説明が足りないまま解散するからか。それは、当の番組を含めた左派系マスコミの問題である。安倍政権は国会で説明を尽くした。左派系マスコミが政府や加戸・元愛媛県知事の言い分をしっかり伝えなかっただけだ。
先のコメンテーターは解散を背信行為と批判した。つまり、彼は政権を批判する一方で「解散するな」、すなわち「このまま安倍政権を続けよ」と言っている。
なぜ、そんな自己矛盾が起きるのか。選挙の結果次第で「もしかしたら安倍政権が終わるかもしれない」などとは夢にも思っていないからだ。それがホンネである。つまり「野党が負けそうな選挙だからやってほしくない」と思っているのだ。
そう正直に言ってしまったら、ミもフタもないから「タイギ、タイギ」と言っている。もっともらしい話をしながら、実は権力闘争に負けるのを恐れている。殴り合いのケンカに負けそうだから、土壇場できれいごとを唱える気弱な子供のようではないか。
こういうところに、何かと言えば格好をつけたがる左派の情けなさがにじみ出ている。政権に解散の大義を求める前に、自らチャンスと受け止め、左派の大義を掲げて戦いに立つべきではないか。それとも、もう左派の大義を掲げる勇気はないのか。
権力をめぐる戦いは勝つか負けるか、生きるか死ぬかである。安倍政権は勝負に出た。野党も性根を据えて戦いに臨むべきだ。いまさら泣き言を言っている場合ではない。
 

我々は、幻影を見せられているのではないか?

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 9月22日(金)12時51分30秒
  今日の公明新聞、一面にデカデカと第一次公認候補を発表。何たる厚かましさかと、腹が立つ。

三面の顔写真を見ると、落としたい議員達のオンパレード。ああ、あの時信じられないほど馬鹿な事を言っていたアイツだ!と、当時の怒りがまだ鮮明によみがえる。

平和主義者である我々学会員が、何故こんな反平和主義達を応援しなければならないのだ。
今の公明党は間違いなく下駄の雪。国会議員生活をエンジョイしたいが為に、宗教的信念を捨てた者達だ。

佐渡流罪の後、他宗の批判さえやめてもらえれば、大寺院でも寄進致しましょう、という幕府の申し出を蹴って、身延に入られた大聖人とは似ても似つかない者達だ。

安保法案を受け入れたあの時点で、公明党の堕落は決定した。
安保法案は神札そのものだったのだ。当時、池田先生からの警告のメッセージが何度もあったのに、それを宗門に対する批判だと曲解し続けた時点で、もう終わっているのだ。


公明新聞のみならず、聖教新聞の方はあいも変わらずの、口だけ反核アピール。

本気で反核したいなら、何とでも出来るだろう。
公明党など学会の支持が無ければ、瞬間的に消えて無くなる政党だ。

今回の選挙は自由投票にしますと言うだけで、十分な効果があるはずだ。
それなら政教一致にもならないだろう。どの政党を支持するかしないかなど、宗教団体の自由だ。

池田先生が強く勧める核兵器禁止条約。
大っぴらに否定すると、さすがに学会員もおかしいと気がつく。
だから口だけ賛成して、実際には真逆の事をしているのが、現在の原田執行部だ。


池田先生と奥様が神奈川文化を訪問されたそうだが、前にも言ったように、もっと誰が見ても納得出来るように報道したらどうだ。
何故写真が載らないのだ。

何か載せられない理由があるのなら、そこをはっきりさせるべきだろう。

私はS54年をリアルタイムで経験しているが、当時の状況とあまりにもそっくりすぎるのだ。
当時も写真は出なかった。写真どころか、連載中の人間革命さえ代筆ではないか、という噂があり、末端の私の耳にさえ届いていた。

池田先生を、選挙に勝ちたいが為に、裏切り者達が利用しているだけではないのか?
本当に行かれたかどうかを疑う見方があるのなら、疑う余地が無くなるような写真を示せばいいだけの話ではないか。何故そんな事さえ出来ないのだ。

今のような形の報道では、私の疑いは消えない。



 

あなたがここにいてほしい

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 9月22日(金)09時10分53秒
  元職員のブログが更新されています。
『関西・大阪座談会報告(上)』
http://harunokoime20150831.blog.fc2.com/blog-entry-130.html
>Aさんの胸には、あの「君が世界を変えていく」の“反対せず、行動せず、沈黙することは、消極的な支持である”の一文が心の支えになっていた<

→これと似た印象のある米ドラマ『アンダー・ザ・ドーム』シーズン1#12ではこんな格言がありました。
「悪が栄えるために必要なのは一つ。善人が何もしないことである」

>「題目はあげてる?」と聞くと、「毎日唱えているよ。題目をあげると心が落ち着き、ぐっすり眠れ、元気になるんだよ」と話されたという<

→池田先生はよく「おとぎ話のように聞こえるかも知れないが、妙法は実在する宇宙・生命の法則である」といったことを言われていました。
実際「おとぎ話」のように思っている人が多いのでしょう。が、仏法は気休めや慰めではありません。事実の上で生命が変革し「蘇生」していくのです。

このことを、仏法が本物であることを科学的に証明して書き表された『日蓮仏法3.0』シリーズ(仮称)日本語版の準備を2.0さんが進めて下さっています。年内完成の目標だそうです。期待はかけてもプレッシャーはかけませんように。

P.S.mission様
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74476
実は『池田会長講演集 第三巻』をJACKさんが文字起こしして下さったものがあります。
JACKさん、すみません。探す手間を省いてしまいました。
宿坊の過去ログを探す作業が楽ではありません。何かいい方法があるのでしょうか。すみません。お許し下さい。
でも、同書の持つ意味は大きいですよね。(特に<創価学会の体質問題>。池田先生はこの業病と一人、長く闘って来られたのですね。これは宗教全般に共通する悪業なのでしょう。この宿命転換を弟子が出来るかどうか、ですね)私も宿坊でどなたかに教わって急いでアマゾンで買いました。今は売り切れで買えないようです。

ダメよ~さん、貴重な文証をありがとうございます。こうしてシェアして未来に残すことの意味は大きいと思います。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74467
http://6027.teacup.com/situation/bbs/74470

“じゃあちゃんとわかってるんだよな そこが天国なのかそれとも地獄なのか”
“今のその生活が,青空なのか,それともただの苦痛なのか”
“緑の草地が 冷たい鋼鉄のレイルが区別できるのか?”
“笑顔が本物なのか,それともただの見せかけなのかも ちゃんとわかってると思うのか?”
“ヤツらと取引させられたのか?”
“お前の憧れの人生を抜け殻の人生と 燃える灰を木と 暑い空気を冷たいそよ風と”
“ちっとも嬉しくない慰めと引き換えに お前は交換してしまったのか”
“自由への戦いでの端役と 冷たい檻のなかでの主役とを”
“お互いただの迷える魂じゃないか 自分の金魚鉢のなかで,ずっと泳ぎ続けてる”
“同じことの繰り返しだ 結局,何が残った? 昔と同じような不安を感じただけ”
『あなたがここにいてほしい』ピンクフロイド
https://www.youtube.com/watch?v=OKxTus2MoUU

『凡夫即身成仏論』オンデマンド (ペーパーバック) ? 2017/5/17 松戸行雄 (著)
「人間主義の日蓮本仏論」への進化・深化   絶賛発売中!!!
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72980
 

殿、ご乱心

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 9月22日(金)08時56分57秒
編集済
 

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創価学会は池田先生の幸の城、広布の城。
みんなで護っていかなければいけないのだけれど
どうやら、天守閣に現在いる殿様とお仲間がご乱心。
こんなとき、昔のお侍さんたちはどうしたのか
ウェブで調べていたら気になる以下の記事を発見しました。

「殿、ご乱心」。そのとき、あなたは……
http://toyokeizai.net/articles/-/29127

城を護るために一度城の外に出て仲間とともに
城を取りもどすのもよし、城の内側からチャンスを
待って、城の外の仲間と協力して戦うのもよし、
そんな考えが頭に浮かんできました。
梁山泊の革命の戦いがはじまっているのです!

私はこの全世界、全宇宙こそが
池田先生の幸の城なんだと思えてきました。
そう考えて紅の歌を聴いてみると・・・。

http://www.sokanet.jp/kaiin/songs/kurenainouta.html


”世界中の老いたる父母の
築きたる 広布の城をいざ
護り抜け 眩き地平に
澎湃(ほうはい)と 若き翼よ 爽やかに”
絶対に広布の城を護るのです!
みんないくつになっても青年部だからです!

池田先生のコメントから
”老いたる母の築きたる 広布の城をいざ護り抜け』
これだよ!創価学会は、名も無き母たちが、世間の非難中
傷を受けながら、必死に築いてきた。その城を護るのが、
青年の使命ではないか!”
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http://imagine-happy-life.tokyo/

 

 「信」の法性は清浄の都にこそ立つ!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 9月22日(金)08時27分50秒
編集済
   私が手放せないでいる言葉に、すでにあげました「信じる心」と「七字五字の南無妙法蓮華経」に加え、「清浄」があります。御書には、「清浄」の言葉が頻繁に登場してきます。その「清浄」をどう紐解くかだと思っています。単に盲目の信心を促すものなのでしょうか。そうではありますまい。以下、そのいくつかを列記してみました。
 【ご参考】
 「人法一箇の南無妙法蓮華経」
 http://6027.teacup.com/situation/bbs/59884
 「己心の妙法蓮華経」
 http://sgi-shiteifuni.com/?p=11826

 「起世経に云く『諸の衆生有りて放逸を為し 清浄の行を汚す 故に天・雨を下さず』又云く『不如法あり 慳貪・嫉妬・邪見・顚倒なる故に天則ち雨を下さず』又経律異相に云く『五事有て雨無し 一二三之を略す 四には雨師婬乱 五には国王理をもつて治めず 雨師瞋る故に雨ふらず』云云」(下山御消息350㌻)
 (※起世経<きせきょう>=闍那崛多<じゃなくった>らの訳=長阿含経の異訳で世界の起源や生い立ちの因縁を説いている、経律異相<きょうりついそう>=中国・梁時代の編集=経、律などの異なった概念を整理集録)

 「六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり 別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり、所詮瑠璃と明鏡との二の譬を説かれたり 身根清浄の下なり、色心不二なれば何れも清浄の徳分なり」(御義口伝763㌻)
 (※瑠璃<るり>=青色の宝珠、緑柱石、七宝のひとつ)

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり、身浄は法師功徳品に云く『若持法華経 其身甚清浄』の文なり、心浄とは提婆品に云く『浄心信敬』と云云、浄とは法華経の信心なり不浄とは謗法なり云云」(御義口伝765㌻)

 「大白牛車とは『無明癡惑本是法性』の明闇一体の義なり、即ち三千具足の一乗をかかげたる車なれば明闇一体にして三千具足の義を顕すなり、法界に徧満(※遍満)したれども一法なるを一乗と云うなり、此の一乗とは諸乗具足の一乗なり 諸法具足の一法なり 故に一の白牛なり、又白牛は一なりといえども無量の白牛なり 一切衆生の体 大白牛車なるが故なり、然らば妙法の大白牛車に妙法の十界三千の衆生乗じたり 蓮華の大白牛車なれば十界三千の衆生も蓮華にして清浄なり 南無妙法蓮華経の法体此くの如し」(御義口伝795㌻)

 「妙法の薬草なれば十界三千の毒草・蓮華の薬草なれば本来清浄なり、清浄なれば仏なり 此の仏の説法とは南無妙法蓮華経なり云云、されば此の品には種相体性の種の字に種類種・相対種の二の開会之れ有り、相対種とは三毒即三徳なり 種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経なり種類種なり、十界三千の草木各各なれども只南無妙法蓮華経の一種なり、毒草の毒もなきなり清浄の草木にして薬草なり云云」(御義口伝795㌻)

 ここにあげた御文では、不浄のゆえに雨を降らせない。六根清浄は瑠璃のような明鏡である、清浄には身と心の清浄がある、妙法蓮華の大白牛車だから清浄である、蓮華の薬草だから「三毒即三徳」となり本来清浄である、が明らかになります。すべて「清浄」です。その根本の「清浄」とは、無濁、無垢、元々の、つまり「久遠元初」ということにならないでしょうか。

 またこんな御文もあります。
 「出家の二衆は多く道を修し 禅を得て謬(あやまっ)て聖果と謂い 偏(ひとえ)に上慢を起す」(御義口伝718㌻)。
 (※二衆=比丘比丘尼)

 「禅」と「聖果(しょうか)」とでは大きな違いがあるというのです。「聖果(しょうか)」の「聖」は、「耳」の「口」(つまり穴)の「王」で、よく聞こえる、神の声をよく聞き得る人のことを「聖人」といったとされます。菩提、涅槃は「悟り」です。ちなみに、「聖教」は「聖人」の「教え」だそうです。いまも通用しますかね(笑い)。

 圧巻は、始聞仏乗義で明かされる“相対種”の「清浄」です。

 「法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、答う止観に云く『云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ 是の三即(すなわ)ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり 般若清浄なれば余亦清浄なり 解脱自在なれば余亦自在なり 一切の法を聞くこと亦是の如し 皆仏法を具して減少する所無し 是を聞円と名く』等云云、此の釈は即ち相対種の手本なり其の意如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり 所謂五陰・十二入・十八界なり 煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり 結業とは五逆・十悪・四重(※禁)等なり、法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり 我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり」(始聞仏乗義983㌻)
 (※開会=開顕会融<かいけんえにゅう>の義、人法がある。就類種<=種類種>=善の因は善、悪の因は悪と類別に見る、相対種=善も悪も一体にしてそのまま善と開く法門、十二入・十八界=眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(感覚器官)に色・声・香・味・触・法の六境(対象事象)を合わせたものが十二入、さらに眼・耳・鼻・舌・身・意の六識(認知)を加えて十八界という)。

 法華経本門の“相対種”の知見から見れば、「法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり 般若清浄なれば余亦清浄なり」です。生死の苦しみも、煩悩の束縛も、結業という宿業も、一切が「清浄」に転じるということになります。「無明癡惑 本是法性」と同じといえます。鍵を握るのが本抄最後尾に示される(法華経を)「信ぜば」です。

 そのうえで、次の御文を拝すると、また、異なった視野が広がってきます。有名な御文です。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」(日女御前御返事1224㌻)

 まったくの私論です。「九識心王真如の都」の「都」とは「清浄の都」と拝せないでしょうか。「の」は、同格ではなく、所有の「の」とすることができます。あるいは区別のある「同時」です。「心王」は「法性」です。その「法性」の住処が「清浄の都」ということになります。「仏性とは法性なり」(聖愚問答抄498㌻)ですから、「九識心王」の「法性」は「胸中の肉団」の、さらに「清浄」の「真如の都」にあるということになります。「清浄の都」が重要な位置付けになります。だからこそ、「信」です。

 人間の身体が、「口」から「肛門」至る体内にある“外”を度外視すれば、いわば“無菌”の「清浄」であることは明らかです。本来、生命は、十界同時の成仏の「清浄」で生かされています。その典型が、「白牛は一なりといえども無量の白牛なり 一切衆生の体 大白牛車なるが故なり」の御文と拝せます。印度では、「白牛」が貴重な動物として重宝されていると言いますから、「大白牛車」は法華経です。「生命」です。

 どうやら、根本清浄のこの宇宙生命の顕現には「清浄」が不可欠で、その「清浄」を護る「金剛不壊」が、五濁(劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁)が遍満のこの娑婆では必須ということになります。それは「清浄」の“島”とも言えます。「清浄」とは“師匠”、「金剛不壊」とは“弟子”とも開けます。「個」にあっても「全体」にあっても、また「個人」にあっても「組織」にあっても、それは同じです。いわば“同時”です。

  では、「金剛不壊」であるためにどうするのかです。「信」を固めることこそ「金剛不壊」といえます。“鍛える”よりないのでないでしょうか。“智慧”を創造するよりないないのではないでしょうか。そもそも、十界各別も、依報に応じて「清浄」が紡(つむ)ぎ出した“智慧”にほかなりません。助言や参考例はあるにせよ、その“原動力”ともなる「清浄」を次から次と汲みだして、ほかならぬ、その「清浄」によって自身で造り出すものなのでしょう。智者が「偉大なる心は常に感恩の情に満つ」(新渡戸稲造・随想録第五巻)と語るように、「信」という法性は、きっと、「清浄」の都にこそ立つに違いありません……。
 【最終項2017・9・22/17:35一部補足】


 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、国連本部での核兵器禁止条約の署名式、誠におめでとうございま~す(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 9月22日(金)08時01分40秒
  おはようございます。原田怪鳥様、国連本部で核兵器禁止条約の署名式が行われ、同日中に50か国が署名、誠におめでとうございま~す(笑)

ところでぇ~、原田怪鳥様、この署名の中で、日本は署名したのでしょうかぁ~?(笑)

SGI代表が参加されたとのコトですが、原田怪鳥様はじめ、日本の執行部の大患部サマは、誰が御参加されたのデスかぁ~?(笑)

核兵器禁止を訴えるワリには、行動が伴わない、ホントに不思議な団体デスねぇ~、選挙でそれどころじゃなかったんですかぁ~(爆)


あわせまして、池田先生ご夫妻が、神奈川文化会館を訪問されたとのコト、誠におめでとうございま~す(笑)

原田怪鳥様、写真はないんデスかぁ~? どなたと御一緒だったんデスかぁ~? 会員と懇談されたり、写真を一緒に撮られなかったんデスかぁ~?

また、池田先生が鶴見区の神奈川池田記念講堂を望まれたのが21日、同講堂で、勇躍船出の集いとやらが行われたのが、20日、???

原田怪鳥様、日にちがズレてマスねぇ~、会員と師匠が接触するのが怖いんデスかぁ~?(笑)


もう一つありまぁ~す、「立正安国の歴史的闘争へ勇躍船出する大会」っていったい何のコトデスかぁ~?

「心を一つに合わせた電光石化の快進撃」「今まで生きてありつるは此の事にあはん為なりけり(御書P1451)」

勇ましいコトバが並んでマスけどぉ~、どう考えても、「選挙対策」デスよねぇ~(爆)

選挙で勝つコトが「立正安国の歴史的闘争」デスかぁ~? 原田怪鳥様はもしかして、「国立戒壇」を目指してるんデスかぁ~(大爆)

「心を一つに合わせて」って、もしかして、「異体同心」のコトを言ってるんデスかぁ~?

だとしたら、自民も民進も共産も、全員「異体同心」ってコトになりませんかぁ~(笑)

「今まで生きてありつるは此の事にあはん為なりけり(御書P1451)」って、「選挙」のたんびに、

「此の事」がやってくるんじゃあ、身が持ちましぇ~ん(爆)


そして、なによりも、「正義の神奈川よ勇み立て」と威勢はイイんデスけどぉ~、原田怪鳥様はどうして御参加されてないんデスかぁ~(笑)

核兵器禁止条約の署名式に御参加されてたのなら納得デスが、御名前もありませんよぉ~(笑)

他人にさんざ煽らせて、自らは「4号・5号」のトコロへ雲隠れデスかぁ~(笑)

谷川主任伏怪鳥様も、ゲームばかりされずに、少しは会員の前に姿を現したらいかがデスかぁ~(笑)


「声仏事を為す(御書708)」なんデスからぁ~、原田怪鳥様、谷川主任伏怪鳥様が、どんな声を挙げるのか?

ゼヒとも「仏事を為す」ていただきマスように、期待しないで待ってまぁ~す(大爆)



 

二十一世紀への対話 152

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年 9月22日(金)07時52分23秒
  【池田】 さきほどもちょっとふれましたが、私は、あらゆる人間生命は、個々の存在であるとともに、その生命の奥深いところで宇宙生命ともいうべき実在に合一している、と考えます。博士がいわれる“宇宙の背後にある究極の精神的実在”も、このように考えるとよく理解できます。
しかし、死にさいして肉体が無機物に還元されるのに対し、かつてある著書で述べられた「人間の魂は、宇宙の背後にある超人的な精神的実在の中に再吸収される」という博士の所説は、精神を一つの独立した実在とされているように思われます。もちろん、肉体は生きている間も絶えず変化しており、一定の期間がたてば、細胞はほとんど一新します。また、死ねば全体が無機物に還元されることも事実です。しかし、たとえば、三歳であったAという人が三十歳になったとしましょう。その場合、Aは肉体的には変化したわけですが、そのなかに一貫して持続する本質があることは明らかです。肉体はそれ自体が独立しているものではなく、その奥にある生命的傾向性と深い関係があります。逆にいえば、内在する精神的実在のなかに、絶えざる肉体的傾向をはらんでいると考えるほうが、より本質的な認識となるのではないでしょうか。
したがって、死によって現実の肉体は無機物に還元しても、精神的実在に内包された肉体的な傾向性は、持続すると考えることができると思います。そして、縁にふれて、再び顕現された形で肉体が持続するのではないでしょうか。死によって肉体と精神が分断されてしまうと考えるのは、おそらく知性の犯している誤りであって、事実はこのように考えるべきだと思っています。

【トインビー】 人間を精神的要素と肉体的要素に分離して考えることは、たしかに知性のなせるわざです。それは経験による既知事項(データ)ではなく、経験的データを考察して引き出した一つの結論なのです。したがって、それは考えられる唯一の結論でもなければ、これまでに人間が導き出した唯一の結論でもありません。
経験からいっても、われわれは肉体を離れた霊魂とか、魂をもたない人体などといったものには出会うことがありません。もちろん、精神的欠陥者や、耄碌した人の場合は、その精神機能にはかげりがさしていますし、肉体的欠陥をもつ人や不具者の場合は、身体のほうが不十分です。
しかし、こうした欠陥はいずれも異例とみなすべきで、精神と肉体が客観的事実としてそれぞれ独自に存在できる証拠にはなりません。これらは、われわれが人間を精神と肉体という観念上の二要素に知的分析を行なうことと、はっきり区別して考えるべきでしょう。

【池田】 さきほど博士は、死後の生命の存在の仕方について、それは時間次元を越えたものであろうとおっしゃいました。私も、それは正しいと思います。しかし、さらに掘り下げていえば、現に生きているこの生命も、その本質の実在においては時間次元を越えたものであると考えられます。なぜなら、もし人間の生命が時間という枠にはまった存在であるとすれば、人間の知性によってそれを理解することも、可能であるはずだからです。
この点に関連して、私はベルグソンの考察を思い起こします。ベルグソンは“流れる時間”という概念を主張し、過去・現在・未来という時間的区分はもともとあるのではなく、人間の意識の流れが過去・現在・未来という内的な持続を実感しつつ、つくりだすものであるとしました。
しかし、この“流れる意識”というものも、人間生命のごく一部にしかすぎません。ともあれ、生命自体には、もともと過去・現在・未来という現象的時間の区別は存在しないと考えられます。
そのような区別は、生命が肉体と精神とをそなえた存在として具体的活動を営んでいくとき、初めて現われるにすぎないものといえましょう。

【トインビー】 カントは時間と空間の概念は、人間の思考にとって不可避の範疇であることを指摘しました。また、アインシュタインの指摘によれば、時間・空間という二つの知的範疇を区別するのは、すべて人間の知性の働きにすぎず、科学上の観察をするにあたっては、時間は空間によって、空間は時間によって測定する以外にないとのことです。しかし、三つの知的範疇――時間・空間・時空――が客観的実体をもつと推定できる根拠を、われわれははたしてもっているでしょうか。これらの知的範疇も、あくまで人知の宇宙理解力の限界を示すものにすぎないのではないでしょうか。

【池田】 時間・空間というのは人間が創造した観念であり、人間の生命がその活動において設けた枠であると考えます。もし、この生命の発動がなければ、時間も空間もありえないでしょう。したがって、時間と空間というものを絶対的に実在するもののように考え、その枠に生命そのものをはめ込んで規定しようとすること自体、本末を転倒した考え方ではないかと思うのです。
時間とは、われわれが宇宙生命の活動や変化を通して感ずるものです。われわれの体験からいっても、時間の動きは、われわれの生命活動の状態によってさまざまに変化します。楽しいときには、時間は飛ぶように過ぎ去ってしまいますが、苦しいときには時計の針の進むのが非常に遅く感じられます。
そこで死の問題に戻りますが、さきほども少し話しましたように、仏法では死後のわれわれの生命の存在の仕方を“空”という概念でとらえています。“空”というのは、現象としては現われなくとも、厳然と実在する状態のことをいいます。実在するといっても、それは目には見えませんから、“無”と変わらないともいえましょう。しかし、実在する以上、縁にふれて目に見える現象として現われるのです。そうなると、“無”とはいえません。つまり“有”と“無”という二つの概念だけでは表現できない状態です。
結局、仏教の教えによれば、生命の本質は“生”すなわち“有”と“死”すなわち“無”とを現じながら、永遠に存続していく超時間的実在であるということができます。

【トインビー】 いまおっしやったことから、人間の真の存在は“空”の次元にあるといえるのではないでしょうか。それが、個人と宇宙の一体性を確認するヒンズー教の格言“汝はそれなり”(タツト・トヴアム・アシ)の意味するところでもあると思うのです。
結論として、死という現象は、われわれが心身統一体として見慣れている人間存在のうち、肉体面の分解をともなうわけですが、しかしそれは“実在それ自体”からみれば、じつは人間の知的着想力の限界から生じる幻想にすぎないことになります。したがってまた、“究極の実在”ないし“空”に関する疑問は、空間とか時間とかの観点から公式化してみたところで、回答が得られないわけです。
ここでいえることは、ヒンズー教や仏教で説く輪廻転生の概念にしても、ゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でいう一回限りの死者復活の概念にしても、私には知的に理解できないということです。さらに、ヒンズー教や仏教でも、またゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でもともに説いている、人間が死んでから再び心身統一体としての生を始めるまで中間的な期間があるという概念も、私には理解できないものです。
人間の知性で理解できる時間・空間内での諸現象とは対照的に、“実在それ自体”には時間も空間もないのではないでしょうか。私は、“実在それ自体”には時間もなければ空間もないと信じています。といって、それが時間と空間に束縛されたこの世界から、まったく遊離して存在するものだとは思っていません。

【池田】 私も、実在それ自体には、時間も空間もないと考えます。また、この実在が時間・空間に規定された、この現象世界を離れたところにあるのでないことも確かです。 大乗仏教においては、“生死不二”といって、生と死という時間・空間次元の現象は、時・空を超えた実在である生命の、二つの異なった顕われ方であると説いています。個々の生命体は、生命が顕在化した状態であり、死とはその生命が“冥伏”した状態です。冥伏とは無に帰することではありません。
さきほどから私が提起してきた“空”の概念は、目には見えなくとも厳然と実在する、有無のいずれか一方に決めることのできない概念です。これに対して、現実にさまざまな個別の姿をとって現われてくる姿を“仮”と名づけています。心身統一体としての生とは、この“仮”の姿であり、しかもそのなかに“空”をはらんでいます。死後の生命は“空”として実在しながら、そのなかに“仮”の傾向性、方向性をはらんでいます。そして、この“空”と“仮”を貫く生命の本質を“中”と呼んでいます。あるときは顕在、あるときは冥伏という姿をとりつつも、無限に持続していく生命の本質ということです。
この持続していく生命の本質とは、現代の哲学用語でいえば、最も根本的な意味での“自我”という表現に通ずるものです。さらに仏法では、この“空”と“仮”と“中”は円融一体のものであって、それらを全体として統一的に把握しなければならないと説いています。

【トインビー】 ただいま述べられた仏法の“空”の概念によれば、“実在それ自体”が、“すべてを包含する偉大な宇宙の生命力”(ライフ・フォース)としての“空”の本質をなすことになるのでしょうか。もしそうであるならば、“空”とは、ゾロアスター教やユダヤ系諸宗教でいう“永遠”の概念に相当するものになるでしょう。
さきにあげた六つの宗教は、いずれも、ただいま仏法用語をもって論じられたような、人間の死後の状態を描き出す問題と取り組んでいます。つまり、死後、人間の肉体的側面が分解して、心身統一体としての人間存在が休止期間に入ったとき――その期間が一回限りであるにせよ、何度も繰り返されるものであるにせよ――人間存在はいかなる状態にあるのかを論じています。
もし私が、人間存在の心身統一体としての死後の再生という、この六つの宗教に共通する根本原理を認めるとするなら、私としてはヒンズー教=仏教的説明のほうが、ゾロアスター教=ユダヤ系諸宗教的説明よりも、説得力があるというでしょう。
しかし、私は、“空”“仮”という仏法概念の考察においても、やはり知性による理解のむずかしさが明るみに出てくることを感じます。したがって、六つの宗教のすべてがやっているように、死後の生命という問題を時間とか空間という言葉で表現しても、回答が得られるかどうかは疑わしく思われます。生命は、はたして死後も存続するのか。また、肉体が無機物の世界へと還元されてしまった後、精神はどこへ行くのか。――要するに、これらの疑問は、空間とか時間の基準からは答えられず、“空”ないし“永遠”の概念によって初めて答えられるのだと信じます。
 

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