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2017年9月22日 (金)

「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」への答え

ニューズウィーク日本版に、舞田敏彦さんによる「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」という文章が載っています。

http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/09/post-8491.php

本ブログでも再三取り上げてきたOECDのデータ等を使って、「日本はいかに教育にカネを使わないのか」を提示しているのですが、文章を最後まで読んでも、「日本はなぜここまで教育にカネを使わないのか」という問いかけもなければ、「それは・・・・だからだ」という答えも書かれていません。

まあ、タイトルは編集部が勝手につけたのかも知れないので、舞田さんの責任とは言えないかも知れませんが、タイトルを見て答えが書かれていると思った人の欲求不満を、僭越ながら拙文を引用して少しでもなだめてみたいと思います。

Hyoshi32昨年『POSSE』32号に載せた「日本型雇用と日本型大学の歪み」からです。

・・・矢野眞和さんは『「習慣病」になったニッポンの大学』(日本図書センター、2011年)で、日本型大衆大学を日本型家族と日本型雇用と三位一体のシステムと捉え、その諸外国に類をみない18歳主義、卒業主義、親負担主義という3つの特徴を指摘しています。ここで言う日本型家族というのは大学の授業料を親が負担するという点に着目したものですから、それを可能にするような年功的な生活給を企業が労働者に支払うことを含意しています。かつては大学進学率自体が極めて低かったのですから、子どもが成人に達した後まで親の生活給で面倒をみるのが当たり前というのは、1970年代以降に確立したごく新しい「日本型」システムであることに留意すべきでしょう。

 そして、「日本型」システムが常識化していくとともに、それ以前に世界標準に近い形で形成されていた制度は、非常識なものとして急速に「日本型」に適合するような形に変形されていきます。国立大学の授業料は1975年の3.6万円から1980年に18万円に上昇し、21世紀には50万円を超えるに至りました。私立大学は80万円を超えています。親がそれだけの給料をもらっていることを前提とすれば、まことに常識に沿ったやり方だったのでしょう。

 一方、本号の特集との関係でいえば、奨学金制度を有利子による金融事業へと大きく転換させた1984年日本育英会法改正は、学校卒業後誰もが日本型雇用システムの中で年功賃金を受け取っていくことを前提とした仕組みです。1980年代の改革を後の新自由主義につながるものとして解釈することも可能ですが、日本型雇用システムへの賞賛が最盛期に達していた時代であり、その時代の精神的刻印を濃厚に受けているということを忘れてはならないでしょう。授業料の引き上げも、奨学金の金融化も、少なくともその始まった時代には「常識」に合わせるための改革だったのです。しかし、その「常識」はやがて周辺部から崩れていきます。

・・・日本型雇用の収縮は年功賃金を享受してきた中高年層にも及びます。拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書、2014年)では、90年代以降のリストラが中高年労働者、とりわけ管理職クラスを狙い撃ちしたこと、追い出し部屋に送り込まれ、意に反して「希望」退職を強いられたことを述べました。しかしより広範で重要なのは、ヒト基準の職能給制度を維持したまま、(本来は職務を明確に定義することが前提であるはずの)成果主義賃金制度を大幅に導入し、「成果が上がっていない」という理由で年功的に高賃金になる多くの中高年労働者の賃金カーブを引き下げようとしたことです。そのこと自体は、(手法の是非を別とすれば)合理的と評価しうる面もあります。

 しかしながら、日本型雇用における中高年の高賃金とは、西欧諸国であれば公的な社会保障で賄われているはずの教育費や住宅費といった必然的生活コストを個別企業の賃金で賄うという意味がありました。だからこそ、70年代以降先進諸国と同様に高等教育進学率が急速に上昇していったにもかかわらず、その費用の大部分を公的負担ではなく私的負担で賄うことができたのです。その私的負担を可能にしたのは、学生の親(父親)の年功的高賃金でした。矢野眞和さんのいう「親負担主義」の雇用システム的基盤です。それが90年代以降企業の経営合理性を理由に攻撃対象となったにもかかわらず、それを公的負担にシフトさせていこうというような声はほとんど上がることはありませんでした。こちらもやはり、90年代以降世の中を席巻したネオリベラリズムが原理的に私的負担を正当化する方向に働いたからです。

 親の年功賃金が徐々に縮小していく中で、等しく私的負担といってもその負担主体は次第に学生本人にシフトしていかざるを得ません。こうして、かつては補完的収入であった奨学金やアルバイト収入が、それなくしては大学生活を送ることができないほど枢要の収入源となっていきます。学生本人の現在の労働報酬と将来の労働収入(を担保にした借入)によって高等教育費を賄うべきという考え方は、それ自体は市場原理主義という一つの思想から正当化され得ます。しかし、それはそういう形で正当化されて成立した仕組みではありません。日本型雇用に基づく年功賃金を所与の前提とする親負担主義に立脚して作られた仕組みです。それがいつの間にか、ネオリベラリズム的な本人負担主義にすり替えられていたのです。

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