:::工事中::: 国鉄宝塚駅(1979) :::工事中:::
たとえ過去の時代だとしても、BVEを作る上ではリアルな駅の配線を再現することは必須です。
ここでは1979年の福知山線宝塚駅がどのような場所だったか、様々なサイトの写真を基に検証して行きたいと思います。
最終目標は駅の連動図表を書くこと。それでは行ってみましょう。
基礎になるのは昭和48年8月の配線図です。

まずは大阪側から。
1975年の航空写真を見てみましょう。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=946010&isDetail=true

国土地理院の様々なデータ検索サービスです。航空写真に関
しても、古い時代でも非常に鮮明な画像がヒットするので重宝しますね。
画像右側からやってくる線路は阪急電鉄の線路をくぐり抜けますが、ちょうどそのあたりに場内信号機があるはず…。
「キハ58」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-02.htm
このサイトの一番上の写真はここを大阪側に向けて撮影したもので、かなり鮮明に風景がわかります。場内信号機もしっかり見えますね。つまり、阪急の高架をくぐったこの地点が17K409Mです。

(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
次は遠方信号機を探してみます。
配線図においては腕木式なのですが、国鉄では1965~1975年ごろにかけて遠方信号機だけは保守の手間やワイヤーの伸縮・断線の対応が面倒、等の理由から電気式の単灯型や通常の遠方信号機に交換される例が多かったようで、福知山線も同じだと思います。(生瀬駅下り遠方も1979には4灯遠方に交換済)
単灯式は20年以上前に全廃されたため現役のものを見たことがある人は一定年齢以上の方に限られそうですね。私は博物館でしか見たことがありません。
それを頭に入れて写真をよく見ます。すると奥の線路の横に不自然に白い点が、そしてその手前には斜めに白い棒のようなものがありますので、このどちらかがおそらく遠方信号機です。
配線図を見ると17K010Mに機械式の遠方信号機の記号があるので、航空写真を基に距離を測れば割り出せるはず。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=946011&isDetail=true

すると不自然に長い影の映る場所がありました。距離を測ると408mですがこれはマップの上での誤差の範囲内でしょうか。したがって電気式に交換はされず、1977年の時点でも機械式だとわかりました。数年内に電化を控えているのでこの時期から信号を交換することはさすがにないと思います。
少なくとも奥の白点が信号機ではないことは確実になりました。信号の喚呼標かもしれないですね。
左手にあるのが副本線(上り本線)用の場内信号機。これは定位(停止現示)です。
腕木信号機は夜間以外は腕木が水平か斜めかで進行、停止を判断する信号機ですので(レンズの色を見るわけではない)、写真でも腕木を見ればどうなっているのか一目瞭然というわけ。
それから右手の遮光板の、副本線と同じ高さの位置にあるのが通過信号機です。
通過信号機とは聞きなれないかもしれませんが要は遠方信号機と同じようなもの。場内信号機が赤なら黄色を、青なら青を示す補助的な信号機です。
腕木式信号機は二種類の現示を切り替えるだけなので、出発信号機が赤でもすぐにはわかりません。そのため通過信号機で出発信号機の現示を予告します。
転轍機のわきにあるのは保線小屋。ここで妙な事に気が付いたのですが、線路右手を手前に向かって転てつ用鉄管が走っています。
一般にワイヤーは腕木信号機の操作用
(信号を進行現示にするときに引く必要があるだけで、停止現示には信号機の重さで勝手に切り替わるため。例外もあるがあくまで一部)、
鉄管は転轍機の操作用
(定位、反位ともに力を加えて切り替える必要があるため。)となっています。
この写真に写っているポイントは至近のレバーで切り替えるはずなので、どこからかわざわざ操作する必要性はありません。
ということはこの鉄管はどこかのポイントを操作するためのものになるわけですが、可能性のあるポイントがないんですよねえ…謎だ…
線路左右には信号機操作用のワイヤーがあります。右側のワイヤー群は本線場内・通過・遠方(これは2本)の4本、左は副本線場内用の一本だけワイヤーが張られています。
また、写真には写っていませんが「第二種機械連動機」というものを介してポイントと信号機との鎖錠関係を築いています。
後に解説ページを作りますのでしばしお待ちを。
続いて見るのはこのサイト。配線図付で、国鉄期の配線等々なかなか見つからない写真を掲載しているたいへんありがたいサイトです。配線鉄のようなものはあまりメジャーでは無いため、現代路線であるならいざ知らず、国鉄期ならば泣きを見ることが多いのですが、このサイトは別格ですね。
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980228-ae5d.html
ただ、これは継電化する時の(要は腕木信号機から色灯信号機に変わる)1980年の図ですので、腕木式信号機が現役だった1979年を再現する身としてはもう少し考証せねばなりません。
このサイトに載っている上から2番目の写真をみると、1980年時点中線は撤去済であり、分岐器がいつ消えたのかは別の写真を探す必要があります。1979はこの写真が撮られた1年前。
レールの交換の面から考えても、5年も10年もあのまま放置というわけではないでしょうが、つい一年前となるとどうかわかりませんね…
貴重な内容のコメントをいただきました
つまり中線は駅貨物扱いのあった時代にその貨車の入れ替えをするためのもの。
そして北伊丹に集約された1979/7/1を以てその存在意義を失った。
という事のようです。
昔の中規模ローカル駅には大体中線がありますが、貨車置き場だったんですねぇ…
中線が現役の頃の写真がありました。
「DD51」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd51/dd51-01.htm

(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
1977年の撮影です。
写真中央に二基の転轍機標識が立っていますね。
どちらも定位を示していて、(反位は矢羽型)赤矢印の先にあるトングレールが下り本線に接していないこと、また上り本線にはDD51が停車していることから、どちらの分岐器も本線には接続しないのが定位であると判断できます。
目を凝らすと黄色の書き入れた線に沿って転てつ鉄管が伸びていますので、緑の円で囲った側の転轍機は一つのてこで同時に二つの転轍機を動かす双動転轍機だった可能性が高そうです。
「福chanの鉄道写真」
http://blogs.yahoo.co.jp/br1245er/31879818.html
このサイトの1,6,7枚目で、双動転轍機であることがはっきりしました。
「大阪鉄道管理局 列車運転速度制限取扱基準規程」には「22イ-22ロ」転轍機と記載されています。
第二種連動機にワイヤーが2本つながっていますので、それぞれこの連動機は甲二号連動機であるとわかりました。
さらに、本来は左側通行の鉄道線において下り本線に大阪へ向かう列車(=上り列車)が停止していることから、宝塚駅では場合によっては駅入り口に近いほうで客扱いをする駅だったということもわかりますね。貴重な写真です。
上り本線にはDD13がいますが、宝塚駅の少し福知山側にある砕石線への工事列車でしょうか。
この砕石線の終点(と言っても北に500m程ですが)は「惣川駅」という独立した貨物駅でしたが、昭和40年代中ごろに宝塚駅に吸収され、以降は宝塚駅構内の入換扱いとなりました。貨物ですので旅客の合間を縫った長時間停車でもしているのでしょう。
手前に見える踏切は小屋があり遮断機はないようですね。昔の方数人に話を伺うと、軒並み「ワイヤー式」だったとの回答を得ましたから、ハシゴのついた柱はワイヤーを引っ掛けるメインの柱だった様です。よく見ると確かにワイヤーロープを結んだ遮断索が柱の中ほどにつり下がっています。踏切警手のいる昔懐かしい踏切です。
宝塚駅はホームがそれほど長いわけではなく、「特急まつかぜが来ると踏切がふさがった」と、地元の老人に伺いました。
当時の長距離特急や急行は軒並み長大編成でしたからホームからはみ出たわけです。そういう点からすると踏切ぎりぎまで列車を詰めても警手の判断次第で臨機応変な対応が可能なこのタイプの踏切は重宝されたのかもしれません。
ところで、停止位置目標にはご存知の方もいらっしゃるように二種類あり、結構な確率で機関車の停目は電車や気動車の停目より15m程度遠くにあります。
機関車は客が乗っていないのでホームには止めなくても問題あるまい、ということです。
この写真では実際に機関車はホームをはみ出して停止していますが、客車列車が風前の灯の今では、そういうものや光景を目にする機会も非常に少なくなりました。
そういえば、DD51の奥に見える古いバスやトラック、踏切を渡っている懐かしい形の乗用車などもこの写真から読み取れる大切な情報。こういうこまごましたものも可能な限りきっちりと再現したいものです。
交差点には懐かしい緑と白のシマシマ板のついているゼブラ信号機が、後ろには経営破たんして今はもう名前すら知られない兵庫相互銀行の大きな看板が、そして踏切を渡るのは昭和スタイルの車です。私は車に詳しくないのですが、このタイプの形の車は「ハコスカ」というらしいですね。
歩いている二人の女性はハイヒールにひざ丈のスカート。後ろを歩く人は少々ふとましいですが、模様付きの派手そうないでたちです。なんだか近所のおばさんを見ている気分…
そういえばそういうおばさん方はこういう時代に生まれたんですよねぇ。彼女らからすれば「おばさんファッション」ではなく、流行りのファッションなのかもしれません。
写真1枚ですら時代を感じます。それがシミュレーターとして、まだこの国が、国鉄が、生き生きしていた時代を味わえるなら、それは最高のシミュレーターじゃないでしょうか?
ところで、宝塚駅の分岐器の番数は各々何番だったのでしょうか。
(分岐器の番数…数字が大きいほどカーブが緩い。
8番は分岐側のレールが本線に対して8mすすんで1m離れる、10番は10m離れる……となっている。)
そのためにはまずこの路線規格や使用線路
(レールにもいろんな種類があるのです。現代では一般的に50Nレール、新幹線は60Nレールを使っています。)だったかを知る必要があります。
「三田の複線電化史 (今井正市 著)」及び「西宮市北部地域開発と国鉄福知山線(生瀬~三田間)線増計画の考え方」によると、生瀬~道場の渓谷区間は線路等級が3線級の、最急勾配が14.3‰だとのこと。
宝塚の一駅先が生瀬なので、ここまでの区間も劇的に線路等級が変わることもなく、せいぜい2線級でありましょう。
次にレールですが、広野駅の側線(側線はレール交換されにくい)や、その他踏切柵等のレールは37kg ASCEでしたので、てっきりこれを使っていると思っていたのですが…

惣川砂利線に使われているレールは50Nだったのです…しかも1969年八幡製。
1969年製ということは、再現したい1979の10年前。
そのレールがレール交換のされにくい側線に利用されているということは、必然的に昔から50Nレールだった可能性が高まります。

また、砕石線の遺構の柱に使われているレール↓

は、50PS型 1935年の八幡製鉄製です。
どちらの線路も37キロレールを使ってはいませんでした。
ということは……宝塚駅は50Nレールを使っていた、ということでしょうか?
ううん…真相はもう闇の中です。
どうしようもありませんのでかなり適当ですが、惣川への機回し線が存在していた生瀬駅までを50Nレール使用区間、その以北を37kg ASCE使用区間だと、「勝手に」仮定しておきます。
先程の写真に戻りましょう。クロッシングには8本の枕木がありますが、『分岐器ハンドブック』 によると、50Nレールでクロッシング部に8本枕木がある場合10番の分岐器であると記されています。
ということで中線に接続する分岐機は10番分岐です。
次は福知山方の一番はじめの分岐器。
載せられた両方向から撮影された二枚の写真には、両方共「60」の速度制限標が立っています。
つまり両開きの分岐器の可能性が高い。
『線路―軌道の設計・管理』
によると、1:1振分けでは12番が制限60であるということ。
というわけで生瀬方の分岐器は両開き12番であると決めました。
下り本線から伸びるのは構内貨物扱い線とその押し込み線ですね。番数は分かりませんが片開きのようです。
ここは資料がないので便宜的に8番としておきます。
「カメラほんのかけだし」
http://eisenbahn.jugem.jp/?eid=222
中線への分岐は本線側が定位です。こちらも資料はないので8番にしておきましょう。
今度は、宝塚駅構内の惣川の配線を確認しましょう。
一番はじめの配線図を見ると、貨車線が2本、本線との分岐が2つ。貨車線の渡り線が計3つあるのですね。これを念頭に置いて写真を見ます。
「DD13」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd13/dd13-01.htm

(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
手前を歩く人の下に接触限界標識があることから、この付近に本線から合流する転轍機があるということが確認できます。
ここで、本線に近い側の線を便宜的に[惣川1]とします。
転轍機があるにもかかわらず、しかも手動扱いのこの福知山線において、本線と惣川1との渡線の転轍標識が見当たりません。
これはつまり、写真に写っていないエリアにある転轍機が「2動の転轍機(一つの機械で二つのポイントを動かす)」であることを意味します。
奥に見える[惣川1]と[惣川2]を結ぶ渡線は錘付きであることから(要は二動の転轍機ではない)、片方のポイントの転換のし忘れなどで本線に貨車が突っ込んだりしないように、本線と[惣川1]を結ぶ渡線だけは二動の転轍機であったと予想できます。
S形ポイントリバーのある転轍機は渡線ではなさそうです。
[惣川1]と[惣川2]はここで分かれていたのでしょう。
「福知山線宝塚から生瀬付近」http://kai-ko.underthetree.jp/index.php?%CA%A1%C3%CE%BB%B3%C0%FE%CA%F5%C4%CD%A4%AB%A4%E9%C0%B8%C0%A5%C9%D5%B6%E1#d09af38f
こちらのサイトの上から二番目、撮影場所は先ほどの写真での錘付き転換機の付近です。渡線を渡った先にまた、白黒の錘付き転換機がありますね。
その先、走る列車の後ろから二両目と三両目のちょうど境目あたりに、転轍標識が一つだけ確認できますので、先の予想通りこれは二動の転轍機のようです。
そしてさらに先ほど確認した[惣川2]の奥に目をやると、もう一つ渡線があるのが確認できます。こちらも錘付き転換機です。[惣川1]側のみS形ポイントリバーのようです。(上から6枚目)
「惣川のD51」http://blog.livedoor.jp/nainen60/archives/2016-02-07.html
ただ、その先には貨車が止まっているものの、さらなる渡線は確認できません。
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980228-ae5d.html
再びこのページの4,6枚目を見ると、そのさらに奥の砂利積み込み線へと延びる線路は一本だけ。
つまり、あの渡りを超えた先、貨車の止まっているところを超えれば[惣川2]はおしまいです。
[惣川1]はまっすぐ伸びたまま積み込み機に近づき、そこで[砂利1(仮)][砂利2(仮)]に分かれるようになっているんですね。
スキャンした配線図には積み込み戦は記載されていないようです。なんで…?
最後に信号機関係の確認をしてゆきましょう。
建立位置は配線図の通り。
宝塚駅は1970年代初頭に惣川駅構内を取り込んだのは先の説明のとおりですが、そのコメントによると
とのことです。
転轍器を探した際に利用した写真をもう一度見てみましょうか。
書き込んでもいますが、まず本線左側を奥の方に見てゆくと宝塚第二出発信号機があります。
単灯式の信号機ですね。
そのちょっと右側にはこちらに対し裏側を向けている、宝塚駅第一場内信号機らしき物が確認できます。同じく単灯式の信号機。
さらに、先程錘付き転轍器を見つけた場所に遠方信号機が存在しますが、これが宝塚の第二遠方信号機です。
「遠方信号機は大体の場所で色灯信号機化された」という話をしましたが、1977年になってもこの駅は上り下りどちらも腕木だったようです。どうしてだったんでしょうね?
最後に、宝塚駅第一遠方信号機はどこにあったのか探してみましょう。
配線図では既に生瀬駅の遠方信号機が書き込まれていますので、かなり生瀬寄りにあるみたいですね。
写真を探します。
「キハ58」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-02.htm

(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
左側の写真の位置関係は右の写真に示した通りです。
右の写真は第一武庫川橋梁を渡るDD51です。
この辺の橋はすべてガーター橋だったようで遮るようなものは何もありませんね。
奥側上には開通して一年ちょっと(この区間の開業は1975/10/16)の、出来立てほやほやの中国自動車道があります。超きれいですなぁ。こういう自動車交通網の発達が国鉄衰退の一助になったことを考えると少し複雑な気分ですが…
現代っ子の私がこの恩恵にあずかっているのも事実です笑
橋の下左には二車線に拡張されて今も残っている市道。この上をまたぐように国道176号線のバイパスができたので、今では地元の人しか使わない道になりました。
右下には神戸水道の第三水道橋が。今この現代でも現役で、神戸市民の水道水の提供に一役買っており、遠路はるばる千刈水源地からここに至るまで長いトンネルが掘られています。
途中武庫川を渡る場面で何度か同じような橋を経由するのですが、これもその一つというわけです。武田尾付近にも存在するのでまた話題に上るかもしれません。
そして、DD51がさしかかっているあたりにあるのが生瀬遠方信号機です。交換された色灯式。
んで、ようやく写真左側にある通り、宝塚第一遠方信号機が現れます。
遠方信号機同士が交差している例なんてなかなかないんじゃないでしょうかね?私は初めて見ますが。。。
右手には竹林があり、現在よりも更に田舎臭。
この竹林のエリアを切り開き、現在の福知山線が通っています。時代は変わるもんですね…
現在の写真があるので、簡単に書き入れてみました。
さて、以上の情報を総合して、連動図表を書きたいと思います。
出来上がったものがこちら↓

記号の準拠は信号設備施設基準規程、及び連動図表調製心得です。
配線略図記号は後々図鑑のような形式でしっかりとまとめますので、ご存じない方は「こんなもんなのかな」程度で眺めてもらえれば。
そして、記号を知り尽くしたエキスパートの方で、「ここ違うぜよ」という箇所がわかる方はどしどしご指摘お願いします。
これさあれば宝塚駅の配線は完璧ですね!
中山寺駅と生瀬駅の閉塞てこの番号がまだわからないので、鎖錠欄は空白になっています。
また、先にも述べた通り惣川駅を撮りこんだ不思議な駅構造をしているので、惣川の出発信号機の信号制御欄は不明ということにしています。有効長とてこ配列図は現状不明なため、空欄で残してあります。
[2015.10.7]
記事を公開
[2015.10.8]
加筆
[2015.10.9]
配線図差し替え
[2016.1.20]
大幅な写真の差し替え、及び検証写真の追加、文章の変更と考察の追加を行いました。
[2016.3.26]
写真を拡充しました。
[2016.4.15]
写真を大きく差し替え、文章の大幅な添削と加筆、参考サイトや文献を拡充し、より信頼度の高い検証にしました。
[2016.4.17]
構内配線図を追加して、一応の記事の完成を見ました。
細かな修正はのちに行うと思います。
参考資料
・大阪鉄道管理局 列車運転速度制限取扱基準規程(昭和41年3月 大鉄第24号別冊)
・大阪鉄道管理局運転取扱基準規程(昭和40年4月 大鉄達第35号別冊)
・社団法人信号保安協会 改訂 信号設備施設基準規程
・日本国有鉄道 通信教育教科書 「運転理論」
・昭和39年12月 運達第33号別冊 運転取扱基準規程
・日本鉄道図書株式会社 運転取扱基準規程逐条解説
・社団法人 信号保安協会 連動図表調製心得解説(1947)
・解り易い連動図表の解説 運転保安会(昭和33年)
・社団法人 日本鉄道施設協会 分岐機ハンドブック
・社団法人 日本鉄道施設協会 保線ハンドブック(軌道構造・整備編)
・今井 正市 三田の複線電化史
・西宮市北部地域開発と国鉄福知山線(生瀬~三田間)線増計画の考え方 西宮市
参考サイト
ここには詳しく載せなかったものの、参考にしたサイトも含めて
関西撮鉄協同組合(仮称)http://kantetukyo.web.fc2.com
「DD51」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd51/dd51-01.htm
「DD54」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd54/dd54-01.htm
「まつかぜ」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/resshamei/matukaze/matukaze-01.htm
「旧型キハ」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/kyukiha/kyukiha-01.htm
「キハ58系・キハ65」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-01.htm
「DD13」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd13/dd13-01.htm
「甲号連動機」
http://www.lazyjack.co.jp/nonauto/2nd.html
「宝塚市 たからづかアーカイブ」
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/s/shisei/1008927/1010780/1010814.html
「アーカイブ~まつかぜ」
http://akebonoroman.blog3.fc2.com/blog-entry-38.html?sp
「カメラほんのかけだし」
http://eisenbahn.jugem.jp/?eid=222
「むかしの・関西の部屋」
http://www.isok.jp/rail/former/kansai.htm
「宝塚駅舎」
http://eurosnap.exblog.jp/9693345
「昭和48年 福知山・山陰大回りの旅」
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-960.html?sp
「福chanの鉄道写真」
http://blogs.yahoo.co.jp/br1245er/31879818.html
「国鉄、私鉄の思い出」
http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/2006/09/post-ce22.html
「ディーゼルの鼓動」
http://dieselloco.blog64.fc2.com/blog-entry-656.html
「回想 国鉄福知山線」
http://g-bear.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/55-c942.html
「シグナル鉄写旅」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/690843/577863/75499592
「惣川のD51」
http://blog.livedoor.jp/nainen60/archives/2016-02-07.html
「福知山線DD51の思い出」
http://www20.tok2.com/home/kt2251ex/omoide-fukutiyama-DD51(1980).htm
「時の流れに郷愁紀行」
http://eyeyan.blog71.fc2.com/category33-0.html
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/278503/506157/55398142
「駅を撮った古い写真」
http://www.nihonkai.com/onokoho/28stn-hyogo-hokusetsu-tamba.html
「【鉄道近代化前】福知山線沿線風景」
http://osakasalon.exblog.jp/9118228
「阿房列車ピクトリアル」
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/?tag=%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A
「未電化福知山線山陰線の懐古写真集」
http://kai-ko.underthetree.jp/index.php?%CC%A4%C5%C5%B2%BD%CA%A1%C3%CE%BB%B3%C0%FE%BB%B3%B1%A2%C0%FE%A4%CE%B2%FB%B8%C5%BC%CC%BF%BF%BD%B8
「DD54牽引の客車列車の通過音」
http://www.asahi-net.or.jp/~ZF9T-HRN/dd54.htm
「甲号連動機」http://www.lazyjack.co.jp/nonauto/2nd.html
最後になりましたが、快く写真の利用を許可していただいた「関西撮鉄協同組合(仮称)」様、本当にありがとうございました。
この場を借りてお礼申し上げます。
ここでは1979年の福知山線宝塚駅がどのような場所だったか、様々なサイトの写真を基に検証して行きたいと思います。
最終目標は駅の連動図表を書くこと。それでは行ってみましょう。
基礎になるのは昭和48年8月の配線図です。
まずは大阪側から。
1975年の航空写真を見てみましょう。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=946010&isDetail=true
国土地理院の様々なデータ検索サービスです。航空写真に関
しても、古い時代でも非常に鮮明な画像がヒットするので重宝しますね。
画像右側からやってくる線路は阪急電鉄の線路をくぐり抜けますが、ちょうどそのあたりに場内信号機があるはず…。
「キハ58」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-02.htm
このサイトの一番上の写真はここを大阪側に向けて撮影したもので、かなり鮮明に風景がわかります。場内信号機もしっかり見えますね。つまり、阪急の高架をくぐったこの地点が17K409Mです。
(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
次は遠方信号機を探してみます。
配線図においては腕木式なのですが、国鉄では1965~1975年ごろにかけて遠方信号機だけは保守の手間やワイヤーの伸縮・断線の対応が面倒、等の理由から電気式の単灯型や通常の遠方信号機に交換される例が多かったようで、福知山線も同じだと思います。(生瀬駅下り遠方も1979には4灯遠方に交換済)
単灯式は20年以上前に全廃されたため現役のものを見たことがある人は一定年齢以上の方に限られそうですね。私は博物館でしか見たことがありません。
それを頭に入れて写真をよく見ます。すると奥の線路の横に不自然に白い点が、そしてその手前には斜めに白い棒のようなものがありますので、このどちらかがおそらく遠方信号機です。
配線図を見ると17K010Mに機械式の遠方信号機の記号があるので、航空写真を基に距離を測れば割り出せるはず。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=946011&isDetail=true
すると不自然に長い影の映る場所がありました。距離を測ると408mですがこれはマップの上での誤差の範囲内でしょうか。したがって電気式に交換はされず、1977年の時点でも機械式だとわかりました。数年内に電化を控えているのでこの時期から信号を交換することはさすがにないと思います。
少なくとも奥の白点が信号機ではないことは確実になりました。信号の喚呼標かもしれないですね。
左手にあるのが副本線(上り本線)用の場内信号機。これは定位(停止現示)です。
腕木信号機は夜間以外は腕木が水平か斜めかで進行、停止を判断する信号機ですので(レンズの色を見るわけではない)、写真でも腕木を見ればどうなっているのか一目瞭然というわけ。
それから右手の遮光板の、副本線と同じ高さの位置にあるのが通過信号機です。
通過信号機とは聞きなれないかもしれませんが要は遠方信号機と同じようなもの。場内信号機が赤なら黄色を、青なら青を示す補助的な信号機です。
腕木式信号機は二種類の現示を切り替えるだけなので、出発信号機が赤でもすぐにはわかりません。そのため通過信号機で出発信号機の現示を予告します。
転轍機のわきにあるのは保線小屋。ここで妙な事に気が付いたのですが、線路右手を手前に向かって転てつ用鉄管が走っています。
一般にワイヤーは腕木信号機の操作用
(信号を進行現示にするときに引く必要があるだけで、停止現示には信号機の重さで勝手に切り替わるため。例外もあるがあくまで一部)、
鉄管は転轍機の操作用
(定位、反位ともに力を加えて切り替える必要があるため。)となっています。
この写真に写っているポイントは至近のレバーで切り替えるはずなので、どこからかわざわざ操作する必要性はありません。
ということはこの鉄管はどこかのポイントを操作するためのものになるわけですが、可能性のあるポイントがないんですよねえ…謎だ…
線路左右には信号機操作用のワイヤーがあります。右側のワイヤー群は本線場内・通過・遠方(これは2本)の4本、左は副本線場内用の一本だけワイヤーが張られています。
また、写真には写っていませんが「第二種機械連動機」というものを介してポイントと信号機との鎖錠関係を築いています。
後に解説ページを作りますのでしばしお待ちを。
続いて見るのはこのサイト。配線図付で、国鉄期の配線等々なかなか見つからない写真を掲載しているたいへんありがたいサイトです。配線鉄のようなものはあまりメジャーでは無いため、現代路線であるならいざ知らず、国鉄期ならば泣きを見ることが多いのですが、このサイトは別格ですね。
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980228-ae5d.html
ただ、これは継電化する時の(要は腕木信号機から色灯信号機に変わる)1980年の図ですので、腕木式信号機が現役だった1979年を再現する身としてはもう少し考証せねばなりません。
このサイトに載っている上から2番目の写真をみると、1980年時点中線は撤去済であり、分岐器がいつ消えたのかは別の写真を探す必要があります。1979はこの写真が撮られた1年前。
レールの交換の面から考えても、5年も10年もあのまま放置というわけではないでしょうが、つい一年前となるとどうかわかりませんね…
貴重な内容のコメントをいただきました
「アント」が、本屋側の貨物引込線から、二軸のレムやレサを、2番線まで動かしていた
貨物取扱が無くなった時点で、2番線の存在意義は失われました
つまり中線は駅貨物扱いのあった時代にその貨車の入れ替えをするためのもの。
そして北伊丹に集約された1979/7/1を以てその存在意義を失った。
という事のようです。
昔の中規模ローカル駅には大体中線がありますが、貨車置き場だったんですねぇ…
中線が現役の頃の写真がありました。
「DD51」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd51/dd51-01.htm
(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
1977年の撮影です。
写真中央に二基の転轍機標識が立っていますね。
どちらも定位を示していて、(反位は矢羽型)赤矢印の先にあるトングレールが下り本線に接していないこと、また上り本線にはDD51が停車していることから、どちらの分岐器も本線には接続しないのが定位であると判断できます。
目を凝らすと黄色の書き入れた線に沿って転てつ鉄管が伸びていますので、緑の円で囲った側の転轍機は一つのてこで同時に二つの転轍機を動かす双動転轍機だった可能性が高そうです。
「福chanの鉄道写真」
http://blogs.yahoo.co.jp/br1245er/31879818.html
このサイトの1,6,7枚目で、双動転轍機であることがはっきりしました。
「大阪鉄道管理局 列車運転速度制限取扱基準規程」には「22イ-22ロ」転轍機と記載されています。
第二種連動機にワイヤーが2本つながっていますので、それぞれこの連動機は甲二号連動機であるとわかりました。
さらに、本来は左側通行の鉄道線において下り本線に大阪へ向かう列車(=上り列車)が停止していることから、宝塚駅では場合によっては駅入り口に近いほうで客扱いをする駅だったということもわかりますね。貴重な写真です。
上り本線にはDD13がいますが、宝塚駅の少し福知山側にある砕石線への工事列車でしょうか。
この砕石線の終点(と言っても北に500m程ですが)は「惣川駅」という独立した貨物駅でしたが、昭和40年代中ごろに宝塚駅に吸収され、以降は宝塚駅構内の入換扱いとなりました。貨物ですので旅客の合間を縫った長時間停車でもしているのでしょう。
手前に見える踏切は小屋があり遮断機はないようですね。昔の方数人に話を伺うと、軒並み「ワイヤー式」だったとの回答を得ましたから、ハシゴのついた柱はワイヤーを引っ掛けるメインの柱だった様です。よく見ると確かにワイヤーロープを結んだ遮断索が柱の中ほどにつり下がっています。踏切警手のいる昔懐かしい踏切です。
宝塚駅はホームがそれほど長いわけではなく、「特急まつかぜが来ると踏切がふさがった」と、地元の老人に伺いました。
当時の長距離特急や急行は軒並み長大編成でしたからホームからはみ出たわけです。そういう点からすると踏切ぎりぎまで列車を詰めても警手の判断次第で臨機応変な対応が可能なこのタイプの踏切は重宝されたのかもしれません。
ところで、停止位置目標にはご存知の方もいらっしゃるように二種類あり、結構な確率で機関車の停目は電車や気動車の停目より15m程度遠くにあります。
機関車は客が乗っていないのでホームには止めなくても問題あるまい、ということです。
この写真では実際に機関車はホームをはみ出して停止していますが、客車列車が風前の灯の今では、そういうものや光景を目にする機会も非常に少なくなりました。
そういえば、DD51の奥に見える古いバスやトラック、踏切を渡っている懐かしい形の乗用車などもこの写真から読み取れる大切な情報。こういうこまごましたものも可能な限りきっちりと再現したいものです。
交差点には懐かしい緑と白のシマシマ板のついているゼブラ信号機が、後ろには経営破たんして今はもう名前すら知られない兵庫相互銀行の大きな看板が、そして踏切を渡るのは昭和スタイルの車です。私は車に詳しくないのですが、このタイプの形の車は「ハコスカ」というらしいですね。
歩いている二人の女性はハイヒールにひざ丈のスカート。後ろを歩く人は少々ふとましいですが、模様付きの派手そうないでたちです。なんだか近所のおばさんを見ている気分…
そういえばそういうおばさん方はこういう時代に生まれたんですよねぇ。彼女らからすれば「おばさんファッション」ではなく、流行りのファッションなのかもしれません。
写真1枚ですら時代を感じます。それがシミュレーターとして、まだこの国が、国鉄が、生き生きしていた時代を味わえるなら、それは最高のシミュレーターじゃないでしょうか?
ところで、宝塚駅の分岐器の番数は各々何番だったのでしょうか。
(分岐器の番数…数字が大きいほどカーブが緩い。
8番は分岐側のレールが本線に対して8mすすんで1m離れる、10番は10m離れる……となっている。)
そのためにはまずこの路線規格や使用線路
(レールにもいろんな種類があるのです。現代では一般的に50Nレール、新幹線は60Nレールを使っています。)だったかを知る必要があります。
「三田の複線電化史 (今井正市 著)」及び「西宮市北部地域開発と国鉄福知山線(生瀬~三田間)線増計画の考え方」によると、生瀬~道場の渓谷区間は線路等級が3線級の、最急勾配が14.3‰だとのこと。
宝塚の一駅先が生瀬なので、ここまでの区間も劇的に線路等級が変わることもなく、せいぜい2線級でありましょう。
次にレールですが、広野駅の側線(側線はレール交換されにくい)や、その他踏切柵等のレールは37kg ASCEでしたので、てっきりこれを使っていると思っていたのですが…
惣川砂利線に使われているレールは50Nだったのです…しかも1969年八幡製。
1969年製ということは、再現したい1979の10年前。
そのレールがレール交換のされにくい側線に利用されているということは、必然的に昔から50Nレールだった可能性が高まります。
また、砕石線の遺構の柱に使われているレール↓
は、50PS型 1935年の八幡製鉄製です。
どちらの線路も37キロレールを使ってはいませんでした。
ということは……宝塚駅は50Nレールを使っていた、ということでしょうか?
ううん…真相はもう闇の中です。
どうしようもありませんので
先程の写真に戻りましょう。クロッシングには8本の枕木がありますが、『分岐器ハンドブック』 によると、50Nレールでクロッシング部に8本枕木がある場合10番の分岐器であると記されています。
ということで中線に接続する分岐機は10番分岐です。
次は福知山方の一番はじめの分岐器。
載せられた両方向から撮影された二枚の写真には、両方共「60」の速度制限標が立っています。
つまり両開きの分岐器の可能性が高い。
『線路―軌道の設計・管理』
によると、1:1振分けでは12番が制限60であるということ。
というわけで生瀬方の分岐器は両開き12番であると決めました。
下り本線から伸びるのは構内貨物扱い線とその押し込み線ですね。番数は分かりませんが片開きのようです。
ここは資料がないので便宜的に8番としておきます。
「カメラほんのかけだし」
http://eisenbahn.jugem.jp/?eid=222
中線への分岐は本線側が定位です。こちらも資料はないので8番にしておきましょう。
今度は、宝塚駅構内の惣川の配線を確認しましょう。
一番はじめの配線図を見ると、貨車線が2本、本線との分岐が2つ。貨車線の渡り線が計3つあるのですね。これを念頭に置いて写真を見ます。
「DD13」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd13/dd13-01.htm
(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
手前を歩く人の下に接触限界標識があることから、この付近に本線から合流する転轍機があるということが確認できます。
ここで、本線に近い側の線を便宜的に[惣川1]とします。
転轍機があるにもかかわらず、しかも手動扱いのこの福知山線において、本線と惣川1との渡線の転轍標識が見当たりません。
これはつまり、写真に写っていないエリアにある転轍機が「2動の転轍機(一つの機械で二つのポイントを動かす)」であることを意味します。
奥に見える[惣川1]と[惣川2]を結ぶ渡線は錘付きであることから(要は二動の転轍機ではない)、片方のポイントの転換のし忘れなどで本線に貨車が突っ込んだりしないように、本線と[惣川1]を結ぶ渡線だけは二動の転轍機であったと予想できます。
S形ポイントリバーのある転轍機は渡線ではなさそうです。
[惣川1]と[惣川2]はここで分かれていたのでしょう。
「福知山線宝塚から生瀬付近」http://kai-ko.underthetree.jp/index.php?%CA%A1%C3%CE%BB%B3%C0%FE%CA%F5%C4%CD%A4%AB%A4%E9%C0%B8%C0%A5%C9%D5%B6%E1#d09af38f
こちらのサイトの上から二番目、撮影場所は先ほどの写真での錘付き転換機の付近です。渡線を渡った先にまた、白黒の錘付き転換機がありますね。
その先、走る列車の後ろから二両目と三両目のちょうど境目あたりに、転轍標識が一つだけ確認できますので、先の予想通りこれは二動の転轍機のようです。
そしてさらに先ほど確認した[惣川2]の奥に目をやると、もう一つ渡線があるのが確認できます。こちらも錘付き転換機です。[惣川1]側のみS形ポイントリバーのようです。(上から6枚目)
「惣川のD51」http://blog.livedoor.jp/nainen60/archives/2016-02-07.html
ただ、その先には貨車が止まっているものの、さらなる渡線は確認できません。
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980228-ae5d.html
再びこのページの4,6枚目を見ると、そのさらに奥の砂利積み込み線へと延びる線路は一本だけ。
つまり、あの渡りを超えた先、貨車の止まっているところを超えれば[惣川2]はおしまいです。
[惣川1]はまっすぐ伸びたまま積み込み機に近づき、そこで[砂利1(仮)][砂利2(仮)]に分かれるようになっているんですね。
スキャンした配線図には積み込み戦は記載されていないようです。なんで…?
最後に信号機関係の確認をしてゆきましょう。
建立位置は配線図の通り。
宝塚駅は1970年代初頭に惣川駅構内を取り込んだのは先の説明のとおりですが、そのコメントによると
惣川は宝塚駅に含まれますが、下り列車では、宝塚駅第1出発で惣川に入り、第2出発で惣川を出て、すぐに生瀬駅遠方がありました。上り列車で言うと、第1遠方・第1場内で惣川、第2遠方・第2場内で宝塚となります。
とのことです。
転轍器を探した際に利用した写真をもう一度見てみましょうか。
書き込んでもいますが、まず本線左側を奥の方に見てゆくと宝塚第二出発信号機があります。
単灯式の信号機ですね。
そのちょっと右側にはこちらに対し裏側を向けている、宝塚駅第一場内信号機らしき物が確認できます。同じく単灯式の信号機。
さらに、先程錘付き転轍器を見つけた場所に遠方信号機が存在しますが、これが宝塚の第二遠方信号機です。
「遠方信号機は大体の場所で色灯信号機化された」という話をしましたが、1977年になってもこの駅は上り下りどちらも腕木だったようです。どうしてだったんでしょうね?
最後に、宝塚駅第一遠方信号機はどこにあったのか探してみましょう。
配線図では既に生瀬駅の遠方信号機が書き込まれていますので、かなり生瀬寄りにあるみたいですね。
写真を探します。
「キハ58」http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-02.htm
(サイト管理者に転載の許可を頂いています。禁無断転載)
左側の写真の位置関係は右の写真に示した通りです。
右の写真は第一武庫川橋梁を渡るDD51です。
この辺の橋はすべてガーター橋だったようで遮るようなものは何もありませんね。
奥側上には開通して一年ちょっと(この区間の開業は1975/10/16)の、出来立てほやほやの中国自動車道があります。超きれいですなぁ。こういう自動車交通網の発達が国鉄衰退の一助になったことを考えると少し複雑な気分ですが…
現代っ子の私がこの恩恵にあずかっているのも事実です笑
橋の下左には二車線に拡張されて今も残っている市道。この上をまたぐように国道176号線のバイパスができたので、今では地元の人しか使わない道になりました。
右下には神戸水道の第三水道橋が。今この現代でも現役で、神戸市民の水道水の提供に一役買っており、遠路はるばる千刈水源地からここに至るまで長いトンネルが掘られています。
途中武庫川を渡る場面で何度か同じような橋を経由するのですが、これもその一つというわけです。武田尾付近にも存在するのでまた話題に上るかもしれません。
そして、DD51がさしかかっているあたりにあるのが生瀬遠方信号機です。交換された色灯式。
んで、ようやく写真左側にある通り、宝塚第一遠方信号機が現れます。
遠方信号機同士が交差している例なんてなかなかないんじゃないでしょうかね?私は初めて見ますが。。。
右手には竹林があり、現在よりも更に田舎臭。
この竹林のエリアを切り開き、現在の福知山線が通っています。時代は変わるもんですね…
現在の写真があるので、簡単に書き入れてみました。
さて、以上の情報を総合して、連動図表を書きたいと思います。
出来上がったものがこちら↓
記号の準拠は信号設備施設基準規程、及び連動図表調製心得です。
配線略図記号は後々図鑑のような形式でしっかりとまとめますので、ご存じない方は「こんなもんなのかな」程度で眺めてもらえれば。
そして、記号を知り尽くしたエキスパートの方で、「ここ違うぜよ」という箇所がわかる方はどしどしご指摘お願いします。
これさあれば宝塚駅の配線は完璧ですね!
中山寺駅と生瀬駅の閉塞てこの番号がまだわからないので、鎖錠欄は空白になっています。
また、先にも述べた通り惣川駅を撮りこんだ不思議な駅構造をしているので、惣川の出発信号機の信号制御欄は不明ということにしています。有効長とてこ配列図は現状不明なため、空欄で残してあります。
[2015.10.7]
記事を公開
[2015.10.8]
加筆
[2015.10.9]
配線図差し替え
[2016.1.20]
大幅な写真の差し替え、及び検証写真の追加、文章の変更と考察の追加を行いました。
[2016.3.26]
写真を拡充しました。
[2016.4.15]
写真を大きく差し替え、文章の大幅な添削と加筆、参考サイトや文献を拡充し、より信頼度の高い検証にしました。
[2016.4.17]
構内配線図を追加して、一応の記事の完成を見ました。
細かな修正はのちに行うと思います。
参考資料
・大阪鉄道管理局 列車運転速度制限取扱基準規程(昭和41年3月 大鉄第24号別冊)
・大阪鉄道管理局運転取扱基準規程(昭和40年4月 大鉄達第35号別冊)
・社団法人信号保安協会 改訂 信号設備施設基準規程
・日本国有鉄道 通信教育教科書 「運転理論」
・昭和39年12月 運達第33号別冊 運転取扱基準規程
・日本鉄道図書株式会社 運転取扱基準規程逐条解説
・社団法人 信号保安協会 連動図表調製心得解説(1947)
・解り易い連動図表の解説 運転保安会(昭和33年)
・社団法人 日本鉄道施設協会 分岐機ハンドブック
・社団法人 日本鉄道施設協会 保線ハンドブック(軌道構造・整備編)
・今井 正市 三田の複線電化史
・西宮市北部地域開発と国鉄福知山線(生瀬~三田間)線増計画の考え方 西宮市
参考サイト
ここには詳しく載せなかったものの、参考にしたサイトも含めて
関西撮鉄協同組合(仮称)http://kantetukyo.web.fc2.com
「DD51」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd51/dd51-01.htm
「DD54」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd54/dd54-01.htm
「まつかぜ」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/resshamei/matukaze/matukaze-01.htm
「旧型キハ」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/kyukiha/kyukiha-01.htm
「キハ58系・キハ65」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/kidousya/58-28/58-28-01.htm
「DD13」
http://kantetukyo.web.fc2.com/hoka/kokutetujidai/di-zeru/dd13/dd13-01.htm
「甲号連動機」
http://www.lazyjack.co.jp/nonauto/2nd.html
「宝塚市 たからづかアーカイブ」
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/s/shisei/1008927/1010780/1010814.html
「アーカイブ~まつかぜ」
http://akebonoroman.blog3.fc2.com/blog-entry-38.html?sp
「カメラほんのかけだし」
http://eisenbahn.jugem.jp/?eid=222
「むかしの・関西の部屋」
http://www.isok.jp/rail/former/kansai.htm
「宝塚駅舎」
http://eurosnap.exblog.jp/9693345
「昭和48年 福知山・山陰大回りの旅」
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-960.html?sp
「福chanの鉄道写真」
http://blogs.yahoo.co.jp/br1245er/31879818.html
「国鉄、私鉄の思い出」
http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/2006/09/post-ce22.html
「ディーゼルの鼓動」
http://dieselloco.blog64.fc2.com/blog-entry-656.html
「回想 国鉄福知山線」
http://g-bear.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/55-c942.html
「シグナル鉄写旅」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/690843/577863/75499592
「惣川のD51」
http://blog.livedoor.jp/nainen60/archives/2016-02-07.html
「福知山線DD51の思い出」
http://www20.tok2.com/home/kt2251ex/omoide-fukutiyama-DD51(1980).htm
「時の流れに郷愁紀行」
http://eyeyan.blog71.fc2.com/category33-0.html
「懐かしい駅の風景~線路配線図とともに」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/278503/506157/55398142
「駅を撮った古い写真」
http://www.nihonkai.com/onokoho/28stn-hyogo-hokusetsu-tamba.html
「【鉄道近代化前】福知山線沿線風景」
http://osakasalon.exblog.jp/9118228
「阿房列車ピクトリアル」
http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/?tag=%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A
「未電化福知山線山陰線の懐古写真集」
http://kai-ko.underthetree.jp/index.php?%CC%A4%C5%C5%B2%BD%CA%A1%C3%CE%BB%B3%C0%FE%BB%B3%B1%A2%C0%FE%A4%CE%B2%FB%B8%C5%BC%CC%BF%BF%BD%B8
「DD54牽引の客車列車の通過音」
http://www.asahi-net.or.jp/~ZF9T-HRN/dd54.htm
「甲号連動機」http://www.lazyjack.co.jp/nonauto/2nd.html
最後になりましたが、快く写真の利用を許可していただいた「関西撮鉄協同組合(仮称)」様、本当にありがとうございました。
この場を借りてお礼申し上げます。
コメントの投稿
No title
大昔に福知山線に何度か乗った事のある者です。
朧げな記憶を辿って若干記しますので御容赦下さい。
1.構内生瀬側で、2番線から1番線にも転線出来ていた記憶があります。
そして、「アント」が、本屋側の貨物引込線から、二軸のレムやレサを、2番線まで動かしていたと記憶します。
その後、いつの間にかそれが取り払われ、バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかったのを覚えています。
2.本屋側の貨物引込線は、単に1番線から本屋側に枝分かれした1本のみではなく、それがスイッチバックして、生瀬側に少しだけ伸びていました。逆さトの字配線です。
素晴らしい出来栄えを期待しております。
朧げな記憶を辿って若干記しますので御容赦下さい。
1.構内生瀬側で、2番線から1番線にも転線出来ていた記憶があります。
そして、「アント」が、本屋側の貨物引込線から、二軸のレムやレサを、2番線まで動かしていたと記憶します。
その後、いつの間にかそれが取り払われ、バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかったのを覚えています。
2.本屋側の貨物引込線は、単に1番線から本屋側に枝分かれした1本のみではなく、それがスイッチバックして、生瀬側に少しだけ伸びていました。逆さトの字配線です。
素晴らしい出来栄えを期待しております。
Re: No title
おお!貴重な生のコメントありがとうございます!
> 1.構内生瀬側で、2番線から1番線にも転線出来ていた記憶があります。
> そして、「アント」が、本屋側の貨物引込線から、二軸のレムやレサを、2番線まで動かしていたと記憶します。
> その後、いつの間にかそれが取り払われ、バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかったのを覚えています。
これは全く予想もしませんでした。実はつい先日ようやく実際の配線図を手にした(S48)のですが、そこにも記載はないので相当昔の話かもしれません。路盤が残っていたなら場所の推定は容易いかもしれませんね。
> 2.本屋側の貨物引込線は、単に1番線から本屋側に枝分かれした1本のみではなく、それがスイッチバックして、生瀬側に少しだけ伸びていました。逆さトの字配線です。
これも全く見落としておりました。
トの字配線は国鉄期の特徴といいますか、貨物扱いのあった駅ではある種定番の配線なのでしょうか。
この先の駅にもそのような形がないかじっくり観察してみます。
完成まで3-5年を目標にしています。気の長い話ですがこれからもよろしくお願いします。
> 1.構内生瀬側で、2番線から1番線にも転線出来ていた記憶があります。
> そして、「アント」が、本屋側の貨物引込線から、二軸のレムやレサを、2番線まで動かしていたと記憶します。
> その後、いつの間にかそれが取り払われ、バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかったのを覚えています。
これは全く予想もしませんでした。実はつい先日ようやく実際の配線図を手にした(S48)のですが、そこにも記載はないので相当昔の話かもしれません。路盤が残っていたなら場所の推定は容易いかもしれませんね。
> 2.本屋側の貨物引込線は、単に1番線から本屋側に枝分かれした1本のみではなく、それがスイッチバックして、生瀬側に少しだけ伸びていました。逆さトの字配線です。
これも全く見落としておりました。
トの字配線は国鉄期の特徴といいますか、貨物扱いのあった駅ではある種定番の配線なのでしょうか。
この先の駅にもそのような形がないかじっくり観察してみます。
完成まで3-5年を目標にしています。気の長い話ですがこれからもよろしくお願いします。
No title
訂正があります。
「2番線から1番線にも転線出来ていた記憶」は、不確かなものとなりました。
それと言うのも、「どうやって本屋側の貨物引込線からアントで中線に貨車を持って来ていたんだろう?」と思った記憶が甦ったからです。そう思ったのは、西側において、2番線から1番線に転線出来ない構造であったからだったと思います。尚、アントが中線(常に貨車の西側)と貨物引込線に居た記憶ははっきりとあります。
「バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかった」のは、もっと後に、西側で2番線と3番線の接続が失われた時かもしれません。貨物取扱が無くなった時点で、2番線の存在意義は失われました。
「2番線から1番線にも転線出来ていた記憶」は、不確かなものとなりました。
それと言うのも、「どうやって本屋側の貨物引込線からアントで中線に貨車を持って来ていたんだろう?」と思った記憶が甦ったからです。そう思ったのは、西側において、2番線から1番線に転線出来ない構造であったからだったと思います。尚、アントが中線(常に貨車の西側)と貨物引込線に居た記憶ははっきりとあります。
「バラストのみとなったその部分が、前の気配を残していて生々しかった」のは、もっと後に、西側で2番線と3番線の接続が失われた時かもしれません。貨物取扱が無くなった時点で、2番線の存在意義は失われました。