motomiyatakahiroの日記

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【番外編】本能寺の変はなぜ起きたのか。

 

こんにちは。本宮 貴大(もとみや たかひろ)です。

この度は、記事を閲覧してくださって本当にありがとうございます。

今回のテーマは「【番外編】本能寺の変はなぜ起きたのか。【歴史はストーリーで覚える】」というお話です。

是非、最後までお読みくださいますようよろしくお願いします。

信長は合理性ばかりを追求し、伝統や風習を蔑ろにした。「本能寺の変の犯人は古き良き時代を愛する「優秀な外交官 明智光秀」でした。

 日本史最大のミステリーと言われている本能寺の変はなぜ起きてしまったのか。私の個人的な見解として話をさせていただきます。

 個人的な恨みを持っていたという怨恨説、光秀自身が天下人となろうとしていた野望説、朝廷や幕府、イエズス会、秀吉や家康などの黒幕説などいろいろな説が流れていますが、今回は本能寺の変はなぜおきたのか。光秀の人間性にスポットを当て、検証してみたいと思います。

 背後に何人かはいても、基本的に光秀の単独犯だと思います。私は、両者の気質の違いによる意見のすれ違いだと思います。理由は以下の2つです。

 

 

 理由1:伝統を重んじる光秀にとって、幕府や朝廷の権威を蔑ろにする信長を許せなかった。したがって、世直しや王政復古を目指すために事件を起こした。

理由2:光秀は大変真面目な性格でジョークをそのまま受け取ってしまうなどの被害者意識が強かったこと。さらた仕打ちはいつまでも覚えている。

 

明智光秀ってどんな人なのでしょう。

光秀は自分を軍隊に法律を造り、統制をしていました。落ちぶれていた私をここまで立身させてくれた恩人。粉骨砕身、信長様のために人力せよ。と記されてあったのです。この法律

 

皆さんは明智光秀と言えばどんなイメージをお持ちでしょうか。

実は室町幕府の元役人として13代将軍足利義輝の元で仕えていました。元役人というだけあって外交官としては大変優秀です。もちろん、武士としての信長と室町幕府15代将軍・足利義昭の間を取り持ったのは光秀です。

武士としての剣術の腕前は超一流。元幕臣だったこともあり、古典礼拝にも通じた外交官であり、室町以来の伝統文化を身につけていました。さらに鉄砲術や築城術の知識も持っているエンジニアであり、軍学書まで書いている教養人。

信長からは「ここ数年で、最も利を与えたすばらしい家臣」と言わしめるほど。一方の光秀も「落ちぶれていた自分をここまで召し上げてくれた。」と信長をリスペクト。そんな相思相愛の2人が一体どこで、どのようにこじれ、本能寺の変は起きてしまったのか。このように決して自己の鍛練を怠らない真面目な武将です。

次に光秀の経歴をご紹介します。

美濃の大名、斎藤道三に仕えるものの、斎藤氏の内紛に巻き込まれ、明智一族は離散してしまったという。そうして光秀は流浪生活を送ります。長い流浪の生活の末、室町幕府13代将軍・足利義輝に実力を認められ、役人になりました。当時、室町幕府の権威は最低ランクまで落ち込んでいました。

 室町幕府の再建を願う5代将軍・足利義昭織田信長の存在を知り、信長に幕府再建を要請します。その時に外交マンである光秀に仲介を頼んだのです。

 戦国時代に彗星のように現れた天才児・織田信長は15代将軍・足利義昭征夷大将軍に奉り上げ、天下人の中間入りをします。高い軍事力と政治力を持った信長の姿は光秀の目には英雄に映ったことでしょう。

 

 信長の高い軍事力と政治力を光秀は頼もしく感じ、是非とも家臣にして欲しいと願い出ます。一方の信長も光秀の力量を見込んで家臣になることを許可。光秀は信長が38歳のときに召し抱えた流れ者だったのです。光秀は信長の部下として姉川の戦い比叡山焼き討ちなどで大活躍。 1571年、功績を認められた光秀は近江に5万石の領地を与えられ、1大名となります。

 その後、光秀は難攻不落と呼ばれた丹波を平定します。畿内の制圧を決定的なものにしました。信長はこれを高く評価。光秀には丹波一国と、数百人の部下を与えられ、重臣へと出世します。

 

「戦国時代の混乱した世の中から、室町時代の古き良き時代が戻ってきた」

と光秀もこの時ばかりはそう思っていたに違いありません。

 

 ところで、皆さんの大好きな織田信長明智光秀豊臣秀吉徳川家康の戦国4武将はそれぞれ違った気質を持っています。専門用語では難しいので、分かりやすくエレメントでご紹介したいと思います。織田信長は火、明智光秀は地、豊臣秀吉は風、徳川家康は水になります。

 火のエレメントとは、別名:理想主義者気質であり、積極的で行動力がある。決断が早い。未来志向で考えることが出来る。高いカリスマ性を持つ。曖昧さを嫌い、白黒をはっきりさせる。協調性に欠ける。自分の価値感を他人に押し付ける傾向があるので、高圧的になる。反感も買いやすい。それでも自分を正当化し、それがエスカレートするとかんしゃくを起こし、怒りをぶちまける。

地のエレメントとは、別名:伝統主義者気質であり、記憶力や想像力に優れ、美的センスや音楽的才能に優れている。権威や組織に従順で真面目に物事に取り組む人。伝統や上下関係を大事にする。控えめで臆病。柔軟性に乏しく、固定観念や常識にとらわれがち。頑固で思い込みも激しいため、自己中心的な考えとなり、被害者意識が強くなる。

 火のエレメントの信長と地のエレメントの光秀。改革派の信長と保守派の光秀。どうやら全く違ったタイプのようです。

信長から「おい!猿!猿!どこだ」と呼ばれても「はいはい。猿、只今参上しましました」と陽気にスキップしながら出て来ることが出来ます。あだ名をつけるのが大好きな信長に軽蔑と親しみをこめて猿と呼ばれていることなど気にもしない。そんな侮辱もサラリと受け流し、逆に相手を軽くいなすくらいの器量がある。

一方で真面目でエリート意識の高い光秀は、信長から「おい!きんかん頭」と呼ばれると、すぐには返事が出来す、その屈辱を一度飲み込んで数秒経ってから、「ハハァ」と返事をする。秀吉とは対照的に少々陰気で暗い印象を与えてしまう。

 

宣教師ルイス=フロイスの日記には、信長は気に入らないことがあるとよく人に足蹴りを加えたりしていたようです。火のエレメントである信長は、イメージ通りかなり横暴な性格なようです。

 

光秀もその被害にあっていたようです。本能寺の変が6月1日で、その数日前の5月15日、光秀が家康の接待をしているときです。光秀は伝統料理に精通しているため、京都料理でもてなしました。しかし、家康が

 

翌日に中国地方の毛利氏と戦っている秀吉軍へ援軍として行くように命令しています。天下統一を目前とした大事な戦い。決して信長は光秀に失望したわけでも、嫌っていたわけでもないのです。つまり、昨日の足蹴りのことなど覚えていない、気にしていないのです。やられた人のことを考えないのが信長の基本スタンス。往々にして横暴な人間にありがちなことです。

 

 

信長はやがて暴君へと姿をかえます。

 

朝廷の上に立つこと。暦の変更を要求。しかし、暦を決めるのは「天皇大権」という古来から天皇にのみ許された神聖は行為。天皇を冒涜するような信長の発言を周囲の人達はどのように思っただろうか。

このように天皇という伝統的権威を意のままに操ろうとする信長。侵害するような行為は

伝統を重んじる光秀にとって、信長の行為は理解しがたい

光秀が望んでいた世の中、それは天皇をトップにした従来の世の中。いわゆる王政復古の世の中だったのです。

伝統的な権威を蔑ろにする信長を許せなかったのだと思います。

お気づきですか。

光秀は剣術や鉄砲術、築城術など実用的で具体的なものを極めることが得意な出来る人です。つまり、手元の作業や細かい仕事を得意とするタイプ。

一方の信長は兵農分離楽市楽座など本質的で抽象度の高い政策を多数実施しています。世の中の動きや経済の動きなど、あらゆるものを俯瞰的に見ることが出来るタイプです。

言ってみれば、光秀は「木を見るタイプ」であり、信長は「森を見るタイプ」なのです。心理学の専門用語でいうと「感覚型」と「直観型」といいますが、もののとらえ方や、視点が全く違うのです。これは理想主義と現実主義とも言い換えることが出来るのではないでしょうか。現在を見ている光秀。未来を見ている信長。この両者の視点の違いは決定的だと思います。光秀の目には信長の行為は現実離れし過ぎており、

 

しかし、信長の政策によって経済が活性化し、GDPや人口が倍増したことは事実。時代を

歴史的事実が明確になってくるのはこの時代からです。時代を中世から近世へと替えてくれた信長を

 

かといって信長が正しいかったというわけでもありません。信長の完全な合理的は政策ばかり追求し、人の心を読む努力をしなかったことは多いに問題があります。

 

山崎の合戦の直後に、光秀を討ち取った秀吉でさえ、こんな言葉を残している。

秀吉 「光秀殿、なぜあんなことを。まぁ光秀殿の気持ちもわからないでもない。信長様は勇将ではあっても、良将とは程遠いものであった。」

と光秀の反逆心を否定しながらも、信長にも一半の責があることを指摘したのです。