世界最大の石油埋蔵量を有し、南アメリカ大陸の最北端に位置する国・ベネズエラ。ここでは今、マドゥロ政権に対する抗議デモが激化し、死者は80人以上に達している。なぜこのような事態になったのか。ベネズエラの経済・地域研究がご専門、ジェトロ・アジア経済研究所地域研究センター・ラテンアメリカ研究グループ長の坂口安紀氏にお話を伺った。2017年4月25日配信TBSラジオ荻上チキ・Session22「反政府デモの激化で死者20人以上…南米・ベネズエラでいま何が起きているのか?」より抄録(構成/大谷佳名)
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ベネズエラってどんな国?
荻上 今日のゲストを紹介します。ジェトロ・アジア経済研究所、地域研究センター・ラテンアメリカ研究グループ長の坂口安紀さんです。よろしくお願いします。
坂口 よろしくお願いします。
荻上 坂口さんは普段どのような研究をされているのですか。
坂口 もともとはベネズエラの経済を中心に研究を行っていましたが、最近は経済面・政治面ともに流れを追いつつ、ウェイトとしてはベネズエラにおける政治対立や政権の政治運営を詳しく見ています。というのも、チャベス政権下になってからは、社会全体が経済の論理ではなく、政治の論理で動くようにシフトしていったからです。
荻上 今日は、ベネズエラで反政府デモが激化している状況や、これまでの経緯などについて伺っていきたいと思います。その前に、そもそもベネズエラとはどのような国なのでしょうか。ベネズエラの基本情報を整理してみましょう。
正式名称「ベネズエラ・ボリバル共和国」は、南アメリカ大陸の最北端に位置し、コロンビア、ブラジルなどと国境を接し、カリブ海と大西洋に面する国。一説では、スペインの征服者たちがかつてこの地にやってきたとき、最大の湖・マラカイボ湖で先住民が水上で生活しているのを見て、イタリアの水の都・ヴェネツィアに見立てて「小さなヴェネツィア」(Venezuola)と名付けたことから、ベネズエラと呼ばれるようになったとされている。1498年、コロンブスがベネズエラに到達すると、翌年にはスペインが征服。各地に植民地が建設されていった。18世紀後半からスペイン本国の植民地政策に反発し、独立の気運が生まれ、19世紀前半、シモン・ボリバルを中心に独立戦争が行われた。そして、1819年、ベネズエラとエクアドルを含む大コロンビア共和国の樹立を宣言。1829年には、ベネズエラ共和国として分離独立した。
坂口 ベネズエラの人口は3000万人ほどなので、日本の約4分の1です。面積は日本の3倍弱ですが、その多くをギアナ高地やアマゾン、アンデス山脈の山々が占めるため、人々が暮らしている地域は北部に集中しています。
このような豊かな自然に囲まれているベネズエラは、原油の埋蔵量世界一を誇る産油国として知られています。また、OPECの設立国でもあります。石油以外にもさまざまな天然資源に恵まれており、ボーキサイト、鉄鉱石、天然ガス、ダイアモンド、金などが産出されます。しかし、チャベス政権、それに続く現在のマドゥロ政権下で、それらの産業および製造業なども非常に疲弊してしまいました。
荻上 資源が豊富な国や地域は、資源に縛られてしまうがゆえに他の産業が成長しないという問題が多いですよね。やはりベネズエラもそうなのですか。
坂口 その通りです。しかもベネズエラの場合は、石油収入は国家に入り、国家によって分配されるので、その分配や補助金に社会全体が依存する形になってしまっています。
荻上 そうすると、特定の人々が富を独占する構造が代々受け継がれていくといったことが起きているのでしょうか。
坂口 その傾向は確かにあります。しかし歴史的に見ると、ベネズエラは1920年代に石油経済へ転換した時に輸出農業が一気に崩れ、同時に大土地所有制度が崩壊したため、それまでの格差の構造は一旦リセットされています。また、20世紀に入り1980年ごろまでは石油生産による長期的な経済成長があり、社会全体が底上げされて階層移動が起こりました。そのため、世代を超えて固定化された格差構造というのは、ベネズエラではラテンアメリカの他の国ほどは強くなかったと思います。
しかし、1980年代以降は経済危機が長期化し、格差構造がふたたび硬直化していたといえます。そこで生まれた不満がチャベス政権誕生の背景であるともいえます。
荻上 日本との経済関係はいかがですか。
坂口 1970年代ごろから日系企業の進出が始まりました。国有化されていた石油部門への進出は遅れたのですが、石油以外にもボーキサイトや鉄鉱石などの豊かな天然資源がありますので、アルミニウム精製、製鉄などの資源加工のほか、自動車産業、家電組立てなどの日系企業が進出し現地で生産していました。石油や天然ガス部門には1980年代以降に日本の石油企業や商社が参画するようになりました。しかし、チャベス政権下で企業活動に対する国家の統制・介入が拡大し、経済状況が厳しくなってからは現地での事業継続に多くの困難が伴うようになり、事業縮小や撤退を余儀なくされる日系企業が相次いでいます。
治安の悪化と長期的なインフレ、モノ不足
荻上 リスナーの方からメールが届いています。
「私は2011〜2015年までベネズエラの地方都市にある現地法人に海外赴任していました。当時から治安問題や外貨規制に伴う物価上昇により現地での生活は大変でしたが、現在はさらに状況が悪化しているとベネズエラ人の友人から聞いています。今回の大規模なデモが功を奏し、マドゥロ大統領が退陣し、民主的な政権に交代したとしても、原油収入に頼りきって国内産業が衰退してしまった今の経済状況では、治安の問題や物不足は解消できず、市民の不満や社会の混乱は続くのではないでしょうか。」
治安の問題やモノ不足など、生活する上での不満が反政府デモにつながっている側面もあるのでしょうか。
坂口 はい。モノ不足やインフレが進んでいる背景には、経済政策の失敗があります。そのため、政権を交代させて経済政策を変えなければ、この問題は解消できないという認識が広がっています。
また、治安も非常に悪化しています。ベネズエラは伝統的に、ラテンアメリカの中ではそれほど治安が悪くない国でした。しかし、チャベス政権が誕生したころからだんだん悪化し、直近のデータでは殺人事件の発生件数が人口10万人あたり90件を超えています。治安の悪い国としてよく挙げられる南アフリカやコロンビア、ブラジルでも20~30件ぐらいなので、世界的に見ても非常に厳しい治安状況にあることがわかります。
私のまわりでも、お世話になった大学教授、大家さん、仕事仲間の息子など、知人やその家族が8人も誘拐されて殺されています。また「エクスプレス誘拐」といって身代金目当ての誘拐も多発しています。
アウトサイダーへの期待
荻上 リスナーの方からこんな質問も届いています。
「ベネズエラといえば、チャベス大統領がアメリカの悪口を言っているというイメージです。あの頃は国民の支持率も高いというニュースを見た記憶があります。チャベス氏が死亡してから現政権は支持率が低いようですが、チャベス政権のころと現在のマドゥロ政権下では政治や経済などの状況はどう変わったのでしょうか。」
まず、チャベス政権が誕生する前のベネズエラはどんな状況だったのですか。
坂口 ベネズエラ政治は90年代までは30年以上にわたり長期的に安定していました。アメリカのような二大政党制で、定期的に5年ごとに選挙が開かれ、その結果に基づく政権交代が行われるという意味で、民主的な政治運営が行われていたのです。しかし、90年代以降はそれが揺れ始め、チャベス政権誕生によって完全に崩壊しました。
荻上 どのような流れでチャベス政権は誕生したのですか。
坂口 当時の二大政党制は、安定性をもたらす一方で、新たに生まれてきた社会セクターを排除する側面もあったのです。伝統的二大政党やそれと結びつくセクターによる政治支配があまりにも強固であったため、特に貧困層は政治的意見を反映することができませんでした。そのため80年代後半ごろから、既存の政治体制に対する不満が生まれてきたのです。同時に、汚職が蔓延した政治家たちに対する反発も高まり、伝統的政党やその政治家たちが「石油収入を支配している」という不満も強まっていきました。
そして90年代に入ると、既存の政治家ではない、伝統的政党出身ではないアウトサイダー政治家に対する期待が高まります。1998年の大統領選挙での有力候補はいずれもアウトサイダーであり、チャベスもその一人でした。チャベスは、政治体制を変えたいと願う国民の期待に応え、憲法改正を公約に掲げて選挙戦に出馬し、支持を集めました。
チャベス政権の誕生については、当時ラテンアメリカ各国で左派政権が誕生した時期でもあるため、「新自由主義(ネオリベラル)経済改革への反発である」とよく言われます。確かにそうした側面がないわけではありませんが、それよりも国民に政治の変革を期待させたことが一番の要因だったと私は考えています。
というのも、チャベス政権誕生前のベネズエラはラテンアメリカの中でも新自由主義経済改革がもっとも進んでいなかった国だからです。また、チャベス大統領が就任直後に真っ先に取り組んだのが政治改革であり経済政策については2年ほど手を付けなかったことも、それを示していると思います。組織的な政治基盤をもたない新参者の大統領が、新政権を安定させるために最初に着手すべきは、彼を政権に押し上げた有権者がもっとも求めるものであるはずだからです。
荻上 なるほど。チャベス氏が国民から注目されるきっかけとなった出来事は何だったのですか。
坂口 チャベスは1992年、当時新自由主義経済改革を進めていた政権に反発してクーデターを起こしました。これによりそれまで無名の若手将校であったチャベスが初めて政治の舞台に登場し、国民の注目を集めました。結局、クーデターは失敗して逮捕されてしまうのですが、その時に国民に向かって潔く自分が首謀者であることを認めたんです。そうした行動が、これまで責任を取ろうとしなかった既存の政治家たちと比べると、国民にはとても新鮮に感じられたんですね。
クーデターでは失敗してしまったのですが、その結果チャベスは武力よりも選挙で政権を取るほうが容易だと判断し、戦略を転換します。恩赦を受けて自由の身になった後、全国を行脚して支持を集め、1998年12月の大統領選に出馬し当選しました。1992年のクーデターが失敗して投降した際にチャベスはテレビカメラに向かって「ポル・アオラ」、つまり「今は身を引くけれども……」と発言し、将来的に帰ってくることを国民に対して示唆していました。その通りになったのです。【次ページにつづく】