一世を風靡したSTAP細胞の正式名称は刺激惹起性多能性獲得細胞である。STAPのPは多能性を意味するPluripotencyのPだ。なぜ、今さらこんなことを書くかというと、日本の特許庁に出願されていたSTAP細胞に関する特許に、特許請求の範囲を変更する手続きがなされたのだ。驚いたことに、変更後は「多能性細胞を生成する方法」が「Oct4を発現する細胞を含有する細胞塊を生成する方法」に変わっていた。多能性であることに限定しない内容になっている。さらには、捏造と判定された実験にかかわる内容が、変更後も請求項目に含まれている点も指摘したい。
Oct4の発現があればOK?
弁理士である栗原潔氏が9月14日に「日本の「STAP特許出願」拒絶理由にハーバード大が想定外の応答」という記事を書いているので、まずはそちらをご覧いただきたい。これまでのSTAP特許の経緯も栗原氏の過去の記事からたどることができる。
今回の変更の一番のポイントである、多能性とOct4発現との関係を少し整理しよう。
多能性(pluripotency)とは、その細胞が身体を構成するすべて種類の細胞になれる能力のことで、多能性をもつ幹細胞は「万能細胞」とも言われる。母親の胎内に着床する前の初期胚にある細胞(内部細胞塊)やそこから作られるES細胞(胚性幹細胞)、遺伝子導入でつくるiPS細胞(人工多能性幹細胞)が多能性をもつ細胞として知られている。ES細胞やiPS細胞は、生命を理解するための基礎研究はもちろん、薬の開発や再生医療などにも使われている非常に有用な細胞だ。
Oct4は多能性をもつ細胞の目印として使われるマーカーで、ES細胞やiPS細胞はこの遺伝子を発現しているが、皮膚の細胞や心臓の細胞など、多能性のない細胞はOct4を発現していない。
重要なのでは、Oct4を発現しているからといって、多能性をもつとは言えない点だ。栗原氏は9月14日の記事の中で今回の変更を「「STAP現象」などと呼ばれていた途中経過の特許化を目指した」と書いているが、この「途中経過」はゴールに近い途中ではなく、限りなくスタート地点に近い「途中」と言えるだろう。
STAP論文でも、まずはOct4の発現を調べたのち、(1)培養皿の中でほかの細胞に分化することを確認、(2)マウスに移植して奇形腫(テラトーマ)ができることを確認──という2つステップを経て、初めてこれは多能性細胞といえるとしてSTAP細胞と命名している。
この2つは「多能性である」ことを主張するための必要なステップだ。実際、論文でもこの2つのステップを経るまでは、単に「Oct4を発現している細胞」という書き方がされている。論文ではこのあと、多能性の決定的な証拠であるキメラマウス作成の結果や、STAP細胞と代表的な多能性細胞であるES細胞との比較をして、STAP細胞の多能性細胞としての能力の高さを書き綴っている(のちにデータの捏造や改ざんが発覚して論文は撤回)。
多能性細胞が作れたらこの特許に抵触する?
栗原氏も記事中で触れているが、この特許がもし認められた場合、非常にやっかいな問題が生じかねない。誰かが、酸による刺激(を含める工程)で本当に多能性細胞をつくることに成功した場合、この特許に引っかかる可能性があるのだ。
今回の変更では、できあがる細胞が多能性であることを問題にしていない。かわりにOct4を発現をする細胞としてる。しかし、多能性細胞であればOct4を発現していると考えてよいのだ。つまり、誰かが酸の刺激によって多能性細胞づくりに成功した場合、その細胞はOct4を発現していて、この特許に引っかかる(特許が認められれば)。
STAP論文は2回の調査を経て「STAP 細胞が多能性を持つというこの論文の主な結論が否定された」(2014年12月25日付「研究論文に関する調査報告書」30ページ)が、刺激により分化した細胞が多能性を獲得するというアイデア自体は否定されていない。iPS細胞は特定の遺伝子を導入することで細胞に多能性を持たせる技術だが、その登場以来、遺伝子ではなくタンパク質や化学物質を加えることで同様の効果が得られないかと盛んに研究されてきた。
Oct4発現の量を問わなくてもいいのか
このSTAP特許出願は拒絶され、その通知書が2017年3月7日に送付されている。今回の変更と意見書は、それへの対応となっている。拒絶理由の1つに、「実施例において示された内容は(中略)その信憑性については疑義があり、また、再現不可能なものというほかない」(拒絶理由通知書6ページ)とあった。そして、その根拠の1つに、丹羽仁史氏による“検証実験”の結果を挙げている。
STAP論文の著者の一人だった丹羽氏は、理研にいた2014年当時、論文に書かれている方法やその他の方法でSTAP細胞が本当に作れるかの“検証実験”を行い、その結果を誰でも入手可能なオープンアクセスの論文として発表している。海外での複数グループによる再現の失敗報告の論文などとともに、この丹羽氏の論文が特許出願を拒絶する根拠になっていたのだ。
ところが、今回の意見書では、同じ丹羽氏の論文を引用して「新請求項1(酸による刺激でOct4を発現する細胞を作成する)に係わる発明が、当業者(丹羽氏)により再現できた事実が明確に示されています」と書かれている。
なぜ、こんなことが起きたのだろう。
それは、量的なことや生物学的な意義を無視しているからだ。丹羽氏の論文の図3bを見ていただきたい。
ATPによる酸性条件で処理した細胞1個ごとでの遺伝子の発現を見ている。左側の5つ(ATP0-1~ATP0-5)は酸処理をしていないもの(分化した肝臓の細胞)であることに注意してほしい。グラフに書かれた項目が多い上に、縦軸が対数目盛なので読み取りにくいが、赤いバーで示されたのが、Oct4の発現量だ(ES細胞での発現量を1とする)。
酸で処理をしていないATP0-5でも、0.01程度(ES細胞の1/100程度)の発現はある。この程度の数字であれば、測定の誤差や細胞ごとの揺らぎであるといっていい。そして、肝心の酸で処理した細胞は、最も発現レベルが高いものでもES細胞の半分に達しておらず(しつこいようだが、縦軸は対数目盛である)、半分以上にあたる8個では無処理であるATP0-5のレベルにすら達していない。
さらに重要なことはこの“検証実験”の結論だろう。「再現性をもって、これらの細胞の多能性獲得、未分化性を分子マーカーの発現によっ
て確認することは出来なかった」(2014年12月16日「STAP現象の検証結果」5ページより)としているのである。この場合の分子マーカーとはOct4の発現のことだ。
丹羽氏のこの論文をもって、意見書のように「再現できた事実が明確にしめされています」と言い切れるのか、はなはだ疑問だ。
捏造とされた項目が残っている
STAP特許出願の今回の変更では、拒絶理由に書かれた内容はおもに削除することで対応している。しかし、STAP論文で捏造と認定された図版にかかわる項目が、変更後も請求項目に残っている。新しい請求項16と17がそれだ。
【請求項16】細胞のエピジェネティック状態が胚性幹細胞のエピジェネティク状態により近く類似するように変化させられる、請求項1~15のいずれか1項記載の方法。
エピジェネティック状態が何であるかの詳細は、ここでは割愛させていただく。DNAの状態のことで、細胞の種類ごとに異なっていると考えていただきたい。分化した細胞でのエピジェネティック状態は、ES細胞(胚性幹細胞)でのそれとは異なるが、それに似るように変化させる方法を特許範囲として請求しているわけだ。
もとのSTAP論文では、酸処理によってエピジェネティック状態がES細胞のそれと酷似したものになったことを示す図版が載っていた。そして、特許出願の書類にもまったく同じ図版が使われている。
問題は、この図版が捏造であると判定されたものだという点だ(「研究論文に関する調査報告書」19~20ページ、記者会見での説明用スライドの23枚目)。つまり、「酸処理によってエピジェネティック状態をES細胞のそれに似せることができました」という主張は、捏造したデータによる何の根拠もないものだったのだ。誰も、この現象が起きることを実現できたと発表していないことを意味する。それがそのまま特許出願の書類にも使われ、変更後も残っている。
筆者は特許に関してはまったくの素人だ。だが、これは「実施可能性」があると言えるのだろうか?
もう1つ、疑問がある。多能性幹細胞はまちがいなく利用価値がある。だが、多能性であるのかどうかもわからない、Oct4を発現しただけの細胞(しかも、発現量は問わない)の作成法が「産業上利用することができる発明」に該当するのだろうか?
「実施可能性」と「産業上利用することができる発明」は拒絶理由通知書にあった文言だ。後者は特許法第29条第1項柱書に書かれているらしい(これも拒絶理由通知書から)。
栗原氏が指摘したように、STAP特許は多能性であることを放棄した内容になった。だが、書類ではいまも「【発明の名称】多能性細胞のデノボ生成」となっている(デノボは「新しい」の意味)。
STAP特許の中味とこれまでの経緯を見るには……
特許庁の特許情報プラットフォームにアクセスし、上のバーから「経過情報」「番号検索」を選ぶ。出てきた画面にSTAP特許の出願番号である2015-509109を入力。画面が該当論文になったら、画面右上のグレーの「審査書類情報」ボタンをクリック。別ウィンドウが開くので、左段の目次から読みたい書類などを選ぶ。
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