エクスマキナ 人権を持たない人間が欲しいという願望

雑記がんばるパーソン。Huluでエクスマキナを観たときのこと。

人造人間、いわゆるアンドロイド開発をテーマにしたSF映画で、A.I.にまつわる心理サスペンスもの。近未来、近未来いうけれど、本当に生きている間にこうした問題は起きると思う。つまり人権とは何かという問題。「A.I.」や「私を離さないで」に繋がるテーマでもある。

 

人権がない人間を自分の都合のいいように使いたいという願望はおそらく人類の歴史の最初からあり、最期まで残るものではないか。かつては公然と奴隷を使役する文化があり、現代はそれを機械で代用できないかという思想がある。

 

根底にあるのは思い通りになる人間がほしいという願望なので、歯車とチップの組み合わせであっても意思を持たない機械では満足できない。しかし意思と感情を持つもの、つまり好き嫌いがあり、危険を察知し、自分を守り死を恐れるものをあえて作り出し、その意思を無視することは果たしてゆるされることなのか。

 

作中で何度か大胆なヌードが出てくる。いずれも重要な場面で、人とは何かについて考えさせられた。しかしテーマがぼやけるのでヌードは不要だと書いたレビューがあった。(感想をつぶやいていたらTwitterでもそういってきた人がいた。)つまりシリアスな作品に女性の裸体=サービスシーンはいらんということだ。皮肉なことに女性の裸体=男性向けサービスというこの反応こそ、この作品のテーマがフィクションの中だけのものではないことをあきらかにしている。人の裸体はポルノの記号ではなく、男性向けのエロティックなサービスではない。

 

開発者、テストの参加者双方が白人男性で、作られたモデルが女性であったこと、その肌の色が何色だったか、どのように使われていたかということには重要な意味がある。開発者は誰の人権を剥奪したいと考えているのか、それが実現したらどのように利用したいと考えているのか。繊細な感情を持った好青年として描かれた主人公がハンディを持つ肌の色の違う女性を庇わなかったことにも注目したい。

 

うろ覚えなのだけれど、「ファイブスターストーリー」のファティマの瞳にシールドが入っているのは女性の嫉妬からだという設定があった。ファティマが現実化されるとしたら女性からの反発はあるだろうが、それは嫉妬からではなく、女の形をした人権を持たない自由意思を持つものを男性が好き勝手に使うことは、生身の女に加えられてきた暴力の延長だからだろう。シールドをつけたところで問題は解決しない。

 

いうまでもなく自分の思い通りになる人権を持たない人間を望むのは男性だけではない。けれどもこと男性が「理想の女性」として自分に都合のいい女性を望むことはロマンチックに描かれすぎてきた。エクスマキナはそのような身勝手さに「女らしさ」を持たない人工知能がどのような反応を返すかをあきらかにしていた。

 

「下人の行方は誰も知らない」という芥川龍之介の「羅生門」の最後の一文について、「下人はどこへいったのだろう。下人は私たちの世界に紛れ込んですぐそばで暮らしているのかもしれない」と高校の同級生が感想文に書いていた。この映画のラストについてわたしは同様のことを思った。

 

関係ないけど、子供の頃は21世紀の日本に「アンドロイド」がこんなに普及するとは思わなかったし、それが人の形をしていないガラス板のようなものだとはさらに夢にも思わなかった。