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【東京】

72年目で初の被爆体験談 元広島カープ浩二さんの兄・山本宏さん

「遺体を焼いていた当時の学校を訪ねる勇気は今もない」と話す山本宏さん=江戸川区で

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 広島で被爆した山本宏さん(79)=江戸川区=は今夏、弟のプロ野球広島カープ元監督の山本浩二さん(70)や子どもたちにも封印してきた七十二年前の体験を、初めて人前で語った。当時の被爆地の惨状や今なお苦しみ続ける人がいることを知ってほしい、との思いからだ。 (飯田克志)

 「閃光(せんこう)が走った瞬間、真っ暗になった。松並木の大木の陰にいて助かったが、後頭部の皮がむけた。髪が生えるまで四年かかった」

 一九四五年八月六日。国民学校二年の山本さんは登校途中に被爆した。自宅は爆心地から二・四キロ。戻った家で、母や祖父母は割れた窓ガラスの破片を浴びて血まみれになっていた。

 裸同然の姿で逃げる人々も見た。「幽霊のように両手を前に出して、焼けただれた皮膚がぶら下がっていた」。数日後、学校の校庭では積み上げられた遺体が次々と焼かれていた。

 家族の間で、原爆の話題は禁句となった。七〇年代に母が被爆者健康手帳を受け取った時は「こんなものいらない」と反発した。偏見への不安だけでなく「思い出したくなかった」。特に、戦後生まれで「ミスター赤ヘル」としてスター選手になった浩二さんには、余計な心配をかけまいと一切伝えてこなかった。

 転機となったのは今年一月。同じ被爆者で、五歳年下の妻和子さんをがんで亡くした。原爆被害者の会の友人に勧められ、和子さんの被爆体験を書き始めると、惨禍の記憶に涙が出た。二年前、被爆した場所を訪ねようとしたが、景色が一変していて分からなかったのも心残りだった。

 「真実を伝えたい」。七月に江戸川区で開かれた原爆犠牲者追悼式で、初めて体験を語った。原稿を読みながら悲しみや怒りで言葉が詰まった。「語るのはつらい。そればかりだった」。十七日にはタワーホール船堀(船堀四)である「戦争展in江戸川」で、漢詩人・土屋竹雨(ちくう)(一八八七~一九五八年)の作品「原爆行」を吟じる。

 被爆の影響で今も首筋が痛むことがあるという山本さん。「こんな人たちがいたということを忘れないでほしい」と願う。

 

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