フィリピンの反日感情(1)戦中編 の続き

- 衆 - 予算委員会 -  
昭和25年02月03日
○吉田国務大臣(吉田茂)
お話のうちでもつてパキスタン、インド関係は対日感情は悪くないことは事実でありますが、相当悪い国もあります。たとえばマレーなどは日本の船を寄せてくれないかという話をしましたところが、日本の船を寄せた場合にはクリーが働かない、まだ対日感情は決してよくなつておらないから、もう少し待たなければならぬという当局者の話もあります。シヤムはよいそうであります。けれどもインドネシアは私は相当悪いのじやないかと思います。フィリピンが悪いそうです、仏印もあまりよくないように開いております。

- 衆 - 大蔵委員会 -  
昭和25年12月08日
○川島委員(川島金次)
さらにもう一、二点お伺いしておきたいのですが、これも私最近まわつて来て非常に痛感しておることなんです。・・・アジア地域ことにフイリピンですが、このフィリピンにおける対日感情というものは、われわれの感じて参りましたところでは今日でも非常に險悪であります。・・・依然として戰争以来の対日感情が非常に険悪をきわめておつて、日本人が行きましても、夜分などマニラの市街は見物などができないというようなほどに悪い。・・・これはフイリピンだけでなくして、ここにも非常に重要な市場として掲げておりますところのインドネシア、インド支那、こういう方面にもフイリピンと同じように、対日感情の芳ばしからざる面が相当あるわけであります。

○池田国務大臣(池田勇人)
 川島君の言われるようなことを私は他の人からも聞いたのであります。太平洋戰争中にわれわれの同胞の犯した罪に対しまして非常に憎悪の念を持ち、それがだんだんよくなりつつはありますが、まだわれわれの想像以上に憎悪の念が残つておるということを聞いておるのであります。政府といたしましてはできるだけそういう気持が早く消えることに努力をいたしておるのでありますが、これはやはり日本国民が、ほんとうに日本国民は平和を望む国民であるということを、事実をもつて示すよりほかにないと思います。国民感情をよくするということは非常にむずかしい問題でございまするが、貿易振興その他から申しましても非常に重要な問題でございますので、政府としてどういうふうにしたらいいかということは、お互いの頭の中で考えておることであります。

- 参 - 外務委員会 - 
昭和26年02月15日
○国務大臣(吉田茂君)
・・・濠洲その他については、先ほど申した通りでありまするが、お話の通りにフイリピンは甚だ厄介だと思います。というのは、あそこにおつた日本の軍隊その他の行動に、いろいろその土地の人の恨みを買うようなひどいこともあつたようです。この間佐藤議長がフィリピンにフリーメーソンの関係で行かれるというときにも、治安状態がどうであるか、その懸念に関して行くことをやめられたというようなことも聞いておるのでありますが、又あの土地を通過した人から言つて見ても、市中の散歩もできないというようなことでかなり日本に対する空気は今なお険悪だろうというふうに聞いております。又タイ、フイリピン関係の人から、その他いろいろなことを聞いておりますが、併しこれも日本が悪いことばかりしておるのではない、いいこともしておりますし、それから又駐屯しておつた軍隊その他の行動も、直接に国民にいい感じを与えておる部落と言いますか、地方もあるらしいのでございまして、一概に悪いとは言えないようですが、少くともマニラの状態、空気は甚だ悪くて、今なお危険な空気もあるというようなことは、これは事実であろうと思います。そこでこの関係を元の関係に直すのには相当の時間がかかるのみならず、我々として更に努めなければならんと思いますが、仕合せに村田省蔵君などというような人は友人も持ち、又いい関係も作つておるようでありますから、こういう人の講和後においての努力によつて、フィリピンとの間の関係がよく行くことに相当努むべきであり、努めなければいけないと思います。併しそれにしても、なお相当時間がかかると思います。マニラが一番憂慮すべき関係にあるように思われます。

- 参 - 法務委員会戦争犯罪人に… -  
昭和26年12月12日
○参考人(吉村又三郎君)
・・・現在のフイリピンの現状をちよつと参考までに申しますと、私の知る限りにおいて、最近二世のアメリカ人がフィリピンの酒場で、勿論二世ですから英語で喋つていたのでしよう。ところが途中で日本語になつたら間もなく殺されてしまつた。だから日本人だとすればとにかく遮二無二やつつけてしまうというくらいの空気が非常に強い。それから曾つて私と相当親しく連絡しておりましたフィリピンの某氏のごときは、あなたにフイリピンに来てもらいたいのだけれども、遺憾ながらあなたが日本人であるから生命の安全の保障はできない状態であるから、ここ数年待つてもらいたいということを言つておる。まあこういうふうな状態にあるのでありまして、・・・

 - 衆 - 法務委員会 -  
昭和27年02月14日
○黒田参考人(黒田重徳)
私黒田であります。本席でいろいろな戰犯にすることを述べさせていただくことは、私のたいへん仕合せに感ずる次第でございます。私は開戰戰当時は東京にある陸軍の教育総監部の本部長をしておりました。翌年の七月にシンガポールが落ちたあとに南方総軍の寺内さんの総参謀長になつて、その幕僚長で参りました。それから十八年の五月にフィリピンの軍司令官に参りまして、十九年の九月に交代、十月に内地に帰りまして、十二月に陸軍をしりぞきました。終戰後九月に米軍に監禁されまして、四七年十月にフィリピンに連れて行かれまして、裁判を受けて、四九年の七月に終身刑を受けてただいままでおりました。昨年の十月二十三日に大統領の特赦をもらつて帰つた次第でございます。
・・・比国人の対日感情というものは、なかなかまだ納まりそうにはないと思います。しかしこれはやはり時日が来なければなかなか簡單に行かぬのではないかと思います。

 - 参 - 厚生委員会 - 
昭和27年02月14日
○証人(赤津勇一君)
 私は昭和十九年に比島に参りまして、昨年の四月に帰つて参りました。・・・
 抑留邦人の状況ということになつておりますが、私一人でおつたのでほかのことは全然知りません。ただ向うの人が私に対して与えてくれた取扱のとについてちよつと申上げますと、大変親切であります。・・・ただ一般住民から大分反感を買つていたので、成るたけ外には出ないようにということで、キヤンプの中で自由に往来しておりました。ときどきマニラに行きますと、マニラの住民は相当に感情が悪いようでありました。

- 衆 - 海外同胞引揚及び遺家族… -
昭和27年03月12日
○神保参考人(神保信彦)
 私先般フイリピンに参りましたが、日本人として個人として、初めて行つたような関係であります。そこで今日の議題にありますフィリピン在留日本人の状況をお話します前に、御理解になる前提としましてフィリピンの情勢を簡單に申し上げたいと思います。 
 私が行きました目的は、ロハス元大統領夫人並びにキリノ大統領の招請で、お墓参りということと、それともう一つは、ロハス氏の物語りを書くので、資料編纂というのが目的でありまして、その間に皆さんとお会いして旧情をあたためるという人道的な目的であつたのであります。ところが御承知のようにフイリピンに入国するということは、今非常にむつかしいのであります。これはあとで説明申し上げますが、何といいますか、一種の鎖国政策のようなものではないかと思うのです。それで嚴密な委員会がありまして、資格を吟味いたしまして、やはりなかなか入れないようです。そうして閣議で決定するようです。そういう関係ですから、よくフイリピンの情勢がわからずにわれわれおつたのですが、行くようになりまして、一月の中ころにルパング島に日本兵が四、五名残つておるということが確認されたわけです。それからミンドロ島、ミンダナオ島及びルソン島にも残つておるという情報がだんだんと私の心によみがえりまして、残留日本人の様子を調べて来たわけであります。 
 フィリピンに行きまして気のつきますことが二つあります。それはフィリピンの対日感情が予想以上に悪いということです。これは端的に言つていいか悪いかわかりませんが、実際に悪いです。われわれは非常に甘く考えまして、政治家のある程度の政策上の問題だろうと思いましたが、実際に悪いです。たとえばパーティをやつたり、あるいはレストランなんかに行きましてボーイや何か、日本人だとわかれば必ず言います。私のおやじが殺されたの、兄弟が殺されたの、家が焼かれた。これは戦争中日本人がやつた。日本人ジヤツプジャツプと今でも言います。それからたとえば自動車に乗つて、日本人だとわかれば、運転手が言いますし、宴会などで女、ばあさんは、まだなかなか敵愾心が残つております。この民族感情が、このように熾烈にずつと根強くありますので、フィリピンの政治家としましても、この民族感情の上に外交、政治をとらざるを得ないのだろうと思います。・・・私は政治の問題はよくわかりませんが、そこでこれはどうしても対日感情が悪いということを前提に置いて、海外同胞引揚げといういろいろの政策も、交渉も進めて行かねばならぬと思います。 
 それからフィリピンで気つきますことは、たとえばマニラの町のまん中にフオート・サンチャゴという要塞があります。昔スペイン時代の要塞です。そこなどにガイド、歩哨が案内してくれますが、そうするとやはり日本が占領当時――終戦のときだと思いますが、昭和二十年ごろ、憲兵隊に留置した者を拷問をやつた部屋とか、虐殺をやつた部屋をそのまま歴然と残しておぐのです。そうして五百メートルぐらいの広い牢屋ですが、穴が掘つてありまして、ここでつるし上げて、日本人がフイリピン人を殺してそうしてここへ死骸を積んでここに埋めた。そのお墓はここなんだとよく説明します。そうしてやはり昔の残虐的なところを日本人に理解させようとするわけです。また半面に、山の中におつたゲリラも、これもやはりフィリピンでは抗日の英雄というようなぐあいになつておりますので、やはり初めは抗日的な政策をとつたのだろうと思います。その薬があまりきき過ぎて、現在のようになつたのではないかと思います。そこで日比の関係が、われわれが考えるように、いくさが終つてお互いに理解の手を差延べておるという状況でないということを前提にして研究されることを希望いたします。
 ・・・そこで大体五百名の日本人をどうするかという問題ですが、出発前に私のところにも、いろいろ手紙なり、慰問品、医療品のようなもの、それから投降するものを託されまして、荷物になりましたので船で送つておいたのですが、そうしてモーンテンルパとか、そういうところに届けるものは届け終つてしまつたのです。たとえば、私の夫がレイテ島でなくなつたから、レイテ島に行つて手紙を埋めてくれとか、あるいは北部ルソンで戦死しておるから、そこにある土を持つて来てくれとか、あるいはミンダナオのどこでなくなつたはずであるから、その死骸を探して来てくれとか、それから室中から紙をまいてくれ、水をまいてくれ、そういうことを依頼されるのですが、これはまことに情においては切々たるもので、人間のとうとい感情でありますが、これは冒頭に申し上げましたように、フィリピンの対日感情と、治安の状況をまだ御理解にならぬからだろうと思います。大体においてマニラの町も、日本人であるということがわかつたならばめんどうです。いわんや、そこから外に出るということは、日本人としてはきわめて危険で、だれも行つた者はない。いわんやレイテ島、北部ルソン島なんかの古職場にはとても行けません。それからまた日本人の無名戰士の墓というものもありません。山下、本間さんのお墓も掘られて内地に運ばれておるという話です。曹洞宗の管長さんからも、日本の仏教徒のために、経文のりつぱなのを届けられて、これをマニラの町に埋めて、そうして四十七万の英霊のかわりにマニラの土を持つて来てくれという話もありましたが、それをいろいろ外務省やマニラの市長と相談してみますと、やはり感情としては、まるで受付けないのです。まだそういうことをやるほどに日比の空気が溶け合つておりません。もしそういうことを作為的にやつた場合には、フィリピン人は墓を掘り返したり、墓地をこわしたりするという危険があるから、それはしばらく時期を待つてくれというのであります。

○神保参考人
 賠償の問題に対するフイリピン人の感じは、政府の自由党と在野のナシヨナリスタ党を通じて、やはりともに強硬だと思いました。これは民族感情として強く出るのだろうと思います。それでだんだん交渉した結果八十億というような数字は世界の情勢に合わないのだということは、民衆もその後だんだんわかりかけて来たのだろうと思います。そこで今交渉を進行中でないかと思います。

- 参 - 外務委員会 -  
昭和32年02月19日
○国務大臣(岸信介君)
・・・今回新聞に出ております、参議院議員の小西英雄君が団長となって十数名の者がいわゆる親善使節、親善使節と申しますけれども、これは言うまでもなく政府の別に公的な親善使節ではなしに、民間的なものでありましてこれはマニラの副市長ロセス氏の招聘に基いて、経費の全額を向うで保証するという形で招待によって渡航がなされたものでありますが、そのうちに一人元憲兵であった柳瀬氏が加わっておりましてこれが向うで新聞に取り上げられ、その他のことで問題を起したわけであります。御承知のように今日の旅券の発給する場合におきまして申請書には軍歴を書くということの何がございませんので、柳瀬氏も軍歴のことは一つも書いてありませんで、従って外務省がこの旅券を出すときには、柳瀬氏がそういう元憲兵であったという事実は実は知らなかったわけなのであります。しかしこの一行が向うへ参りまして、柳瀬氏が憲兵であったということが新聞に掲げられ、また一部に取り上げられまして、相当に問題が起った。もっとも柳瀬氏は今の上院議長のロドリゲス氏とは特別の関係が個人的にある人であります。いろいろこれらの人々が仲介に立って柳瀬氏を日本へ早く帰したらよかろうということで、柳瀬君は一行よりも先に帰って参りました。それから最近に小西参議院議員も帰って参りまして、当時の事情を私は小西議員からも聞いたわけでありますが、日本の新聞に報ぜられたほど現地では大きく取り上げられたわけではなかったようであります。しかし戦争の当時の日本憲兵に対するフィリピンの大衆の国民感情というものは、まだ全然拭い去られたというわけではございませんので、このことが国民の大衆の一部に当時の忌まわしい記憶を呼び起したりして、せっかく日比の間の感情がそういうふうに好転していっている際に、こういうたとえ小さいことであっても起ったということは私遺憾であると思います。


Ⅱ桑港編
8 7日午前 第6回全体会議
 シリア・サウジアラビヤ・ヴェネズエラ・ウルグァイ、ホンデュラス・ニカラガ・カナダ・インドネシア・フィリピン・ルクセンブルグ・イラン・ペルー・ブラジル・グァテマラ14国代表の意見開陳が行なわれた。なべて条約案を支持した。・・・
 フィリピン代表は、抽象的な原則論に走らず平和の具体的な困難な問題と取りくまねばならぬ。フィリピンは日本の占領から言語に絶する損害をうけた。が、フィリピンはあわれみを求めるのでなく Justice を求める。フィリピンの対日態度は感情に影響されるところないとは申さぬが objective な態度をとるよう努力してきた。フィリピンの戦後の対日政策は、(1)日本が将来フィリピンその他の諸国に対して脅威とならないこと、(2)日本がフィリピンその他の国に公正な賠償を支払うこと、(3)民主的・非軍国主義的日本と平和維持のため協力することの三つである。この政策からみてフィリピン政府は条約がある点では公正にして必要をつくしていないことを指摘せざるをえない。戦争状態の終了だけを目的とするならこれでよいかもしれないが日本のような大人口をよううし長い歴史と伝統をもち産業・軍事の潜在力をもつ国と平和条約を結ぶのは重大な政治的行動である。フィリピン政府は日本の民主化を継続―日本の民主化が完成したとは信じられない、次代の日本人に期待をかけなければならない―するため日本を援助する措置が講じられるよう希望した。条約にはそういう規定が設けられていないが、日本が自由世界との接触を拡大してその民主的制度を発展させるよう希望する。日本の再軍備にたい制限を設けない条約は平和条約として唯一の例外であろう。また、憲法で軍備を放棄した日本に自己防衛のため軍備をもたせようとしているのは歴史のアイロニーである。現情勢のもとでは已むをえないが、そうでなければフィリピンは断じてこれを認めないであろう。条約は日本とフィリピンがともに参加する集団的安全保障取極めを予想しているので、フィリピンの懸念は安心させられる。最近結ばれた米比相互防衛条約は日本からの攻撃にたいし共同行動にでることを規定している。この二つがあるので、条約の安全保障に関する規程を受諾する。フィリピンは条約第14条(a)の賠償条項に満足しない。同条が連合国に与えている利益は大国だけが享受できるもので日本の占領から損害を受けた小国―賠償請求国―はなんの利益もえない性質のものである。条約は小国の請求権については寛大な条約であり大国の請求権については懲罰的条約と評してよからおう。故意による損害の賠償の原則は個人間におけると同よう国家間においても放棄するわけにはいかない。フィリピンは懲罰的賠償を請求しない。しかし、日本の賠償を役務に限定することには賛成できない。日本の経済は逐年伸張しつつある。賠償を役務賠償に限ると往時のように他のアジア諸国は経済的に日本に従属せざるをえなくなる恐れがある。フィリピンは第14条(a)に規定された以外の方法による賠償の交渉を行う権利を留保する。条約はフィリピンにとって完全に受諾しうるものではないが会議招請国の支援と日本の協力とによって条約の欠陥を軽少に合理的な補足措置によって条約規定をより衡平・正義に適うものたらしめるよう希望する。アジアは、今、自由と集団的安全保障にむかって動きつつある。日本はアジアの覇主たらんと志してアジアと世界の自由の意思の前についえた。日本がこの条約の提供する機会を利用して自由の道を歩むならば、その野望をすててアジアおよび世界で成就さるべき事業に加担するならば、この条約に盛られた希望は達成されることになるとのべ「日本国民にフィリピン国民に代ってこう申あげたい。あなたがたはわたくしどもに重大な損害を与えられた。言葉でそれを償うことはできないしあなたがたのもっておられる金や富をもってしてもこれを償うことはできない。しかし運命はわたくしどもに隣人としていっしょに生きねばならない、また隣人として平和に生きねばならないと命じた。アジアには天の下に人類は同胞という諺がある。しかし同胞とは心の問題であって開花するにはまず心が清純でなければならない。相互の間に憎悪のきばが永遠に追放されるよう希望するが、それがためにはわれわれが許しと友情の手をさしのべる前にあなたがたから精神的悔悟と再生の証拠を示してもらわねばならない」と結んだ(注)
(注)ロムロ代表の演説はその内容といいその態度といいフィリピンの対日怨恨と不信の深さをまざまざ感じさせるもので会議を通じ日本人に一番深刻な痛味を感じさしたものであった

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

付録39
9月4日総理・ロムロ比代表会談録
昭和26年9月4日
松井秘書官

 吉田総理大臣よりまず「今次戦争中においてフィリピンに対して与えた被害はまことに遺憾であり、日本政府としてはできるだけフィリピンのクレームを満足させたいと考えている。ただ日本経済は連合国の援助によってようやく復興の途上にあるがなお前途は長く賠償問題は容易ではない。しかし日本としては条約第14条の義務は忠実にこれを履行する用意がある。」と述べたところ、ロムロ外相は「実はフィリピンにおいては賠償問題は非常にやかましい問題となっている、国民も今次条約の賠償条項はきわめて不満足である。反対党は遂に平和条約の全権団に全権を送ることを拒否するに至った。昨日の入電によればマニラ市において『条約反対』『米英のかいらいとなるな』『国民的名誉と自尊心をすみやかに回復すべし』等のポスターを立ててパレードが行われた旨の情報が入っている。自分は此の平和条約は調印すべしとの議論をしているが自分の立場の困難なことは御推察に難くないであろう。正直に申し上げれば、自分は戦争中、マックアーサー元帥とともにバターン、コレギドールを経て米国に逃れた。マニラの私宅は焼失し、家族は苦難の道を歩んだ、その自分が国民の意思に反してこの条約を支持せんとしているのである。自分の立場は解してくれるであろう。貴大臣も日本国民の声を代表しておられるであろう。私もフィリピン国民の声を代表せざるを得ない。そこでおたずね致し度いのはいつワシントンに出発せられるか、ワシントンに出発される前に米国を交えず直接に会見し、賠償支払の意思のある旨の確約を得たい。」と述べた。吉田総理大臣は「自分は条約調印後、直ちに日本に帰りたい。しかし条約第14条に基く会談は直ちに、又どこの場所においても開始する用意がある。東京でも良い。貴国においてでも良い。」と答えた。
 続いてロムロ外相は「ダレス特使との会談も全部賠償の問題についてであった。マッカーサー元帥も日本人は賠償を支払う意思がある。日比間に必ず満足の行くような双務協定ができることを信ずる旨の発言があった。どうか日本政府の誠意を示し直ちに階段を開始するようにしてほしい。」と述べた。
(備考)この会談はインドネシアの場合に比しロムロ代表の発言きわめてアグレシーヴであり賠償に対する関心の度合の強烈さを痛感した。しかし条約の調印をする意思は明瞭にしていたことは特筆するに値しよう。

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

以下は佐々木靖「コルディリェラの日系人」(帝京大学短期大学紀要第32号 2012年)より
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf

アルツーロ・ハギオ(萩尾行利)のケース6
 ユキトシは、熊本県出身の父と北ダバオ出身の母により1926年にダバオ州で生まれた。・・・やがて米比軍の捕虜になり日本人強制収用所に入れられ、敗戦を迎える。収容所では日比混血児であることからあまり警戒心を持たれなかったようで、9月のある日、米兵の目を盗んで脱走した。2か月間ジャングルに潜伏したのち自宅に帰ろうとする途中、親しいフィリピン人に出会った。この友人は、ユキトシの2人の弟がゲリラに射殺され、母もそれがショックで翌日亡くなったことを告げ、今自宅に帰ったら弟たちと同じように殺されると教えてくれた。悲しみとともに身の危険を悟ったユキトシはダバオ湾に浮かぶサマル島に逃げた。この島で彼は日系人であることを隠し、タオスグ族の漁師の家で養子のような形で家業を手伝った。この漁師の夫妻には子どもがなかった。この時に用いた名前が「アルツーロ・ハギオ」である。ここで土着のサマル族の女性と結婚した。やがて可愛がってくれた漁師夫妻が亡くなり、8年後の1953年に妻をともないダバオに戻った。しかし故郷には帰ることができず、隣町に住むことにした。ハギオ夫妻は4人の子どもを持ったが、子どもには母方の姓を名乗らせることにした。日本や日本人とまったく無縁の生活を送っていたアルツールがその後日本人と接触するのは1970年代になってからである。(p15・16)

サルバシオン・モレノ(川上美保子)のケース7
 ビサヤ諸島パナイ島のイロイロ市に住むサルバシオン・モレノは、日本人の両親を持つ残留孤児である。・・・美保子と妹は地元のビダル・モレノという農夫に拾われた。ビダルは「サルバシオン」という名を美保子に与え、2人を養子にした。名前は変えていてもサルバシオンが日本人孤児であることは知れ渡っており、地元の小学校に進学後、「お前はフィリピン人じゃない」「日本に帰れ」「ハポン(日本人)、ハポン」と罵声を浴びせられたが、耐えた。別のフィリピン人農夫に拾われた兄は、この罵声に我慢がならず、小学校を2年で中退した。兄と美保子は拾われた後に再会した。初めは、日本名で呼び合っていたが、周囲の反日感情に出会うなかで、フィリピン名のニックネームで呼び合うようになったという。妹は14歳で病死した。美保子はその後、大学に進学し卒業している。(p16・17)

北ルソンの日系人
ジャニー・ダビット(長岡良男)のケース9
 ヨシオの父は福岡県出身の「ベンゲット移民」10であった。・・・キアンガンで防空壕に隠れ住んでいたとき、ゲリラ2人がこの防空壕に入ってきた。家族は全員がイロカノ語を話せたのでいったんそのゲリラは立ち去った。しかし翌朝、その防空壕目がけて砲弾が飛んできた。父と姉妹4人は直撃弾を浴びて即死、母も3日後に死亡した。生後8か月だった末の妹は無傷だったが、やがて栄養失調状態で死亡した。同行の家族7人、つまり全員を一度に失ったのである。自身も大けがをした14歳のヨシオは、負傷した右足を引きずりながら逃げた。途中でゲリラに遭遇したが、イロカノ語とタガログ語で日系人であることを隠し通した。ヨシオは母親の姓を使い、ジャニー・ダビットと名乗ることで一命を取り留め、バヨンボンで米軍病院に運ばれた。その後2年間闘病生活を送った。退院後は生きるためにできることは何でもやったという。靴磨き、ホテルのボーイ、大工の見習い。やがて車の免許を取りジープニーの運転手になったジャニーは1960年に結婚したが、妻にも自分の日本人名はおろか日系人であることすら明かさなかった。ゲリラに「ジャニー・ダビット」と名乗ってからは日本語を口にすること、日系人であることを封じてきたのである。ジャニーが妻に自らの名を「ヨシオ・ナガオカ」と名乗り、日系人であることを明かしたのはシスター海野に出会った翌年の1973年になってからである。戦前、進学のため日本に帰っていた長兄から手紙が届いたのである。兄が親からもらった名前で生きていることが分かったのを機に、ジャニーはヨシオ・ナガオカに戻った。(p18・19)

ジュリエッタ・ロカノ(東地初子)のケース11
 ハツコの父は和歌山出身である。母はフィリピン人で、1941年4月に生まれた。・・・
 終戦後、家に帰ってくると壁は破壊され、土地は没収され、他の場所に移動せざるをえなかった。ハツコの悲劇はここから始まる。次兄が現地召集され模範的な通訳として憲兵隊に仕えていたのである。次兄は、46年2月に戦犯として山下大将とともにラグナ州・ロスバニョスで処刑された。ハツコは日本人の子どもで、悪名高い「ケンペイタイ」の妹であったのである。
 周囲からは、「兄が憲兵隊で人殺しをした。お前は、その妹だ!」と罵られ、「学校では同級生と遊んでもらえず、家に帰っても周囲の大人からも、人殺しの妹だ、と軽蔑され、敵視されました。一緒に遊んでくれる友達は、誰もいませんでした。いつも目立たないように片隅でおびえながら小さくなっている」といったいじめを受ける。いじめは小学校時代が特にひどく、母方の姓を名乗り、別の場所に引っ越さざるを得なかった。(p19・20)

シスター海野12
・・・マニラで活動していたシスターは1972年に静養のため避暑地バギオへ向かう。偶然にこの地に日本人の子孫がいることを知ったシスターは、彼らを探し出すことを心に決めバギオやその周辺のあちこちを歩き回ったのであるが、日系人を知る者はほとんどいなかった。最初の日系人に出会うまでに3か月を要したという。日系人たちはその姿を隠していたのである。しかしながら、シスターの献身的な働きによって、翌73年に28人の日系2世がバギオで終戦後初めて集まった。(p21)

カタリナ・プーカイ(大久保さだえ)のケース13
 サダエの父は1894年に広島県に生まれた。・・・地元生まれの母は子どもたちに「いじめられても逃げたりしないで。まっすぐに歩きなさい」と教えた。終戦時に15歳であったサダエは「オオクボ」の姓を使い続けていたが、そのために誹謗の対象になった。周囲からは軽蔑の意味をこめて「ハポン(日本人)!ハポン!」といじめられた。「家に石が投げ込まれたりしたこともあります。ドアや窓を閉めたまま、外へも行かずじっと家の中に隠れたりもしました。妹もただ黙って泣いていました」(p22)

ハマダ兄弟のケース14
 北ルソン・バギオのハマダ兄弟は成功した兄弟である。鹿児島出身の父親はベンゲット・ロードの工事に従事し、工事終了後もバギオに残った。製材所で働いていた1912年に労災事故に遭い32歳で死亡した。この時バギオのイバロイ族の母親のもとに残されたのが1歳の長男オセオと生後1か月の二男シナイである。当然のことながら、父親の記憶もないし日本語を習ったこともない。戦争が始まっても、日本語ができなかったため日本軍に徴用されることはなかった。兄弟はフィリピンの公立学校で教育を受けたため、自分はフィリピン人であると考え、対日協力の意思はなかったという。しかし戦後、日系人であるという理由でマニラのモンテンルパ強制収容所に6か月間収容された。その後バギオに戻って来るのであるが、「当時もし日本語ができていたら、今ごろ首はなかっただろう」と言う。

6天野洋一『ダバオ国クオの末裔たち:フィリピン日系棄民』1990、風媒社及び大野俊『ハポン:フィリピン日系人の長い戦後』1991、第三書館(pp.12-27)
7大野俊『ハポン』(pp.122-130)
9大野俊『ハポン』(pp.75-78)及び鴨野守『バギオの虹:シスター海野とフィリピン日系人の100年』2003、アートヴィレッジ(pp.51-58)11鴨野守『バギオの虹』(pp.58-68)
12大野俊『ハポン』(pp.78-87)、鴨野守『バギオの虹』(第3章)及び“MEMORIAL:TheJapaneseintheConstructionofKennonRoad”1983,PublicationCommitteeFilipinoJapaneseFriendshipAssociationofNorthernLuzon(pp.58-60)
13鴨野守『バギオの虹』(pp.86-90)
14大野俊『ハポン』(pp.215-222)及び“MEMORIAL”(pp.22-25)

東京財団研究報告書 2005-6
「フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた 政策のあり方に関する研究」より抜粋

終戦後、投降した日本軍人は米軍の収容所に収容された。8月15日の敗戦後の投降者はルソン島6100人ミンダナオ・ビサヤ地区5万2,910人、計11万4,010人といわれる24)。山下奉文大将とマッカーサーの間で交わされた停戦協定文中で、一般邦人は軍人軍属と同様に取り扱われることが明記され、一般邦人も軍人と前後して米軍の収容所に収容された。収容所はフィリピン全土に19箇所(ルソン島17、ミンダナオ島1、レイテ島1)あった。最大規模は、ラグナ湖周辺のカンルバン収容所(最大収容人員5万人)、次いでミンダナオのダリアオン収容所(同4万人)、レイテ島のタクロバン収容所(3万人)であった。このほか仮収容所が全国に34箇所(ルソン島18、ミンダナオ島8、ビサヤ諸島8)あった。収容所では1000人以上の日本人が死亡したと伝えられる。収容所における処遇の基準は次の通りであった。24)①日本人移民および日本人を両親とする子どもたちは全員強制送還②フィリピン人を母とする15歳以上の男子は父親とともに強制送還③フィリピン人を母とする15歳以上の女子は日本に行くこともフィリピンに残ることも選択可④フィリピン人を母とする15歳未満の子は全員フィリピンに残る(日本人父が連れて帰る場合は別)(p31)

戦後、日本人の財産はフィリピン政府に没収された。残留した2世は、フィリピン人の日本人に対する憎悪を一身に受け、迫害、差別の対象となった。天野洋一『ダバオ国の末裔たちフィリピン日系棄民』(風媒社、1990年)には、「お前、日本人だろう、日本人のくせになぜ日本に帰らない。ここはお前なんかのいるところではない」と銃でこづかれた、あるいは惨敗兵(略奪を業とする元抗日ゲリラ)に襲われ、「合いの子」であることをひたすら訴えて命拾いしたなどの残留2世の体験談が紹介されている。年頃の混血2世女性は、フィリピン人や中国人と結婚することで迫害をまぬがれ、生活手段を得た。夫を失った1世の妻の多くが、生活のため、フィリピン人男性と再婚した。2世は、日本人父の姓を、母の姓または母の再婚相手(継父)の姓にかえ、ファーストネームもフィリピン名(多くは洗礼名)にかえて育てられた。戦中生まれで日本人父の記憶のない2世の場合、父親が日本人であることを知らずに、継父を本当の父と思って大きくなったケースもあった。継父については「よくしてくれた」というケースと、「いじめられた」いうケースがほぼ半々であった。後者は「継父は自分と他の子(母親と継父との間に生まれた弟妹)とを区別し、自分だけにつらくあたった/学校に行かせてもらえなかった」などである。学校に通うことができた2世は、級友から「ハポンハポン」「ハポンパタイ」(ハポンは日本人、パタイは死ねの意)など、いじめられたり、からかわれたりした経験を持つ者が多い。(p32・33)

8)フクダハツエ―1944年(昭和19年)生まれダバオ在住
・・・私は1944年に生まれましたが、その後すぐに、父はいなくなってしまいました。戦争が終わった頃です。父はいなくなる前に、自分はもうフィリピンにいられなくなった、と母に言い、私を一緒に連れて行くと言ったそうです。母はそれに賛成しましたが、祖母が反対しました。その後、父は再度私を連れて行こうとしましたが、祖母の反対で連れて行けなかったそうです。近所には私のほかに日本人の子はいませんでした。「ハポン、ハポン」と皆に呼ばれ、私は意味がわからず、そのたびに泣いていました。私は、母の最初の夫の姓を使っていました。日本人の姓を使うのは、当時危険だったからだそうです。私が8歳のとき、近所の人が日本人の子はどれかと聞き、母は、私がそうだと言いました。そのとき初めて私は自分が日本人の子であることを認識しました。(p41・42)

10)トウゲエミコ―1934年(昭和9年)生まれマニラ在住
日本軍が降伏したと聞き、私たちは山から降りました。両親ともに亡くした私たち4人はそれぞれ別々に、私たちをかわいそうに思った近所の人にひきとられました。私はデグスマンという夫婦にひきとられ、すぐにルソン島北のヌエバエシハに行きました。異母姉も一緒でした。その夫妻が「フィリピン人は日本人に対して怒っているので日本人の姓は使わないほうがいい。そうすればあなたの目はあまりつりあがっていないのでわからない」というので私はFernandesという姓を使うことにしました。(p43・44)

13)ハマカワヒコイチ―1942年(昭和17年)生まれリサール州在住
・・・私はイロイロ市では爆撃の音を聞いたことを覚えています。私たち家族は父とわかれた後、イロイロ市から、母の実家のあるミヤグアオのアグダム村に行き、戦争が終わるまでそこにいて、戦後もそこに住み着きました。そこには母方の親戚全員がいました。私はミヤグアオのフィリピン小学校にあがりました。学校では日本名は使っていなかったので、学校にあがる前に母が私たちをカトリックの洗礼を受けさせたのだと思います。私は近所の子どもや学校の他の子どもたちから「日本人の子だ」といわれてからかわれました。私は泣きました。(p48)

14)フジカワニカノール―1927年(昭和2年)生まれダバオ在住
・・・私は戦後もフジカワという姓をずっと使ってきました。危険だから変えたほうがいい、と言われましたが、変えませんでした。私の子供の出生証明書の父の氏名欄はニカノールフジカワです(p49・50)

船尾修「フィリピン残留日本人」 より抜粋

長岡理三さんを父に持つ2世の良男さんは山中での逃避行の際、両親と乳飲み子を含む妹5人を相次いで亡くした。埋葬もできず遺体をそのままにして逃げたのが一生の悔いと いう。戦後は日本人に対する迫害から身を守るためにダビッド・ジャニーという母方のフィリピン名に名前を変えて生き延びた。 バギオ(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p8)

高血圧で寝たきりのエメテリア・ファビアン・ゴンザレスさんは戦前の1934年生まれであるが、残留日本人2世ではなく3世である。祖父は大工をしていた神奈川県出身の加藤関蔵でバギオ大聖堂の建設にも携わったという。エメテリアさんの叔父は戦後になってから、日本人の子孫だという理由で殺害された。 ラ・トリニダッド(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p10)

1936年生まれの2世ゲルマン・オオウチ・ベルンさんはこれま で一度も日本語を使ったことがない。福島県出身の父オオウチ・ イクオは家の中でも日本語は話さなかったからだ。そのせいか あまり日本人だという自覚はない。戦後は反日感情がすさまじ く、日本人であることがバレたら命の保証はなかったので、自分 の祖先は中国人だと偽って暮らしていた。 ナガ(南カマリネ州)ルソン島 /2014(p12)

永井均「フィリピンと東京裁判―代表検事の検察活動を中心として―」
(史苑第57巻第2号 1997年3月)

・・・(1945年)一一月一七日にフィリピン弁護士会全国評議会議長のアントニオ・アラネタがハリー・トルーマン米大統領に以下の書き出しで始まる書簡を送付したのである。
 フィリピン国民は、日本国天皇ならびにその共犯者の多くが戦争犯罪人として裁判および処罰に付されることから依然として免れていることにつき、重大な関心をもってこれを見まもっています。フィリピン国民は、山下泰文一味だけでなく、日本の侵略行動にかかわった他のすべての指導者を処罰しなければならないと考えています。これを行なわないならば、これらの犯罪者は、引きつづき極東の平和、ひいては世界の平和にとって脅威となるでしょう。
 このようにアラネタは日本の戦争指導者の処罰に対する国内の関心の高さと処罰の必要性を訴えた。とりわけ裕仁天皇については、その裁可によって戦争が遂行されたことを大日本帝国憲法の各条文を引用しながら例証し、「たとえ政府の最高位者としての天皇の地位を根拠とするにせよ、免罪の嘆願をだすことを約束するわけにはいきません」として、地位を理由とする免訴を拒否した。(p44・45)

(東京裁判の検事である)ペドロ・ロペスは一九〇六年一月一八日にセブ市に生れた。(p47)
一九四六年二月末、ロペスはUP記者に対して、東京での検察活動に加わること、来週にもワシントン経由で同地に向かう予定であることを打ち明け、さらに次の如く心境を披瀝した。
 日本の戦争犯罪人を起訴する検事の一人に自分が指名されたことは、フィリピンの被害が認知された証拠である。・・・私はたいへん怒りを感じている。とういうのも、フィリピンで日本人が罪のない一般市民に対しておこなった恐ろしい犯罪の数々を個人的に目撃したからである。(p49)

ところで、ロペス自身はこの(天皇訴追)問題についてどのような見解を有していたのだろうか。ここでは『マニラ・タイムズ』の記事に着目したい。・・・記事は『ロペス検事はマッカーサー元帥に対し、天皇を起訴するための証拠は十分揃っていると伝えたことを公表した」と紹介している。ここから、ロペスが―時期については不明であるが―マッカーサーに天皇を被告リストに加えるよう働きかけていたこと、そしてその試みが挫折したことが確認できる。(p52)

判決当時、フィリピンの国民は東京裁判をどのように見て居ただろうか。判決に関するニュースは新聞各紙によってフィリピン国民にももたらされた。『マニラ・タイムズ』は一一月一三日付記事のように判決内容と量刑、そして日本人の反応を淡々と報じる新聞がある一方で、突っ込んだ論評を加える報道もあった。
 たとえば『マニラ・クロニクル』一三日付の社説は東京裁判が「商社の裁き」であるという東条の主張に同意しながらも、「勝者は米国でもロシアでも中国でもない。勝者は自由であり、正義であり、人類である」と付け加え、裁判の正当性を主張した。また一二日付「マニラ・ブレティン』は社説で次のように主張していた。
 東条は彼が犯した罪は戦争に負けたことだけにあると考えている、そして彼はそのために後悔しているのだ、しかし日本人は彼と同じような考え方をしているのだろうか、戦争を計画し実行することは真に極刑に値するということが裁判の背後にある思想だということが人々の心に印象づけられるにはまだ徹底を欠くうらみがある。
 一三日付『イヴニング・クロニクル』の社説は以下のようなものである。
 ヒトラー、ムッソリーニが死に東条が処刑されても他のものが彼らに代ってその地位にすわらないとの保障にはならない。侵略戦争を行う能力は一国の指導者にあるよりもその国の国民性と彼らが住む環境の中に発見されるものだ。
 一五日付『バゴン・ブハイ』紙でも、日本は本質的に軍国主義的な国家であり、将来、再び小国、あるいは弱小国を犠牲にして拡張をはかるだろうとの危惧が表明されている。
 この他、判決よりも厳罰を要求し、あるいは裁判に内在する矛盾点を指摘する報道も見受けられた。フィリピン代表のデルフィン・ハラニーニャ判事は判決とは別に「同意意見書 Concurring Opinion」を作成、裁判所に提出し、一部の被告らの量刑が「余りに寛大すぎる」と判決を批判していたが、この意見書は『マニラ・クロニクル』紙のコラムニスト、オラシオ・ボロメオによって取り上げられるところとなった。ボロメオはハラニーニャの見解に賛意を表するとともに、すべての被告は「二度」絞首刑に処せられるべきだと強硬に主張した。さらに続けて、裁判は「表向きの頭首のために開かれたちゃちな替え玉裁判」であり、裕仁天皇も被告リストに加えられるべきだった、との不満も述べた(一一月一三日付)。(p59・60)

いまや執行は時間の問題となった。こうした状況下、広田弘毅と土肥原賢二の二人の死刑囚を含む七人の被告の弁護人は、二九日に画集国連邦最高裁判所に訴願を提出した。この動きに対してフィリピンでは、三〇日の『イヴニング・クロニクル』社説が「土肥原・広田の両戦犯は即刻処刑すべきである」と論じたように、即座に反対論が出た。さらに一二月六日に連邦最高裁が訴願を受理すると、マニラ市内の各紙は一斉にこれに反発した。反論の口火を切ったのはほかならぬロペス検事であった。翌日の『マニラ・タイムズ』はいち早くロペス検事の見解を報じている。ロペスは「国際法廷は一国の裁判所によって再審されるべきものではない」と不快感を隠さなかった。他の各紙もロペス同様、連邦最高裁の判断に疑問を呈した。
 一二月二〇日に連邦最高裁が弁護団の訴願を却下すると、フィリピンの各紙は「さぁ彼らを絞首刑にせよ」(『マニラ・ブレティン』一二月二二日)、「いまこそ彼らは死ななければならない」(『マニラ・クロニクル』一二月二二日)など死刑執行を促す見解を表明した。(p60・61)

そして裁判を終えたいま、ロペスは改めて次のように振り返るのである。
 東条、武藤、そして日本のすべての戦争犯罪人をたとえ一千回絞首刑に処したとしても、死亡した我が国民はもはや生き返らないし、無惨に捩じれてしまった生活は真っすぐにならない、徹底的に破壊された家屋さえも元通りになりはしないのである。・・・彼らの犯した過ちは決して取り消されることはない。・・・だが、もし東京裁判が打ち立てた歴史的な先例が、将来、戦争仕掛人の動機を躊躇さえる要因になれば、我々が参加したすべての時間は意味を持つことになるだろう。
 ロペスは、判決は寛大であり、「すべての被告らは極刑に処されるべきだった」とさえ考えていた。(p61)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1427&file_id=18&file_no=1

 山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見え出しました。何か大声で叫んでいます。四、五十人の多人数です。近づくにつれて群衆から石が飛んできましたが、軍使は一切の抵抗をするなとの注意を繰り返しました。
 ある地点に来て武装解除の指示をうけ、その後は手を頭に乗せて黙々と歩くだけで、もちろん何の抵抗もできません。いや、そんな気力すら失っていたのでしょう。投石や罵倒を浴びせる現地人の気持ちも分かりますが、戦争に負け、多くの戦友を失い、しかも捕虜となっている我が身が無性に情けなく涙がこぼれました。(p141)http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_136_1.pdf

 収容所に向かう途中では、現地人が我々に「日本のバカヤロー!」と石を投げるのです。私はマラリアの熱が出ている中で歩いているのですが、少しずつ隊列から後退し、ビリになって石を余計投げられたという訳です。(p123・124)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_120_1.pdf

第二回の捜索隊に捕まりました時、アメリカ兵が六人、日本人捕虜二人(説得役)、フィリピン兵が十人ぐらい、道案内の原住民が数人の編成の捜索隊でした。・・・途中山の中を警備兵は威嚇射撃をしながら下山しますので、不思議に思っておりましたところ、威嚇射撃の目的は、私達敗残兵を狙撃する者から守るためだと聞いて有難く思いました。収容所に連行され、九月下旬頃と思いますが武装解除されました。そしてもう逃げ回る心配もなくなった、 原住民の家に食料品の盗みにも行かずにすむと「ほっ」としました。(p625・626)

 昭和二十一年十一月、復員が出来るとのことで、月末にマニラ港に送られました。汽車(無蓋車)が市内を通過中に徐行した時、ゴミや残飯を投げ入れられましたが、その時は護衛兵が拳銃を向けるとこの嫌がらせは止まりました。(p474・475)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_471_1.pdf

 放送に従うために全陣地を整理してバニオ街に集結し、武装解除され、指揮官に指示を受け、マニラに行くためトロッコを大きくしたような屋根のない車に乗せられ駅を出発しました。途中で住民の反抗により石、木材等を投げつけられて大変危険でした。時間が経過してマニラに到着、下車して比島軍の引率で徒歩で現地に到着しました。(p122)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_118_1.pdf

「山を下りてからは無蓋車でマニラに運ばれました。戦争中の日本軍は、フィリピン人をかなり痛めつけたんですが、その仕返しが、戦争に敗れて捕虜となり収容所に運ばれるわたしたちにも向けられましてねえ。汽車が街の中にさしかかると、『日本ドロボウ、日本ドロボウ』と叫びながら、大きな石を汽車めがけて投げつけるんです。それに当たって死ぬ人は、敗戦のショックも重なって発狂する人もおりました。汽車を停めると住民に襲われるおそれがあるので走りっぱなしです。水は飲めないし、便所がないので排泄は貨車の隅のほうでしました。四隅に憲兵が立って見ているけど、仕方がない。
(広田和子「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」p215・216)

 昭和二十年十一月、「ダバオに向いて行進せよ」とのことで、トラックに乗ったときもありましたが、徒歩行進では、現住民の「襲撃」が要注意でした。今も忘れぬ罵倒の声「裕仁パタイ」「山下パタイ」と天皇陛下や山下奉文大将の首切りの真似をします。そして各人に対しては「泥棒!」の罵声を女子や子供までが叫んでいました。(p283)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_279_1.pdf

 昭和二十年九月二十五日、ルソン島北部のアバリに上陸しました。そして仮収容所に向かって行軍中、原住民から「バカヤロウ」「ドロボー」と罵られ、さらに石なども投げ込まれ、敗戦者の惨めさと日本軍のルソン島での行動が思い浮びました。(p472)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
昭和二十一年十二月、待望の帰国ニュース。万歳。無蓋車でマニラの港へ行進中、現地人の心ない人が我々に石を投げ「馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」とののしっていました。すべて隠忍自重。堪え難きを堪えて無事佐世保港へ帰国、上陸復員しました。(p312)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_307_1.pdf