「54年問題」①

【1】

嵐の「4.24」 断じて忘るな!学会精神を

随筆 新・人間革命 79より抜粋

1999年4月27日掲載

1979年(昭和54年)の4月24日―。

 この日、私は、19年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。

 全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。

 その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。

 なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。

 正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じの通りである。

 御聖訓には、随所に説かれている。

「法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける」と(趣旨、御書140㌻等)。

 広宣流布の闘争のゆえに、悪口罵詈されるのが、真の法華経の行者といえるのである。

さらに「佐渡御書」には、「賢人・聖人は罵詈して試みるものである」(通解、同958㌻)と。

 真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。


 畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。

 心痛に、夜も眠れなかった。

 私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。   

 しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。

 それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。

 坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。

 私は苦悩した。

 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛(いじ)められることだけは、防がねばならない。

 戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。

 民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。

 私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。

 また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。


 ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。

「私が辞めれば、事態は収まるんだな」

 沈痛な空気が流れた。

 やがて、誰かが口を開いた。

「時の流れは逆らえません」

 沈黙が凍りついた。

 わが胸に、痛みが走った。

 ――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。

 実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。

 また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。

 しかし、時流とはなんだ!

 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。

 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。

 宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。

 それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。

 情けなく、また、私はあきれ果てた。

 戸田会長は、遺言された。

「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。

 この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。

 ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!


 そんな渦中の、4月12日、私は、中国の周恩来総理の夫人である鄧穎超(とうえいちょう)女史と、迎賓館でお会いした。

 その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。

「いけません!」

“人民の母”は笑みを消し、真剣な顔で言われた。

「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」

 生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。


 やがて、暗き4月24日を迎えた。火曜日であった。

 全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。

 しかし、新たな“七つの鐘”を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。

 大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。

 私は途中から会場に入った。

「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」

「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。

 皆、不安な顔であった。

「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。

 私は、厳然として言った。

「私は何も変わらない。恐れるな!

 私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。


 あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ

   夕闇せまりて 一人 歩むを


 これは、4月24日に記された日記帳の一首である。

 わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。

(「池田大作全集」第129巻所収)





【2】

昭和54年5月3日 師子となりて 我は一人征く

随筆 新・人間革命 80より抜粋

1999年5月1日掲載

1979年、すなわち昭和54年の5月3日――。

 間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記念する、第40回の本部総会が行われることになっていた。

 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。

 すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。

 尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。

 しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。

 午後2時から始まる総会の開会前であった。

 妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。

 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。

 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。

 ある幹部が後で言っていた。

「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」

 激怒した声が多々あった。

 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。

 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。

 私をどうこうではない。

 それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。

 婦人部の方が怒っていた。

「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。

 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。

「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。

 恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。

 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。

体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。

 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。

 仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

 私は思った。

宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし! これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。

 その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。

 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。

 この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。

 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。

 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。

 これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。

 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。

 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。

 それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。

 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。

「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」

 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。

 この3日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。

 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位20人の第6位に、私の名前が出ているというのであった。

 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。

「会長勇退」直後の5月3日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。

 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。

 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。

「現存する人物では、民間人の第1位です。

 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」

「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300㌻)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。

 誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。

 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。

「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。

 一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。

 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。

 神奈川の地は、世界に通じる港である。

 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。

 この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。

 5月5日のことである。

(「池田大作全集 第130巻所収」)




【3】

2004.10.28 各部代表者会議での先生のスピーチ

(抜粋)

愛する同志のために戦う!

私が、かつてしるした「正義」の揮毫について述べたい。

(=その場で墨痕鮮やかな「正義」の書が紹介された)

「正義」――この文字は、あの嵐の昭和54年(1979年)、第3代会長を勇退した直後の5月5日、神奈川文化会館でしたためたものである。

その2日前の5月3日、創価大学の体育館で本部総会が行われた。それが実質的な❝会長辞任の総会❞となったのである。

その陰には、嫉妬の宗門と結託した醜い反逆者たちのさまざまな陰謀があった。

しかし、どんな立場になろうとも、私は変わらない。正義は、どとまでいっても正義である。

世界の広宣流布を成し遂げていくのだ! 愛する同志のために戦いぬくのだ!

こう深く心に期した私は、総会の終了後、学会本部には戻らず、神奈川文化会館へ向かった。横浜の港から、洋々たる海を見ながら、世界広布の新たな指揮を執り始めたのである。

その神奈川文化会館で5月5日に書きしるしたのが、この「正義」の2文字であった。

脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」とつづったのである。

反逆した人間の末路は無残

恩師の戸田先生は「第3代会長を守れ! そうすれば、創価学会は盤石であり、広宣流布は必ずできる!」と遺言された。この厳命に背いた人間たちもいた。

そして、勇退から25年を経た今、反逆の輩は無残な末路を迎え、宗門は衰退の一途をたどっていることは、皆さんがご承知のとおりである。

私は勝った。正義の学会は、厳然と勝ったのである。(拍手)

全国の同志の皆さま方も、今日まで本当にまじめに、誠実に頑張ってくださった。

とくに私は、あまり日のあたらない、目立たないところで、広布のために、粘り強く努力してくださっている方々を心から誉め讃えたい。最大に賞讃の光をあてて差し上げたいのである。

こうした、懸命に陰で戦ってくださる方々のおかげで、学会は❝日本一の教団❞になったのである。❝世界的な学会❞になったのである。本当にありがとう!(拍手)

広宣流布を現実に前進させているのは、会員である。無冠の同志である。役職が高いから偉いわけではない。役職は言うなれば❝仮の姿❞にすぎない。大事なのは❝さあ戦おう!❞という本因の一念があるかどうかだ。この深き決意に立った同志たちが、なかんずく青年たちが、新しい勝利の歴史をつくったのである。それを絶対に忘れてはならない。

ともあれ、皆さんも地元に帰ったら、地域の同志の方々に、「いつも、ありがとうございます!」「いつまでもお元気で!」「ご健康を祈っています!」等と大いなる讃嘆と励ましを贈っていただきたい。

すべては後継者で決まる

きょうは大事な会合でもあり、日興上人の「原殿御返事」を拝しておきたい。

「原殿御返事」は、日興上人が、身延離山の前年に、原殿に与えられた書状である。これには、日興上人が身延離山を決意された事情と心境がくわしくしるされている。

御手紙を受け取った原殿は、邪師にたぶらかされた波木井実長の一族でありながら、正しい信心を持った人物とされる。明確ではないが、実長の子息のだれかをさしていると推測される。

日興上人は、この後継の信徒に、大切な手紙を送ったのである。

すべては、後継者で決まる。青年が育っかどうかにかかっている。

ゆえに、青年を下に見て、自分は組織の上にあぐらをかき、大変なことは全部、青年にやらせる。そんな幹部がいれば、とんでもないことだ。いちばん大切なのは、青年なのである。

日蓮大聖人に、お仕えした日興上人もまた青年であった。

日興上人は、数え13歳の時に、大聖人の弟子となり、伊豆流罪、佐渡流罪にお供し、大聖人が御入滅になられるまで常随給仕されたのである。日興上人は、原殿に、こう語られる。

「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733㌻、通解)

大聖人は、御自身の一切を日興上人に付嘱された。そして日興上人、ただお一人が、大聖人の「正義」を守りぬかれたのである。

反対に、五老僧は、師匠である大聖人に背いていった。権力の迫害を恐れた臆病のゆえであり、日興上人への嫉妬のゆえであった。自身の生命に巣くう名誉欲や慢心のゆえであった。

五老僧――言うなれば大聖人門下の最高幹部である。この最高幹部が大聖人の御精神にことごとく違背し、「師敵対」したのである。

先ほども申し上げたが、学会を裏切り、師敵対し、同志を裏切っていった人間たちも、やはり最高幹部であった。これが重大なる歴史の教訓である。

日興上人は青年を育てた。御自身の持てるものすべてを、青年にそそいでいかれた。

青年を大事にする指導者こそ本物である。広布のリーダーは「後輩を一人も脱落させてはいけない」「全員を広布の人材に育てよう」と祈りに祈り、後輩のために走りぬいていくことだ。そこに、万年に続く「令法久住」の方程式がある。

青年こそ宝! いちばん大切なのは青年!

ともあれ、次の五十年へ、青年にすべてを託す以外にない。

そのためには、諸君全員が、創価学会の「会長」であり、「責任者」であり、「大指導者」であるとの自覚で、全責任を担い立っていただきたい。



【4】

2006.1.12 神奈川・静岡合同協議会での先生のスピーチ

(抜粋)

昭和54年5月3日 迫害の嵐の中、神奈川文化会館へ! 

神奈川から海を見つめて世界広布の指揮を決意!


大勢の同志が待っていた

 一、私が、昭和54年5月3日、創価大学での儀式を終えて、その足で、一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。

到着したのは、午後6時59分。妻と一緒であった。

そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。

会館の前の、1階から2階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。

 あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。

それは、未来を見つめてのことであった。

本部でもない。

東京でもない。

神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう!

小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう!

そう決意していたのである。

 私は全世界を志向して神奈川に来た。

この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセァニァにも通じている。

海を見るたびに、構想は広がった。

当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。

創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。

反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。

その時に私は、もっと高次元から、世界を凝視した。

 ーーちょうどいい。

 世界広宣流布の布石を、本格的に始めようーー!

 そして今や、五大州の190もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が発展したのである(大拍手)。 私の指揮と行動は正しかった。

戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と讃嘆してくださることだろう。

その師が今いないことは、さびしい限りである。

関西が立った! 埼玉も立った!

 一、私が第3代会長を辞任したのは、この昭和54年の4月24日であった。

 その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、馳せ参じた友がいた。

藤原武君(現・関西長)をはじめとする関西の七勇士であった。

その目は燗々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。

今、彼らは、悠然として関西で、最大の勝利の指揮を執りながら、戦っている。

 あの時、友は熱い熱い涙を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。

 私は言った。

 「新しい時代を必ずつくる。 君も一緒に頼む。 あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。

 学会を弾圧した、恩知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうと思っていたに違いない。

 心堕(お)ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と懺悔(ざんげ)してきた者もいた。

関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、声をあげた。

「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。

『勇退』と言いながら、引きずりおろした。

 学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」

こう憂えていたのである。

「第3代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」

これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。

何よりも、日蓮大聖人が「難こそ誉れ」「難こそ安楽」と教えられている。

何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩み抜く。

一、大聖人の仏法の真髄は「進まざるは退転」である。

 広宣流布へ前進また前進ーー そのために、リーダーは心を砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。

 戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。

「こんなに細かいことまで」と皆が思うほど、神経をめぐらせた。

基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。

よき伝統というのは、皆が納得し、安心するものである。正しい指導をたもっていける。

教育の世界でも、優れた学校には、素晴らしい伝統があるものだ。

リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」を心していただきたい。





【5】

2006.12.22 全国最高幹部協議会での先生のスピーチ

(抜粋)

一、昭和54年の4月、私は第3代会長を辞任した。

その背後には、嫉妬に狂った宗門と反逆者の醜い結託があったことは、皆さんがご承知の通りである。

ここから私は、一人立ち上がって、今日の学会を築いてきた。これが人生である。これが正義である。

戸田先生は言われた。「いかなる事件に出あおうとも、いかなる事態になろうとも、ただ一人立つことが大事なのだ」

策とか要領で、これほどの学会が築けるわけがない。

正義ならば、ただ一人立て!──この師弟の真実に徹してきたから、私は勝った。学会は勝ったのだ。

これからは、今以上に心を一つにして、堂々と正義と真実を語り合っていくことだ。

そして、この仏意仏勅の学会をバカにしたり、厳粛な師弟の精神を軽く見るような慢心の幹部が出たならば、絶対に放置してはいけない。勇気をもって厳然と責め抜いていかなければ、学会の未来に発展はない。

若い人を大事に伸ばしていくことだ。青年こそ未来の原動力である。それを忘れてはいけない。




【6】

2008.11.26 代表幹部協議会での先生のスピーチ

(抜粋)

師に捧げた人生

 一、思えば、戦後間もないころ、戸田先生の事業は挫折し、先生は学会の理事長を辞任された。学会は四分五裂の危機にあった。

 その時に私は、ただ一人、すべてをなげうって先生を支えた。絶体絶命の窮地にあった先生を、徹してお護りし抜いた。

 私がいなければ、今の学会はない。戸田先生、そして牧口先生の死身弘法の闘争も、水泡に帰すところであった。それほど、第3代が大事だったのである。このことは、御本尊の前で胸を張って申し上げることができる。

 私が戸田先生の後を継ぎ、第3代会長に就任してからも、激しい迫害の連続であった。

 誹誇もあった。

 中傷もあった。

 そのなかで、私は世界への道を開いた。皆が悠々と、安心して、広宣流布に邁進できるように、人知れず心を砕き、わが人生を捧げてきた。語りに語り、書きに書いて、あらゆる面で広布を支えた。

 そして迎えた昭和54年(1979年)。

 会長就任から20年を目前にし、学会は、いわば絶頂期にあった。

 その時に私は、第3代会長の辞任を余儀なくされたのである。

 心卑しき人間は、偉大なものに嫉妬する。

 謀略の輩は、虚栄に溺れ、私利私欲から野合して、師弟の道を壊そうとした。臆病者は保身に走った。

 御聖訓には仰せである。「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180㌻、通解)

 その通りの、浅ましく、情けない、愚劣極まる姿があった。

 あの時、全国、全世界の同志から、多くの連絡をいただいた。

 ーー最も功績があり、最も師匠に仕えた池田先生が、どうして辞めなければいけないのか。先生は、何一つ悪いことはしていないじゃないか。幹部はなぜ、先生を護らないのかーー

 こうした悲しみと怒りの声が、電話で、手紙で、無数に寄せられ。その数は、直後のものだけでも、およそ8200から8300になる。

 この真の同志の心を、私は生涯、忘れることはない。そして、どのような立場になろうとも、私は永遠に、尊き同志を護り、学会を護り抜いていこうと、深く心に誓ったのである。

 私はあえて、真実の歴史を語り残しておきたい。これからの学会のため、広宣流布のため、誤りなく正義の道を進みゆくために、本当のことを語っておきたいのである。

 牧口先生は、「忘恩者」「不知恩者」を諸天善神が「加護し給う訳がない」と厳しく断じられた。

 その通りに、悪逆の輩は厳たる仏罰を受けている。皆様がよくご存じの通りだ。

 将来にわたって、若き諸君は、悪い人間に騙されてはならない。表では、いい格好をしながら、裏で策を弄する卑劣な人間もいる。正義の人が滅び去るのを、密かに待っている者さえいる。

 人ではない。自分が「真の弟子」の自覚に立つのだ。深き信心を奮い起こし、「仏眼」「法眼」をもって正邪を見抜くのだ。

 戸田先生は叫ばれた。「恐れれば、自滅するだけだ。敢然と突き進むのだ!」

 私はこの言葉通り、師に誓った道を、今日まで、敢然と突き進んできた。

 今、広宣流布の永遠の未来を考える時、何より大事なことは、若い世代の人たちを「真の後継者」へと育て上げることである。

 若き諸君は、人を頼らず、だらしない先輩など乗り越えて、断固、突き進むのだ。下から上へ、どんどん建設的な意見を述べるべきである。

 先輩も、これまで以上に、皆を大事にし、皆と一緒に、手を携え、肩を組みながら、進んでいくことだ。

 同志愛が光るリーダーであっていただきたい。話をする時も、さわやかな笑顔、皆がほっとするような声で、希望と勇気を贈っていただきたい。

 見栄っ張りではいけない。とくに男性は「王者の風格」をもたねばならない。

 ともあれ、正義の師弟を守ることが、広宣流布を守ることになる。学会の全同志を守ることになる。私は、そう心に刻んで生きてきた。

 一緒に進もう!

 一緒に戦おう!

 私は皆さんとともに、いよいよ総仕上げの戦いをするつもりである。

 年配の幹部も、パーツと花火があがるように、勢いよく、生き生きと生きるのだ。

 頑張ろう! 偉大なる学会を、ともどもに築いていこう!