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仲路中道
「 さらば シリーズ 」No.2.
始めに、
私がフェイスブックの中で、先生が、
「 やっかみと、嫉妬の恐ろしい学会になってしまった 」と仰ったと書いているが、
いつの事なのでしょう、
正確な情報をいただけませんか、との同志からの問い合わせがあった。
録画の再生、確認をお願いした所、
2009年3月の本部幹部会での御発言であったので、先生の御指導の前後を掲載したい。
先生のスピーチ。
「 当時、支部で70世帯しか折伏出来なかった。私は文京支部の支部長代理でいきました。
支部長が女性で、私が入った月から一級の支部になりました。
東京は負けて、大阪は勝ちました。全部私が勝ってきた。
先生が、お前は大作、大きく作るんだから、と。
戸田先生は、ホントに細やかだった、ね、奧さん、大キライだったよ(?)なっ。
チョット髪の毛がほつれてると、何だ!と叱られて。
大指導者論から人の心のヒダまで教わりました。
偉大な、世界一の師匠でした。
もう朝早くから、先生のお宅で、誰も知らない中で教わりました。
戸田先生、俺は本当にいい弟子をもった、と。
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全部裏切って、若い綺麗な奧さんもらって、嫉妬して、ね、
無慈悲な学会、恐ろしい創価学会、やっかみの学会になった、なっ!
当時のランキングで、私は、5番目、4人は故人、生きてる中では、私が1番なんです。
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原田に向かって、先生が突然
「 誰だ!悪いのは?」
原田は、
「 北条、野崎、和泉、辻、山崎、、」
先生が、
「 山崎って、だれだ? 」
原田、
「 尚見です」
先生、
「 もっと悪い奴がいるだろう!」
原田、「 山友、原島です 」
先生、「 そうだ!竹入、矢野もそうだ!秋谷にも言っとけ!」
先生、「 北条死にました、会長なってすぐ、
山崎正友も死にました。
80億ですよ。
5億5千万取って。
原島も死にました。
みんな、仏罰です。全部勝ちました!ね。
紅の歌を歌いなさい!
以上、2009年3月度
本部幹部会、(青年部幹部会も兼ねる。)より。
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( 本篇 )
さらば日顕、さらば大石寺寄り。
[ 回 想 ]
昭和40年から50年代にかけて、大石寺大坊で育った我々は、
その限られた小さな世界で、
少なからず色々な思い出を積んだ。
妙法の光に照らされて、各々の人生の土台を築くべき、尊い、意義ある6年間であったかと問われれば、
否、と答えざるを得ないのが、真実である。
私は今、今回の突然とも思える宗門と学会との問題を思うにつけ、
我々僧侶の側に、信徒を理解する、
否、人間を理解する精神的完成が、なされていなかったのではないか、
そして、その根は、大石寺修行中の6年間における人格形成に大きな欠陥があったのではないか、と思うのである。
幼き頃、夢と希望を持って、入った大石寺。
そこでの生活は、予想とはおよそ正反対の、夢も、希望も、正義も、平等も、慈悲もない、否、そのすべてを打ち砕かれた生活であった。
こう書くと、己れは、信心なきゆえに、、、と、同胞から批判されるやもしれぬが、
胸に手を当てて冷静に思い返してみれば、
皆、思い当たる事であろう。
中学1年から高校3年、大学、
そして、教師、住職と、
奴隷から王様になっていく過程で、我々は人間として最も大切なものを失ってしまったのではないだろうか。
この期間に多くの僧が体験することを、仲路中道の一個の人格の体験に集約させて、
その目で見、耳で聞き、肌で感じたものを回想する形で綴りたい。
第三章、
最初に受けた訓練が ” 殴られる ” こと。
ーー中学1年の思い出ーー
「 教師に非ざれば.
人に非ず」
出家した当時、よく耳にした言葉である。
教師、つまり訓導(くんどう)になるまでの十数年間は、
「 人間ではない。人格もない。人間としての扱いを受けないぞ、覚悟しておけ!」
との意味である。
御本仏日蓮大聖人様の御前には、男女、上下、貴賎の差なく、すべてが大聖人の子供として、その大いなる慈悲に包まれ修行に励む。
共々に励まし合い、助け合い、底知れぬ妙法の智水を頂戴しつつ、
生きること自体が、幸せであると感謝しつつ生きる日々。
大聖人様の仏法を、七百年間、一器の水を一器に移すが如く、少しも漏らさず後世に伝え、
その妙法を、世界に弘めんとする尊き僧団・日蓮正宗。
中学1年になり、幼いながらも、大いなる希望をもって出家した私が、最初に耳にした言葉が、これであった。
「 教師に非ざれば.
人に非ず 」
創価学会の両親のもとに生まれ、勤行が上手だと近所の学会員さんから誉められて、
幼い頃から憧れていた大石寺。
両親、親戚、友達に送られて、夢と希望に燃えて向かった大石寺。
「 日蓮様のお弟子になるげに、なんとも、めでたいこっちゃ 」
信心の、わからない祖父までが喜んでくれた。
12歳の、そんな夢と希望が、無残にも、跡形なきまでに打ち砕かれる迄には、出家して、たった3日あればよかったのである。
☆ 顔が気に食わん☆
中学3年の先輩に、
「 顔が、気に食わん 」.
という事で、散々殴られた後、
「 ここじゃ3日間は、お客さん扱いするが、おまえは3日も待てん 」と、言われた後、
「 殴られたことは、絶対に言うな。言いつけたら終わりだぞ 」と。
寮の隅でうずくまる私に、吐き捨てるように言って、先輩は出ていった。
口から流れる血を、別の中3の先輩が拭き取ってくれながら、
「 がまん、がまん、人に言ったら、またやられるから 」
と、口止めして行った。
「 顔が気に食わん 」とは、どう言う事だろうか。
青く腫れた顔を鏡で見ながら、
この顔のほうが、よほど気に食わんと言って、泣き笑いしていた。
「 3日間は客人扱い 」ーー
つまり総本山でも末寺でも、
着任して3日間は、お客様として大切に扱うけれども、4日目からは修行者として、厳しく扱かうと聞いたのは後の事であった。
そして、その「 厳しく扱かう 」というのは「 暴力 」の事であった。
その後も、暴力は続いた。色々な先輩に、こずかれたり殴られたりしたが、
何故殴られたのか理由が分からなかった。
その時の先輩の気分でやられたようである。
ただ、確実にやられるのは、挨拶の仕方が悪い時である。
ここでは、礼儀が全てであった。
先輩を見れば、どんな時でも、直立不動で「 こんにちわ 」と言って頭を90度以上下げる。
朝など人が大勢いて、何十人の先輩とすれ違う。
「 オハヨウゴザイマス 」
「 オハヨウゴザイマス 」
「 オハヨウゴザイマス 」
「 オハヨウゴザイマス 」
「 オハヨウゴザイマス 」と、頭を下げ続ける。
それでも、先輩は、「 俺には
挨拶しなかった 」と言って、スリッパで、脳震盪を起こす程強く頭を叩いていくのである。
十人の先輩が居て、自分では、「 コンニチハ 」
「 コンニチハ 」
「 コンニチハ 」
「 コンニチハ 」
「 コンニチハ 」と、十回、つまり十人分言ったつもりでいても、
「 おミャー( お前 )、俺に、何で挨拶せんのか! 」と言って、飛び蹴りが飛んでくる。
こちらが、どんなに挨拶をしても、 「 オハヨウ 」と、挨拶を返してくれる先輩は1人も居ない。
早く時が過ぎればいい。
早く年長になりたい。
大坊に入った直後から、もう、そればかりを考えていた。
何処に居ても、いつも、何処かに睨みをきかせた先輩が居る。
猊下と直接、言葉を交わす事もなく、学衆課や御仲居(
所化の総監督 )も、なんら心の支えにはなってくれず、
当時の私にとっては、二つか三つ年上の、精神構造的にも、大して変わらない先輩が、この世界では、模範とすべき絶対的存在なのである。
私の願いは「 早く中ニになって、衣を貰いたい。早く上級になりたい 」ーーただ、それだけであった。
何とも情け無い願いだが、
私にはもう、それだけの希望しか持てなくなっていた。
☆会いにきた両親に何も言えず ☆
数ヶ月後、両親が面会に来た。
大聖人のお膝元で、
生き生きと希望に燃えて修行に励んでいるであろう我が子の姿を見るために・・・。
面会室で会う。
両親には何も言えなかった。
大坊での地獄の日々、それは絶対に言えない。
それを隠して、無理につくり笑いをしようとしたが、顔がこわばって、ポロポロと涙がこぼれてきた。
今まで両親に敬語など使った事はなかったのに、自然に敬語で話していた。
敬語で話さなくても、両親は決して殴りはしないのに、。
短い面会時間が終わって、両親が帰って行く。
私の苦しみが分かったのか、
面会に来た時とは正反対の、不安いっぱいの眼差しで、私の心を読み取ろうとする母。
しかし、絶対、言ってはいけない。口から出そうになる真実の言葉を必死にこらえていた。
さようなら、お父さん、
さようなら、お母さん、
面会室を出ると、大きな笑い声がした。
一緒に出家した啓道君が、内事部前で面会していた。
啓道君のお父さんは、横浜の寺の住職さん。
紋衣( もんごろも )を着た大柄のお父さんと、和服を着て、綺麗に着飾ったお母さん。
御仲居さんが、啓道君の肩をポンポン叩きながら、
「 啓道君は、中々優秀ですよ。なあ、君も早く、お父さんの様にならなきゃなぁ 」と言っていた。
私の両親が、深々と頭を下げて、その横を通り過ぎる。
御仲居さんも、啓道君も、両親に気がつかないのか、知らん顔。
華やかな啓道君の両親と、
田舎者の私の両親とは、対照的であった。
僕もお寺の息子だったら良かったのに、、、。
思ってはいけない、こんな事まで、一瞬、頭をよぎる。
虚しさが込み上げてきた。
その夜、面会中に私が、両親の前で泣いていた、ということが、先輩の耳に入ったらしく、
根性を入れてやる、と言う事で、4人の先輩に殴られた。
本山ってなんだろう。
修行ってなんだろう。
仏法ってなんだろう。
学会の少年部時代、目を輝かせて会合に出た。
未来の使者として、
正義の走者として激励され、
小さな心に、広布への希望を充電させて、日々、励んだ。
幼いながら、折伏もした。
今は、そのすべてがない。
少年部での訓練と、お膝元での訓練と、どちらが本当なのか。
中学3年の先輩が、私にこう言った。
「 いいか、オレも、オマエくらいの時はつらかった。
逃げたいと思った。
死にたいと思った。
でも、ガマンした。そして今のオレがある。
いいか、オレ達は、オレもオマエも、中学に入った時から1人で生きている。
親から離れて修行してるんだ。
だからな、親元で甘やかされて、のうのうと暮らしている信者どもとはわけが違うんだ。
だから、信者より偉いし、住職になれば、贅沢も出来るんだ。」
二つ年上の15歳の先輩の言葉である。
つらい、苦しい、逃げたい。
でも、とにかく辛抱すれば、
いつか、必ず、凄く楽しい世界がくる、と、いつしか自分に言い聞かせるようになっていた。
( さらば日顕、さらば大石寺より ).
このシリーズでは、宗門の実態を綴った既刊小説「 さらば日顕、さらば大石寺 」の連載と共に、
それよりも酷い、信濃町界隈の実態を小説化した「 さらば信濃町、さらば信濃町慕情 」から、抜粋してお届けする。
次回は、「 さらば信濃町慕情 」からの抜粋を予定している。
一応、第九章「 真実の九州のドン。葉隠れの武士 」を掲載予定。
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