(まとめ=宮本恵理子/写真=鈴木愛子)
物心ついた時から、「ゼロイチ(何もない状態から新しいものを生み出すこと)」に夢中でした。両親は大学で働く研究者で、家の中ではゲームは禁止。テレビも1週間に1度しか観ることを許されず、代わりに推奨されていたのが「モノ作り」でした。
はさみ、のり、色鉛筆、クレヨン、画用紙、段ボールといった創作のための道具は惜しみなく与えられ、壁に絵を描いてもOK。私は炊飯器にも絵を描いていましたが、一切怒られませんでした。おかげで絵はとても好きになり、小さい頃の夢は「漫画家」でした。
両親は子供にむやみにお小遣いを与えない主義でもあったので、欲しいものは、人形でもオセロでも自分で作りました。「早く独り立ちしたい」という自立心が早くから芽生えていたのは、そうした環境によるものだったと思います。
当初は「自立する手段は何でもいい」と考え、高校に入ると時給制のアルバイトを経験したのですが、すぐに違和感を抱きました。時給とは、費やした時間に対してお金が支払われるということだから、どんな仕事をしたかより、経過時間にばかり意識が向いてしまいがち。「早く仕事が終わらないかな」と思いながら1日を過ごすのは、突き詰めると「早く死にたい」と思うのと同義ではないかと。
"人生の時間をムダにするような働き方" ではなくて、もっとオーナーシップややりがいを感じられることに時間を費やしたい。そんなことを考えるうちに、起業にも興味を抱くように。京都大学に進んでからは、思いついたことに次々とチャレンジしていきました。
京大初のミスコンを企画 抗議受け直前に中止
例えば、大学に入って最初の学園祭では、京大で初めてミスコンを企画しました。リハーサルまでやりましたが、直前で反対派の抗議を受けて開催には至らず。3日間寝込むほど落ち込みましたが、復活し、その後も友達と小さな会社を作って、京大生向けのフリーマガジンを始めるなど、半年に1つといったペースで新事業を立ち上げました。
立ち上げが得意な半面、育てるのは苦手で、悪くいうとやりっぱなしみたいな感じでもあったのですが、世の中、立ち上げる人の方が希少価値が高いということが分かってきたのもその頃です。
自分が組織でプレーするのが苦手ということも分かったので、将来はフリーランスで食べていこう、なんて考えたりもしましたが、大学4年生になると、周囲の人と同じように就職活動を始めました。就活にはゲームのような面があるので、参加してみたくなったというのが正直なところ。結果的に〝就活偏差値〟が高い会社ばかりを狙ってしまっていました。