聴診器を当てても病気の診断はできない?

病院や健康診断で聴診器を当てられた経験のある人はとても多いでしょう。しかしその診察、実はあまり意味はないのかも……? では一体、医者は聴診器で何を聞いているのでしょうか? まさか、聞いているふりをしないと「ヤブ医者」あつかいされてしまうから? 医療小説の奇才・久坂部羊が医学のウソ・ホントを語りつくす連載第7回!

聴診器で何が聞こえる?

医師は聴診器で何を聞いているのでしょう。

大きく分けて、「呼吸音」と「心音」です。呼吸音には、肺炎など痰が多いときに聞こえる「湿性ラ音(ガラガラ)」、気管支炎などで聞こえる「乾性ラ音(ヒューヒュー)」、喘息のときに聞こえる「喘鳴(ゼーゼー)」、そのほか、「捻髪音(チリチリ)」、「水すい泡ほう音(パチパチ)」などがあります。大学ではそう習いましたが、実際にはあまり役に立ちません。レントゲン写真やMRIなどのほうが、はるかに正確に診断できるからです。

私自身、いつも聴診器を当てながら、いったい何がわかるのだろうと自問します。わずかな異常を見つけて、病気の早期発見ができればいいですが、聴診器でそんなことはまずできません。喘息くらいはわかりますが、肺がんはぜったいにわかりませんし、喘息にしても、別に聴診器を使わなくても自覚症状で十分わかります。

それでも私は毎回、真剣に耳を澄まします。正常な呼吸音を何度も聞いていたら、わずかな異常も聞き分けられるのではないか。そう思って三十余年やってきましたが、未だに何もわかりません。息苦しそうにしているのに、呼吸音は正常だったり、ひどいゴロゴロ音なのに、本人は平気という場合もあって、聴診に対する疑念は深まるばかりです。

しかし、たいていの患者は聴診を重視します。私が外務省の医務官として、サウジアラビアの日本大使館に勤務していたとき、現地のクリニックを受診した公使(大使館のナンバー2)が、こう憤慨していました。

「あそこの医者は、シャツの上から聴診器を当てるんだ。そんなことで正確な診断ができるのか」

肌に直接当てても正確な診断はできません、と言いたいところですが、黙っていました。私までヤブ医者扱いされると困るからです。

「診察を受けに行ったのに、聴診器も当ててくれなかった」と、怒る大使館員もいました。胸の音も聞かず、いきなりレントゲン写真を撮ったというのです。それは時間の節約になります、と思ったけれど、やはり黙っていました。

医務官をしていたときには、近隣の日本大使館や総領事館にも巡回検診に行きました。外交官には生真面目な人が多く、聴診器を当てて、「深呼吸してください」と言うと、30秒近くも息を吸い、同じだけかけて息を吐く人がいました。こちらは手早くすませたいのに、一カ所で1分近くもかかっては困ります。途中で聴診器を動かすと、きちんと聞いていないように思われるので、最後まで待たなければなりません。

聴診器をササッと動かす医師もいますが、あまり素早いと、おざなりに聞いているのがバレてしまいます。しかし、一カ所で長く聞きすぎると、異常があるのかと患者は不安になります。聴診器は適当にさっさと動かすのがいいようです。ちょっと聞いただけで異常がないことがわかる、という印象を与えますから。

肺がんとイレッサ訴訟

最近、日本では肺がんが増え、臓器別がん死亡の総合第一位になっています。年間の死亡者数は約7万3千人。

肺がんはタバコが原因といわれますが、喫煙者は年々減っているのに、なぜ肺がんが増えているのかは解明されていません。男性の肺がん患者は7割近くが喫煙者ですが、女性の肺がん患者では約2割にとどまります。

肺がんとひとくちにいっても、《表‒1》の通り、がん細胞のタイプによって四つに分けられます。これらの分類は、がん細胞を顕微鏡で見て決めますが、肉眼で見た肺がんは、どれも似たり寄ったりです。手術のときに見ると、スポンジの中にミートボールかひろうす(がんもどき)を埋め込んだような感じです。

肺がんのうち、小細胞がんや扁平上皮は、タバコとの関係が深いですが、肺がん全体の約半分を占める腺がんは、喫煙の影響が薄いといわれます。

だから、タバコを吸ってもいいということにはなりませんが、タバコを吸わなくても肺がんになるということは知っておいてもいいでしょう。そうすれば、「タバコを吸っていないのに、なぜ」とか、「あなたがタバコを吸うから、わたしが肺がんになった」などという、無用の嘆きや諍いを減らすことができますから。

肺がんの治療は、ほかに転移がなければ手術で肺を切除します。がんの大きさにより、肺の一部を取る「区域切除」から、片方の肺を全部取る「全摘」まで行われます。手術で取れないがんや、再発したがんの場合は、抗がん剤が使われます。

2002年の7月、肺がんの特効薬として、「イレッサ」(薬名:ゲフィチニブ)が発売されました。これはがん細胞だけを攻撃する「分子標的薬」で、副作用の少ない「夢の新薬」と期待されました。ところが、イレッサは、「間質性肺炎」という治療しにくい肺炎が合併しやすく、販売開始後2カ月で、39人の患者が死亡しました。同年10月に緊急安全性情報が配布され、間質性肺炎の危険は周知されましたが、それでも死亡者は増え続け、2012年末までに862人が亡くなっています。

通常、新薬の承認には1年以上かかりますが、イレッサは承認申請から5カ月という異例の短期間で承認されました。夢の新薬を一日も早く使いたいという患者の要望に応えてのことでしょう。

しかし、その承認の過程に問題はなかったのか。また、承認後、国は製薬会社に対して、適切な指導・監督をしてきたのか。製薬会社も、間質性肺炎の危険を説明書等で十分に喚起していたのか。これらを争点として、2004年7月(大阪)と11月(東京)に、患者の遺族らが、製薬会社と国を相手取って起こしたのが、「イレッサ訴訟」です。

イレッサの説明書には、「重大な副作用」として4番目に間質性肺炎が書いてあり、また、製薬会社はイレッサの販売と前後して、全国の医療機関で説明会や研修を実施したので、医師への説明は十分であったと主張しました。国もその対応で十分だったとし、裁判所から出された和解勧告を拒絶しました。製薬会社や国とすれば、安易にイレッサを使い、十分な対応をしなかった医師が悪いと言いたいところでしょうが、製薬会社は顧客である医師を悪者にしにくく、国も医師のせいにすると責任転嫁だと批判されるので、本音を出しにくい状況だったのではという気がします。

2011年2月に出された大阪地裁の一審判決では、製薬会社には一部責任を認めたものの、国の責任は認めませんでした。同年3月の東京地裁は、製薬会社と国の双方の責任を一部認めました。しかし、二審では、大阪高裁(2012年5月)、東京高裁(2011年11月)ともに、製薬会社と国の双方の責任を認めませんでした。

亡くなった患者の遺族からすれば、製薬会社が薬を売らんがために副作用を過小に説明し、国もまたそれを黙認したから「薬害」ということになるのでしょう。その気持はよくわかりますが、そもそも抗がん剤は副作用が強く、手術やほかの治療ができない場合は、あえて危険な薬を使わざるを得ないというのも事実です。また、進行がんの場合は、仮に間質性肺炎を起こしていても、主な死因はもとのがんという可能性も否定できません。承認を短期間で終えたのは、それを待ち望む患者や医療者の声が強かったからで、製薬会社と国が結託してという見方はどうでしょうか。承認が遅ければ非難され、かといって急いで承認して副作用が出れば非難される厚労省も少々気の毒に思えます。

もし、私もしくは私の家族が、イレッサで間質性肺炎を起こして死んでいたとしても、この考えは変わらないでしょう。それは、私が医療の限界や、役所業務(厚労省ではなく、外務省ですが)のたいへんさを、ある程度知っているからだと思います。

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コメント

modi_nius 久坂部さんて「無痛」書いた人だぁね。 約3時間前 replyretweetfavorite

suerene1 あ、やっぱり https://t.co/iUc1xRCL60 約8時間前 replyretweetfavorite

feilong 1件のコメント https://t.co/lmbXyRrqrR 約8時間前 replyretweetfavorite

feilong 1件のコメント https://t.co/lmbXyRrqrR 約8時間前 replyretweetfavorite