紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

今後50年出てこない仕事

国民文学である『源氏物語』を広く、正しく知ってほしい
中野幸一氏インタビュー

 ■勉誠出版から刊行されていた『正訳 源氏物語 本文対照』が、このたび全10冊で完結した。本書並びに『源氏物語』をめぐって、訳者の中野幸一氏に話をうかがった。(7月7日、東京・神田神保町にて。聞き手・村田優〔本紙編集〕)

 ■語りの姿勢を重視

 ――2012年からおよそ3年をかけて『源氏物語』の現代語訳を完成させました。中野訳の大きな特徴として、「である調」ではなく「ですます調」で訳されています。訳すにあたって、なぜ「ですます調」を採用したのでしょうか。

 中野 私は若い頃、助教授時代からカルチャー講座に出ていました。今でも早稲田ではエクステンション講座がありますね。そこでは特に『源氏物語』を受け持っていましたが、カルチャー講座だからもちろん相手がいて、話し言葉になるでしょう。そうすると講義での訳も自然と話し言葉になりますが、これまでの『源氏物語』の現代語訳は「である調」で訳されていて、それがかなり前からちょっと気になっていました。だから、もし自分が『源氏物語』を訳すとしたら「ですます調」にしなければならないと考えるようになりましたが、当時は忙しいから実際に訳そうとは思いませんでした。

 この「ですます調」の採用は、いわゆる語りの姿勢を重視したからです。『源氏物語』が語りの姿勢で書かれていることは物語研究者ならば誰でも常識的に知っていますし、これまでも言及されていることです。冒頭でも「いづれの御時にか……」と呼びかけているわけでしょう。やはりそれを活かさなければいけないな、と思っていました。

 『源氏物語』の今までの有名な現代語訳を見てみますと、谷崎潤一郎が昭和14(1939)年に刊行した初版では「である調」で訳していますけど、昭和26(1951)年に出した訳では「ですます調」に変わっているんです。これは、谷崎自身も現代語に訳していく中で、その語りの姿勢に気づいたのではないでしょうか。あと、最近では瀬戸内寂聴訳『源氏物語』は「ですます調」になっています。このように「ですます調」で訳されているものはいくつかありますが、主な訳はみんな「である調」、ましてや研究者のものはみんな「である調」となっています。そういった意味で、本書の「ですます調」は本当に大きな特徴でありますし、語りの姿勢を大事にした結果ですね。

 ――中野さんが『源氏物語』の現代語訳に取り組んでいる最中に、源氏の入門編として刊行された『フルカラー 見る・知る・読む 源氏物語』(勉誠出版、2013年)には、物語のあらすじや場面鑑賞、フルカラーの大和絵・錦絵と一緒に〈朗読の愉しみ〉という項目があります。そこには、「『源氏物語』の美しい原文を声に出して読むことで、より深く物語の魅力を味わうことができる」と記されていますね。本書は現代語訳ですので少し話が異なるかもしれませんが、「ですます調」の文章は小説として捉えて目だけで追うと少し読みづらいですけれど、語りの姿勢を重視しているからか、実際に声に出しながら読んでみるとすらすらと頭に入ってくるように感じました。

 中野 たしかに、カルチャー講座に参加しているご婦人方が本書をよく買ってくれているようですが、この現代語訳を読みやすい、とても親近感が湧くと言ってくれています。今度の9月、本書の完結記念として浜離宮朝日ホールで女優の紺野美沙子さんが朗読してくれますし、6月に京都で催された朗読会でも、劇団民藝の舞台女優である岸野佑香さんが私の本を読んでくれて、そのとき聴衆の方からは聞いていてわかりやすいと言われたようで、とても喜んでいました。「ですます調」に訳してよかったと思っています。

 ――他の訳については著名な作家の現代語訳ということもあり、大変読みやすい言葉で綴られていますが、声に出して朗読しやすいかというと、それは少し違うかと思います。中野さん自身はこれまでの訳についてどのように考えているのか、もう少し詳しくお聞かせください。

 中野 谷崎さんにしても、というより概して作家の訳は皆そうなんですが、自分が気に入ったところは丁寧に訳していて、好きでないところはそうでもない、だから私たち研究者が読んでいると全体として文章にムラがあります。これは本当の源氏の訳ではなくて翻訳なんですね、口語訳ではない。とても谷崎源氏らしい訳調ですが、それはそれで個性があっていいわけです。また、2010年から2013年にかけて祥伝社から刊行された林望さんの『謹訳 源氏物語』について、リンボウさんは頭がいいからそれこそがさっと文意をつかんで、自分の言葉でバッと訳してしまう、まさにリンボウ源氏と言えます。

 結局、作家は非常に気持ちよく訳していますから、こちらもその文章につい乗せられて読んでしまうわけですが、ふと、あれ? もとの文章は、つまり紫式部の本文はどう書いてあったのかしら、と思うところがあります。少し調べてみると、そんな文章は本文にない場合が多いのです。だから私としてもまたあれぇ? と思いまして、もし紫式部が聞いていたら、そんなこと書いた覚えがない、と言うのではないでしょうか。それで私は『源氏物語』本文を大事にしようと考えて、本書を訳文と対照させる〈本文対照〉として、物語本文を下欄に示すかたちとしました。

 ところが、この本文を同じページに載せることはとても大変な作業なんですね。これを可能にしたのは、ひとえに編集者の功績です。というのも、たとえば小学館版の『新編日本古典文学全集』では下欄に訳があるわけですが、現代語訳の文章は概してのびてしまうものですので、訳だけが何ページもずっと先にいってしまい、対照どころか同じ部分を探すのに骨が折れてしまいます。しかし、本書では訳文と本文を行単位できれいに合わせています。これはとてもすごいことです。だから、古典にちょっとでも教養のある者ならば、この訳文はどうなのだろう、と疑問に思っても下を見ればすぐにわかります。ただ、やはり現代語訳の本に本文を入れるのは、編集の方も相当苦労したことかと思います。なぜなら本文も長々と言う場合もあればさっと短く言う場合もありますし、「宇治十帖」では薫がいつもぐだぐだ語り出すからどんどん訳が長くなってしまう(笑)。何行、何ページ、何ポイントでやるということを決めないといけない中、本書ではその都度異なる分量のバランスを全巻にわたってある程度統一しているから本当にすごいと思います。本文を目の前にして訳すことほど辛いものはありませんが(笑)、本文対照というのは本書の大きな特徴で、だからこそ書名にもわざわざ書きました。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
9月中旬以降、全文掲載予定です。