広瀬和生さん(左)とサンキュータツオさん(右)
最初は50席ぐらいのつもりが…
広瀬和生(以下、広瀬) この『噺は生きている』は、編集者から「落語家論の次は、演目論はどうですか?」と言われて書き始めたんです。最初は50席くらいの軽い気持ちで書いていたんですけど……。
サンキュータツオ(以下、タツオ) それはムリでしょう!(笑)
広瀬 ええ、とりあえず『芝浜』について書き始めたら、1席だけで70ページくらい書いてしまったんですよ(笑)。「これはムリだ」と思って、8席ぐらいに絞ろうと思ったんですが、結局は5席(『芝浜』、『富久』、『紺屋高尾』と『幾代餅』、『文七元結』)に落ち着きました。
タツオ 今はCDやDVDが数多く発売されていて、昔よりも落語家を聴き比べられるようになりましたよね。そんな時代の中で、噺ごとに系統樹を立体的に整理するというのは、誰かにやってほしい仕事ではあったんですよ。だから、落語ファンとしてすごく嬉しいです。でも、こういうふうに厳密に整理した本が書けるのは、ずっと音楽畑で活躍されている広瀬さんだからなんでしょうね。
広瀬 いやぁ、大変な作業でしたよ。時間はすごくかかりました。毎朝4時に起きて、CDを聴いて、DVDを見て、メモをとって。8時になったらシャワーを浴びて会社に行って……。
タツオ 『日本国語大辞典』をつくった松井簡治先生みたいな生活ですね(笑)。簡治先生も仕事にいく前に20項目、書いていたそうです。
広瀬 ええ、寝る前にCDを聴きながら寝て、寝ながら考えて。寝起きのときに重要なことを思い出すんです。いけねぇ、いけねぇ、これ書き忘れるところだったって。
タツオ その時間を使って英語教材のCDを聴いてたら、今頃けっこう喋れるようになってますよ(笑)。
広瀬 ホントそうかも(笑)。昭和の名人の世代、その下の談志・志ん朝の世代、さらにその弟子の世代があり、もちろん同じ時代でも演者によってやりかたが違いますよね。さらに談志師匠のように時代を追うごとに噺を変化させる人もいる。現代の演者だと音源化されていない場合もあるので、客席で取り溜めたメモを見ながら思い出すことも多かったです。
タツオ いやあ、やっぱり時間と労力を割かなきゃ、書けない本ですよね。特に素晴らしいのが、どの音源を参考にしているのか、巻末に資料ガイドを掲載している点です。100年後の人でも、1000年後の人でも、音源を手に入れれば追体験できる。論文……というか学術的だとも思いました。
広瀬 資料ガイドもぼくが自分で書きましたから。ここは強調したい(笑)。
タツオ あそこの『紺野高尾』に関する談志師匠の記述は最強ですよね。高尾の「久はん、元気?」があるかないかを各音源ごとに言及していて、最終的には——「ポニーキャニオンのDVD三枚組『落語のピン セレクション VOL参』には、1993年9月22日にフジテレビで放送された『紺屋高尾』が収められていて、高尾の『久はん、元気?』はあるが、談志が髭面で演っている点が異色」。……『久はん、元気?』はあるけど、髭面が異色(笑)。ここまでやるかぁ? と言うしかない。
落語のターニングポイントとは
タツオ そもそも落語って、「同じ噺でも人によってそんなに内容が違うの?」「一門で伝承されているんじゃないの?」って思っている方もいるかもしれませんが、実際、かなり違うんですよね。また、その違いこそが落語を楽しむ醍醐味でもあって。
広瀬 たとえば、落語中興の祖とも言われる三遊亭圓朝の作品は、彼の実際の高座を速記したものが、テキストの形で残っています。でも、そのテキストをそのまま演じればいいはずなのに、誰もそんなことはやっていないんですよね。
タツオ ええ、その時代ごとにウケる噺として、何度も再構築されてますね。
広瀬 江戸から今に至る落語の歴史を見たとき、一番のターニングポイントは、昭和30年代に「古典落語」という造語が定着した時期だと思うんです。落語の歴史は、それ以前とそれ以降に分けられると言っていい。高度経済成長期に入り、吉原がなくなり、着物も着なくなり、誰も長屋に住んでいない時代が到来した。そうなって初めて、長屋や吉原の噺をする落語は、「古典落語」と呼ばれるようになりました。じゃあ、古くなったのか? そうではないですね。古くならなかったのは、文楽や志ん生ら昭和の名人がいたからです。彼らは江戸から続いてきた古典落語を、それぞれの才覚でつくりなおした。そして、その下の世代に談志・志ん朝という天才が現れ、それらの噺をさらにリニューアルしたんです。
タツオ 談志師匠は、「伝統を現代に」ということを言っていましたしね。
広瀬 そう、落語は常に「現代」のエンターテイメントなんですよね。演者は同時代の観客に向けて語る。当然そこには時代性が色濃く反映されるわけです。たとえば圓朝の『文七元結』の速記では、娘が身を売った吉原の店の名は「角海老」と書かれています。でも、今の落語家は「佐野槌」という名でやることが多い。しかし調べてみると、江戸時代には「佐野槌」はあっても、「角海老」はなかったんです。舞台は江戸時代ですから、圓朝だって普段は「佐野槌」でやっていたらしいんですね。だから、これは圓朝が生きていたらインタビューしたいところですけど(笑)、おそらく「角海老」にしたのは明治における時事ネタというか、ウケ狙いだったと思うんです。
タツオ いまだったら、「こないだ、『ロボットレストラン』に行ってきてさ」みたいな感覚ですね。当時、流行っていた風俗店の名前に変えたわけだ。
広瀬 もしかしたら、CMだった可能性もあります。圓朝のスポンサーが裏で「角海老」と通じていたんじゃないか、とか。
タツオ 想像力豊かだな~!(笑)。でも、その可能性はありますよね。
噺の痕跡をたどる落語探偵
広瀬 こういった細かい痕跡から、様々なことがわかってくるんですよ。同じく『文七元結』では、借金を背負った長兵衛に、佐野槌の女将が財布ごと50両を渡しますよね。そのとき、志ん朝も談志も、「それ、お前も見覚えがあるだろ? 亡くなったウチの旦那の羽織の余り布でこしらえた財布だよ。これを持っていきな」と言います。
タツオ ええ、いいセリフですよね。このセリフがあるかないかで、長兵衛と女将さんの関係が変わってくる。
広瀬 で、この女将のセリフはどこから来たんだろうって調べてみたんですね。で、例えば志ん生はやっていない。「この財布は私の着物の布でこしらえたものだ。これを見るたびに私を思い出しなさい」と言うやり方です。やっぱりこの噺は圓生の演目として有名だし、「ルーツは絶対に圓生だな」と思って、彼がスタジオ録音した「圓生百席」収録の『文七元結』を聴いたんですけど、ここにはそのセリフがないんです。落語研究会で収録した映像のDVDでもやっぱり言ってない。あれ、おかしいな? と思って探し続けたら、ライブ録音にこのセリフがあったんです。「やっぱり圓生だ!」って。
タツオ もう探偵ですよ(笑)。落語探偵!
広瀬 志ん朝師匠って、基本的に父親である志ん生の噺をベースに演じていました。ですが、ここでは圓生のバージョンを持ってきたわけです。こっちの女将さんのセリフのほうがいいと感じたのかもしれません。
タツオ 誰からもってくるのか? そこにもセンスが問われるんですよね。……いやあ、こういう話を聞きながら、いつまでも酒を飲んでたいわ~(笑)。
広瀬 いくらでもありますからね(笑)。『富久』で、境内の人たちが「(富くじで)千両当たったらどうする?」と話すシーンがありますよね。あそこで、「オレなら、家を建てて、庭に池を掘って、その池を酒で満たして、そこに飛び込んで飲む」という人が出てきます。じゃあ、飛び込むときに何を持っているか? 枝豆を持つ談志、たくわん抱えてボリボリかじる志ん朝、スルメを持って飛び込む馬生……。
タツオ (客席に向かって)あの~、みなさん! ここまで詳しくにならなくていいですからね!
一同 (爆笑)
広瀬 すると、おっ、一之輔はスルメを持って飛び込んでいくぞ。じゃあ、これは馬生系の誰かから習ったんだろうか? ……って考えるわけです。
タツオ そういう、わずかなヒントから探し当てていくわけですね。
広瀬 で、馬生の弟子である雲助の『富久』を聴いてみたら、一之輔との類似点が多々あった。実際、一之輔さんに「雲助師匠から習いましたか?」と聞いたら、正解でした。
タツオ ビンゴだ! すごいなぁ。
(対談司会:九龍ジョー、取材構成:山本ぽてと)