失礼します。wattoさんに言及していきます。差別する自由について書かれていました。面白かったです。ツイッター村も面白いですね。
僕が記事を読んで真っ先に思ったのが自由という言葉の射程についてでした。
ツイッターで差別をする自由もあると発言した女性が自由の恣意性を誰が決めるのですかといった問いかけをしていますが、恣意性について明確に述べておく必要があると思い記事を書いていきます。
差別をする自由はない、という命題をwattoさんは挙げていましたが
広義で自由という言葉を捉えるのであれば差別する自由はあると「言えてしまう」ことがこの問題の根本のような気がいたします。自由と書けばもう自由以外の意味などないようにとってしまいそうになります。しかし自由という言葉がどこまでの自由を包含するのか、また意見を発した個人がどういう意味で自由という言葉を使っているのかによってだいぶ印象が変わってきます。つまり自由について議論する時に自由という言葉の広範さによってコミュニケーションが成立していない可能性があると思うんですよね。
例えば新自由主義(ネオリベラリズム)と自由主義(リベラリズム)と完全自由主義(リバタリアニズム)の違いについてですが
日本語で訳すのであれば上記3つはすべて自由主義と訳すことも可能です。しかしすべて自由主義と訳すとなると大変な錯誤が生まれてしまうでしょう。
自由主義者という言葉を読んだ時に政治的なイデオロギーに詳しい人であればリベラリズムと訳して読む。しかし政治に詳しくない人が自由主義という言葉を見れば自由を絶対視する自由至上主義(リバタリアニズム)と読むかもしれない。両者には明確な違いがある。リベラルのいう自由は絶対不滅の価値観ではない。
3つの違いについて説明しますと
リベラリズムはリベレイション(解放)という属語があることからわかるように解放主義という意味が強い。ゆえにリベラルのいう自由は弱者の解放や公共の福祉も重んじる。wattoさんは差別からの自由を尊重する解放主義という意味でリベラルと言っていいと思います(間違っていたらごめんなさい)。
リバタリアニズムは自由至上主義と訳されることが多い。自由を最上位の概念としてとらえて経済活動も市場原理主義の立場をとり政府も必要ないととらえます。他者の身体や私有財産を侵害しないかぎり個人のあらゆる行動や意志は自由であるという立場から自由意志主義とも訳される。つまり差別する自由はあると考える立場の人ですね。
ネオリベラリズムはリバタリアニズムとほぼ同一ですが一般に経済的な意味でのみ用いられる言葉で俗にいう市場原理主義者。政治が財政政策などを行うことを批判しています。
英語ですとリベラリズムとリバタリアニズムには明確な違いがありますが日本語で自由という時にどの自由のことを言っているのかが時に曖昧になってしまいがちのような気がするんですよね。同じ自由主義者という立場にありながらも両者は対立する構造になっている。
「差別する自由」という言葉を発する側は意志の自由を言っているのにたいしてそれを批判する人もまた自由という言葉を使う。自由(リバタリアニズム)を自由(リベラリズム)で批判することになる。これが話をややこしくしている。
個人的にはリベラルという意味で使われる日本語の自由は尊重や解放という言葉に置き換えたほうがいい気がしています。
つまり自由を完全無欠フルポジティブな意味で使うから両者が譲らずにわけがわからなくなるので明確に
自由より尊重のほうが大切だろ、と発することがこの議論の突破口になるかと思うんですよね。
最後になりますがリバタリアニズムとリベラリズムの違いを勝手にMVで紹介。動画です。
リバタリアニズムの世界の歩き方
リベラリズムの世界の捉え方
以上です。