近江源氏

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近江源氏
家紋
本姓 朝臣
家祖 源成頼
源成頼の四男)
種別 皇別
出身地 山城国
主な根拠地 近江国蒲生郡佐々木庄 ほか
支流、分家 出雲源氏
佐々木氏武家
六角氏武家
京極氏武家
大原氏武家
高島氏武家
加地氏武家)ほか
凡例 / Category:日本の氏族

近江源氏(おうみげんじ)とは、中世近江国に土着し本拠とした源氏の流れを汲む一族の呼称。以下の数流がある。最も著名な佐々木氏一族については佐々木源氏などとも呼ばれる。



発祥[編集]

歴史[編集]

鎌倉 3代将軍源実朝の死後に、摂家出身の将軍を迎えた幕府は、執権北条義時が勢力をのばし全国の武士の統領として、天下に君臨するようになった。そうして承久3年(1221年)5月15日、上皇は全国の武士に、北条義時追討の院宣を下した。阿波国では、佐々木経高の嫡男で守護代の佐々木高重が、阿波兵600人をひきいて撫養の港(現:鳴門市)から、父のひきいていた淡路国の1700余の兵と合流し上京した。上皇の期待に反して、兵は思うように集まらず、有力な守護達は幕府側へ着いてしまった。圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国もとへ逃げ帰った。この戦いで、阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、600余の兵もほとんど阿波へ帰らなかったという。これが承久の乱である。 阿波国に対しては、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清阿波守任じた。長清は阿波へ入ると、佐々木氏の居城であった名西郡鳥坂城を攻めた。ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、留守を守っていた経高の二男高兼は、一族や老臣らと城を捨てて、名西郡の山中鬼篭野村へ逃げた。しかし小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、高兼は一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り、腹を切って自害した。現在、神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害したところで、同地区に多い佐々木姓は、かっての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる(ふるさと森山 鴨島町森山公民館郷土研究会)。

清和源氏流の近江源氏[編集]

関連項目[編集]