小林よしのりが『わしズム』(p17)でも引用している、知里真志保(1909-1961)の『アイヌ民譚(みんたん)集』の後記を資料として全文紹介したい。
なお、知里真志保は昨年で死後50年を経過し、著作権は消滅しており、全文引用は問題ない。
『アイヌ民譚集』は1937年に出版されたもので、アイヌに伝わる昔話(ペナンペ・パナンペ話)をまとめたものである。彼の著書としては初期のものである。
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/books/026.html
岩波文庫に収録されているが、残念ながら今は品切れのようである。ネットで検索すると古本では手に入る。
岩波文庫版は時々増刷されているようである。
また平凡社の『知里真志保著作集』にも収録されている。
近代に生きたインテリとして、葛藤しながらアイヌ語に取り組んだ、若き(28歳)知里真志保の苦悩や怒りが行間ににじみ出ており、多くのことを考えさせられる。
なお、小林の引用の仕方や解釈は問題も含み、これについては改めて論じたいと思う。
原文に付せられたアイヌ語のルビは[ ]で囲った。
読みづらい漢字や分かりにくい表現については、〔 〕で囲ってルビを振ったり説明を付した。
後記
私が一高へ入つた当時,物見高くして傍若無人な,そしてデリカシイなどは寧ろ無きを以て得意としてゐるかの如き一高生は,田舎から出て釆たばかりの,それでなくてさへ或る種の引け目から始終おどおどして居た私を包囲して,「熊の肉や鮭の肉を主食として育つた君が,こちらへ来て米の飯ばかり食べてゐて体には何ともないか」とか,「口辺に入墨をした娘を見馴れた眼に,日本娘はシャン〔=美人。もとはドイツ語〕に見えるかい」とか云つた類の,取りやうによつては随分と痛い質問を浴びせては,気の弱い私をひそかに泣かしめたものであつた。併しながら,州郡の粋を集めたと自称する一高生の,何等皮肉の意味でなしに発した此等の質問は,当時の内地人一般がアイヌに関して有してゐた認識の実際の程度を示したものとも見られる。しかもこの種の認識不足が,五年後の今日に於ても,何等改善されてゐないことの証拠を,私は,私の周囲にそこはかとなく捲起つて来る事件の中に,いくらでも見出すことが出来る。
私の最も親しい友人の細君が何処で読んだか「アイヌの娘は下の方よりもお乳を大事にするんですつてね」と云ふので,「そんなことはないでせう」と私が否定すると,「だつて野蛮人は一般にさうだと云ふぢやありませんか」と云ひ切るのだつた。此の場合の野蛮人といふ言葉は,何の悪気もなしに発せられたのではあらうけれども,それだけに私は却つて,アイヌは野蛮人であるとの意識が,内地人の脳裡に根深く潜在してゐることを知つて,悲しく思つたのである。
アイヌは決して――その語の正当な意味に於ては――野蛮人ではなかつた。松前藩が小藩の微力を以て広大なる蝦夷地を統治して行く必要上,アイヌを出来るだけ愚かな状態に置かうとして,和人との混住,蓑〔みの〕・笠・草鞋〔わらじ〕の着用,和人語の習得などを厳禁し,ひたすら日本文化の流入を避けるのに腐心してゐた当時に在つてさへ,アイヌはリュヰス・モルガンの所謂未開時代の,少くとも中層状態までは進んで居たと見ることが出来る。にも拘はらず,未だにアイヌを野蛮人扱ひにする人のある裏面には,色々の原因が考へられるであらうが,私は特に文字を通しての影響を問題として取上げて見度い。
文字を通しての影響は二つの方面から考へることが出来る。第一は学術的な記述である。此等はその意図する所が,専ら過去に於けるアイヌ生活を描くに在つたにも拘はらず,恰も現在のそれであるかの如く,世人の脳裡に誤つて印象せられがちな憾〔うらみ〕があつた。例へば最近に世に出た最もすぐれた国語辞典のアイヌの条を検して見ても,アイヌは北海道樺太に残存する原始民族で,男はアツシを着,女は入墨をなし,最も重大な行事として熊祭を行ふ,と云ふ様な意味のことが書いてあつて,知らない人が読めば今のアイヌも矢張さうであるかの如き印象を抱かしめる。これは書く人の注意の行届かない点も勿論あるが,概念上の喰ひ違ひがまた重要な原因になつてゐる。
普通に所謂「アイヌ」といふ概念は,厳密にこれを云ふならば宜しく「過去のアイヌ」と「現在(及び将来)のアイヌ」とに区別せらるべきである。人種学的には両者は勿論同一であるにもせよ,各々を支配する文化の内容は全然異る。前者が悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負つて立つたに対し,後者は侮辱と屈辱の附きまとふ伝統の殻を破つて,日本文化を直接に受継いでゐる。だから,「過去のアイヌ」と「現在(及び将来)のアイヌ」との間には,截然〔せつぜん〕たる区別の一線が認識されなければならないのである。普通に「アイヌ生活」とか「アイヌ民俗」とか云へば,必然的に「過去のアイヌ」の生活や習俗を意味すべき筈なのに,兎角〔とかく〕「現在のアイヌ」のそれの如く誤解されがちなのは,当然に区別さるべき二概念が,「アイヌ」なる一語によつて漫然と代表せられてゐることに起因する。
文字を通しての悪影響の第二は,ジャーナリズムの悪意である。曽つて一人の男が生活苦に堪へられずして,ささやかな心得違ひをしたことがあつた。その際に新聞は「アイヌ盗む」と云ふ表題で三面記事を掲げた。「メノコ襲はる」とか,「旧土人自殺す」とか,「旧土人にも恵みの春」とか,良きにつけ悪しきにつけて,必ず「旧土人」なる名称を特筆大書するジャーナリズムの悪意は,知らず識らずの間に一般人の脳裡に差別観念を植付けるのに役立つてゐる。又弘前出身の或る有名な通俗作家は自己の小説の中に再三再四「アイヌ」なる語を悪口代りに用ひてゐるし,大学教授上りの或る有名な済稽小説家は,自己の小説に滑稽味を加へるために,アイヌに関して実に荒唐無稽な挿話の作為をさへ敢てしてゐる。その他教育家のくせに「アイヌと熊」などといふ衒奇的な題目を掲げて,ジャーナリズムに迎合し,以て世人の印象を誤らしむる徒輩もある。
斯くて,今日に於ても尚,案外に多くの人々が,アイヌとさへ聞けぼ,未だに熊と交渉を有つて,文献の示すが如き原始的な生活を営んでゐるものと想像し,アイヌ民族に関して何か書く所があれば,それが直ちに現在の生活であるかの如く思惟してしまふ。例へば今でも男は楡〔にれ〕の皮糸で織つたアツシなるものを纏ひ,女は口辺に入墨を施し,熊祭の行事を営み,鮭や熊の肉を主食物と為し,暇さへあれば詩曲[ユーカラ]や聖伝[オイナ]を誦し合つて,老も若きも例外なしにアイヌ語の中に生活してゐるものと思ひ決めてしまふ。
併し乍ら実際の状態はどうであつたか。なるほど未だに旧套を脱しきれない土地もあるにはある。保護法の趣旨の履違へから全く良心を萎縮させて,鉄道省あたりが駅頭の名所案内に麗々しく書き立てては吸引これ努めてゐる視察者や遊覧客の意を迎ふべく,故意に旧態を装つて以て金銭を得ようとする興業的な部落[コタン]も二三無いでは無い。けれども其等の土地に在つてさへ,新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて,着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである。
これを私の郷里――北海道胆振国幌別郡幌別村――だけに就いて云ふならば,そこでは最早,炉ぶちを叩いて夜もすがら謡ひ明かし聴明かす生活は夢と化し,熊の頭を飾つて踊狂ふ生活に至つては夢の又夢と化してしまつた。新しい社会に於ける経済生活の圧迫や,滔々として流込む物質文明の眩惑は,彼等をして古きものを顧るに遑[いとま]なからしめた。生活の凡ゆる部門に亘つて,「コタンの生活」は完全に滅びたと云つてよい。四十歳以下の男女は勿論のこと,五十歳以上の男子と雖[いえど]も,詩曲[ユーカラ]・聖伝[オイナ]の如き古文辞を伝へ得る者は殆ど無い。纔〔わず〕かに残つてゐる数人の老媼たちですら,今では全く日本化してしまつて,其の或者は七十歳を過ぎて十呂盤〔そろばん〕を弾き,帳面を附け,或者はモダン婆の綽名〔あだな〕で呼ばれる程にモダン化し,或婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである。毎日欠かさず新聞を読んで婦人参政権を論ずる婆さんさへ居るのである。内地人の想像さへ許さぬ同化振りではないか。
以上は私の生れた幌別村の現状である。私は生れたのは幌別村であつたが,育つたのは温泉で有名な登別であった。そこでは最早アイヌの家が二三軒しか無く,日常交際する所は殆ど和人のみであつたから,私は父母がアイヌ語を使ふのを殆ど聞いたことが無かつた。だから,祖母と共に旭川市の近文コタンで人と為つた亡姉幸恵は別として,私達兄弟は少年時代を終へる迄殆ど母語を知らずに通したと云つてよい。私が意識的にアイヌ語を学び始めたのは,実は一高へ入つてからのことである。本来は母語である筈のアイヌ語も,私に関する限り,英語・仏語・独語などと全く同様に,遥か後になつて習得された外国語に過ぎない。学校の休みで帰省する毎に,幾らかの暇を割いては前述の婆さん達を訪ねて廻り,一語一語の意味を,根問ひ葉問ひしては丹念にノートへ書留めて,どうやら詩曲が分るやうになつたのはつい最近のことである。従つて金田一先生が本書巻頭の序文に於て「吾々ストレインヂャーによつて歪められざる,純真な話し手の言語感情を知る為に云々」と仰せられたのは,矢張〔やはり〕一般の先入観念によつて,不用意にも歪められたお言葉である。私がその中に生れ,それと共に廿〔=二十〕数年間生活して来た所の日本語に於てこそ,本当の言語感情が湧くであらう。僅か数年の,それも総計して十回に充たざる帰省によって,片手間に獲た所のアイヌ語の智識は,謂ふところの「話し手の言語感情」なるものからは,未だまだ遠い所に在るのである。若しもさういふ意味に於て,私の訳文を一般の和訳と別価値に見ようとするならば,それは飛んでもない誤解であることを,特にお断りしておく。
今本書に収めたパナンペ説話の大部分は,私がアイヌ語を学び始めた頃の筆記を整理したものである.総数十五に満たない少さではあるが,村の現在はもう此れ以上の採集が望まれないやうな状態になつてしまつた。婆さん達も,パナンペ説話なら未だ未だ幾らでもあると云ひながら,もはや思ひ出すことさへ出来ないほどに忘れはててゐる。私は決してそれを悲しむものではない。反対に,暗い陰に包まれてゐる古い伝統を忘れ去つて,一日も早く新しい文化に同化してしまふことが,今ではアイヌの生くべき唯一の道なのであるから,幌別村が他村に百歩を先んじて,早くも然ういふ状態に立到つたことを,私は寧ろ喜ばしく思ふものである。それとともに,捨てて置けば当然に跡形もなく朽果ててしまつた筈の古い生活の断片を,僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残すことを得た愉快さを私はしみじみと感ずるのである。
此書を編む機縁ともなり,且つ御懇篤な序文をさへ賜はつた恩師金田一先生,また先には亡姉幸恵の,そして今また私のささやかな原稿を進んで世に送ることの役目を引受けて下さつた郷土研究社の岡村千秋氏,並びに私のアイヌ語の教師を勤めてくれた故郷の老媼たち――特に伯母金成マツ子――に対して,それぞれ心からなる感謝を捧げてペンを擱く。
昭和十年二月十八日
知里真志保