愛するとは信じること。愛してるから信じるんじゃない。「愛してる」は「信じてる」です。「信じてる」が「愛してる」とは限らないだろうけど。
愛する人が誰かに傷つけられたことを知れば、愛する人の言い分を100%信じる、信じてしまう。寄り添いたいと思う。支えてやりたいと思う。
その後の寄り添い方・支え方は人それぞれで、そこで過ちを犯すことはあるかもしれない。でも一度過ったくらいで、生まれた愛は消えない。なかったことにされてはいけない。
愛してる人のことを信じてるだけなのに「せめて両者の言い分も聞いてから判断しろよ」みたいなこと言ってるヤツがいるとバカ野郎!とののしりたくなる。極論、どっちが正しいかとか関係ない。愛してるものを信じてしまってるだけだ。
ただ、愛してる・信じてるからって何をしてもいいわけではない、でもそれは別の話。
我々は愛する人がいたり愛するものがあったりするから革命闘争をします。革命は権利を獲得するため、アイデンティティーを勝ち取るためにある。
革命と戦争は違う。戦争は奪うが、革命は生む。奪わないと得られないようなものにはあまり価値がない。
日常において戦争状態に置かれている俺たちは、エンターテイメントの中に革命を見る。革命途中に戦争を仕掛けてくるやつはクソだ。
みなそれぞれの信じ方で、闘っている。価値観がぶつかり、殴り合いになってしまうことはあるだろう。でも他人の信仰や愛を否定した場合は糾弾されてしかるべきだ。信じたり愛すること自体は自由だから。それは心の中のできごとだから否定してはいけない。
愛し方や信じ方があなたを傷つけたならもちろん怒っていいけど。
人の愛や信仰を揶揄したいのなら内輪のサークルでやればいい、絶対にバレない陰口で溜飲を下げてりゃいいだけの話だ。公の場で人の愛を否定してはいけない。
愛してもらえたから、信じてもらえたから、とことん報いる。過剰なまでに。それは傍目には異様に映るかもしれない。
しかし愛は直視しないと捉えられないのだ。愛のまなざしは第三者には分からないのだ。
愛は常に1対1だから、他の人間にはその愛の意味は分からない。
正直、俺は上に書いたような理念をこれっぽっちも体現できていない。でも現時点では、これが俺の理想だ。理想を信じ続けることができたら、少しずつでも成長できる。
「俺は成長できる」と自分を信じられるようになったから、いま俺が生きている。