少女庭国

 

 空恐ろしい小説を読んでしまったので、久しぶりのブログ更新。

 

 

『少女庭国』と題されたこの小説、2014年に出版された当初からその存在自体は知っていたのだが、ラノベチックな表紙とあらすじにすっかり騙され「どうせ山田悠介あたりに影響受けたような安っぽいデスゲームものだろう」とスルーしてしまっていたのだが、最近になって某所で奇書怪作との評判を耳にするや手の平を返し、ついでに指先も翻してKindle版をポチってしまった次第である。

 いや、まったく上述のような偏見で見過ごしていた自分の審美眼のなさが恥ずかしい。この作品は巷にあふれるデスゲームもの、バトルロワイヤル系作品に対するアンチテーゼであると同時に、そのジャンルの可能性を大きく開拓するものでもある。また、それにとどまらず「物語」そのものに対する強烈な皮肉すら込められた怪作であった。

 

 以下、まずあらすじから引用するが、以降もネタバレ全開で感想を述べていくので、あらすじで興味を持ち、かつ予備知識なしで読んでみたい方は、読了後にまたここを覗いて頂けると幸いである。(ただ、私自身は本作においてネタバレなど大した意味をなさないと思っているが)

 卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。

 

 このあらすじだけ読むと理解に煩わしく感じるが、物語の土台となる設定は実にシンプルなものだ。

 立川野田子女学院、通称「立女」の第八十期卒業生である中3女生徒達が、卒業式会場へ向かう途中で突如意識を失い、個別に石造りの部屋に閉じ込められる。この部屋の両脇には扉があり、一方向の扉しか開けることができない。

 その開けられる方の扉を開くと、また別の生徒が寝ており、最初に目覚めた一人以外は別の誰かが扉を開けるまで起きないようになっている。各部屋に貼られた問題の卒業試験の内容「ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ」 というのも簡単な話。

 最初の一人がドアを開けると「ドアの空いた部屋」は2部屋になり、生徒の数は2人になる。そのうち1人が死ぬと、もう1人は脱出できる。もう一つドアを開ければドアの開いた部屋は3部屋、生徒は3人になる。このうち2人死ねば残った1人は脱出できる。つまり何部屋開けて生徒が何人に増えようとも、生きてこの空間から抜け出せるのは1人だけ、ということだ。

 

 この舞台設定自体は特に感心するようなものでもないどころか、世にあるデスゲーム作品の中でもかなり無理のあるご都合主義設定だと言わざるを得ない。部屋が開けられるまで時が凍結したように目覚めない生徒達、そんな生徒達と不思議な部屋が無限に続いていて、しかも同じ学校の卒業生なのにお互いに一切の面識がないときている。

 こうした無理のある設定は、一見して仮想現実空間や夢オチなどを使わない限り仕組みを解き明かせない世界であることが察せられ、凡庸な書き手が扱ってもまず陳腐なものにしかなりえないだろうと思われる。

 そう、二流の書き手であれば、こうした設定を考えた時(あるいは与えられた時

 )そこからどのような物語を編み出すだろうか。私は作家ではないので自力ではとても思いつかないが、既存の同ジャンル他作品に倣えば、一つのパターンくらいは想像がつく。

 初めに扉をいくつか開けて仲間を増やし、仮初の協力関係を築こうとするが、脱出の手立てが見つからないまま空腹や疲労感に襲われ、どうあがいても利害が一致しないことに気づいた面々の裏切り、騙し合い、などが展開されて、互いが疑心暗鬼に陥る中、現世にいた頃の回想、語り合いなどが入り、そうした中で本当に信じられる仲間を見出し、なんやかんや人間ドラマが展開されていくうちに、この世界のシステムの穴を発見し、見事脱出、満を持して現実世界の黒幕と対峙、to be continued  みたいな感じだろうか。(自分で書いててなんだが、まぁ陳腐である)

 

  では、本作『少女庭国』はこの設定からどのように展開されていったのか。

 一言で言えば、「羅列」したのである。

 

  この小説は大きくは「少女庭国」「少女庭国補遺」の二章で構成される。一章は全体の25%ほど、二章は残り75%と、二章に大きく比重を置いている。

 一章「少女庭国」は羊歯子なる少女を中心に語られる。件の石部屋の扉を深い思慮なしに開け続け13人まで増えてしまった彼女達は、もはや誰か1人の脱出のために12人が死ななくてはならないというバトルロワイヤル不可避な状況を作り上げてしまう。 結局彼女らは呑気にリッツパーティを満喫した後、各々の自己紹介を経て誰が生き残るべきか投票で決めるという手段を取り、選ばれた羊歯子が残りの生徒を殺害したところで一章は幕引きとなる。

 ここで一つ重要なのは、羊歯子が脱出した様子も、現世での後日談も書かれていない、というところだ。

 

 この一章はデスゲームものの展開としてはそこそこ、くらいの面白さであった。私はそろそろいい大人になる年齢(端的に言えばオッサン)なので、この中3女子達の会話や行動がリアルなのかは判断し難い。しかし、ちょっと背伸びしたような小賢しくも砕けた言葉使いや、状況を理解しているのかいないのか分からない呑気な行動、多数派の殺される側より一人ぼっちの殺す側に選ばれた生徒の方が激しく動揺し始める様、などは妙に生々しく感じた。

 と、この時点で私はまだこの作品をデスゲームというジャンルの枠内で読み解き、佳作程度の評価を下しかけていたのだが、続く次章「少女庭国補遺」でその上から目線の不遜面をぶん殴られることになる。

 

 二章「少女庭国補遺」はページを開いた瞬間から異質なものを感じる作りになっている。

 一[安野都市子]、二[奥井雁子]、三[三島支部子]、四[後藤軸子]……というように、生徒の名前と無限石部屋での彼女達の行く末がわずか2~4行ほどで文章で淡々と無機質に羅列されていく。貼り紙を読んで即座に隣室の生徒を殺す者、即座に殺しにかかったが返り討ちに遭う者、自殺する者、仲良くなった後に殺し合う者、数人で心中する者、病死する者……。

 なんだこりゃ、趣味の悪いマッドな研究者の観察記録か何かか? と疑り始めた19人目の加藤梃子からまた一変、20ページほどの物語が展開される。

 彼女は石部屋の扉をひたすら開け続け3000もの部屋を開放、3000人もの生徒を叩き起こしてしまう。3000人もの大行列は石部屋の通路で渋滞を起こし、もはや卒業試験どころではなく、食料も何もない空間で途方にくれ飢えた彼女達はいつしか排泄物を食べ始め、やがてそれも賄えなくなり、とうとうカニバリズムに走る。進行方向の新しい生徒が眠る部屋は、いつしか食料庫のごとき扱いになり、数万人まで増えた群衆は前方集団と後方集団で食料の格差が生まれ、それを原因に闘争が起こり、人口抑制の有用性を発見した集団がひたすら殺し合って、ついに最後の一人になったどこかの誰かが脱出要件を満たすのだった。

 

 と、この調子だと全編要約してしまいそうなので、ざっくりまとめると、これ以降「開拓」というキーワードの下、無限に続く石部屋の中で新しい文明を築こうとした生徒達の行く末が羅列されていく。僅かな資材から道具を生み出し、石部屋を広げ、奴隷制度を作り、生活が安定してくると哲学が発生し、娯楽が生まれ、農作に挑戦し、政府が成り立ち、学校が生まれ、いずれも最後には滅びる。

 デスゲーム小説読んでいたはずが、気づいたらいつの間にか人類史をなぞっている。全くわけがわからない。

 こうした文明は何度も滅んでは遺跡となり、またその遺跡を発見する別の生徒集団が出現し、と、生徒達の行動パターンの羅列は、もはや死に様や殺し方などという既存のデスゲームものの枠を遥かに超えてジャンル分けの不可能の奇っ怪な観察記録と化す。

 

 

 しかしこうした混沌とした展開と裏腹に、だんだんとこの小説の骨髄が顕在化してくる。

 して、ようやく解釈に入る。

 この小説には「主人公」がいない。時折長いエピソードを担当する人物はいても、最後には「……という末路を辿った生徒もおりました」とでも言うように一パターンとして並べられるだけである。

 新しい登場人物を出しては、とっかえひっかえ雑に使い捨てる。これはまさに無限に生徒を供給する作中の石部屋そのものだ。登場人物たちは小説内では石部屋から湧いて出てくるが、メタな視点では作者の頭の中から文字文章としてアウトプットされているわけだ。この石部屋=作者の頭という構造に気がつけば、無限の空間、無限の生徒なんて無茶な設定を作ってまで、この小説が表現したかったことが見えてくる気がする。

 よく、作家が筆のノッてる状態を「登場人物が勝手に動き出す」などと表現するが、よく考えると極端な話、舞台設定と登場人物の設定(性格や人間関係など)を徹底的に細かく作り上げることができるなら、登場人物が自律的に動き始めて当然ではないのか。

 この状況ならこういう性格の人間はこう考えこう動く、こう言われたらこう言い返す。作者はそれを見て書き留めるだけ。もしそんな境地に辿り着ければ、物語は想像ではなく観察の産物になるだろう。無論、実際はそうスラスラと書ける人間などいるはずもなく、この小説だって頭を捻って絞り出すように書かれたに違いない。

 しかし、私にはこの小説が「ごく普通のキャラクター達が特異な舞台に放り込まれた時、いかに奇怪な(ように見える)行動に走るのかを観察する」ようにして書かれたとしか思えないである。

 ただし、この小説に「狂人」は登場しない。排泄物を食し、扉の向こうで眠る同校の生徒を食料か奴隷にしか見ていない彼女達の行動は常軌を逸しているように見える。しかし彼女達が狂ってしまったのではない。狂っているのはただ舞台設定だけである。生徒達は狂った舞台の上で正常な思考に基いて行動している。(そもそも、この卒業試験の最も合理的かつ人道的な解答は最初の一人が隣人を殺すことなのだ。それで二人に一人は脱出できる)

 一部気が触れてしまったとされる人間もいるにはいるが、彼女達はその様子を詳細に描かれることのないまま一言二言の説明で退場させられる。「狂ってしまった人物はもう観察対象でない」とでも言わんばかりに。

 

 さて言ってしまうと、結局この小説内には観察記録をつけるマッドな研究者や、スナッフビデオを観るかのように楽しむ大富豪などの黒幕的存在は登場しないし、石部屋の仕組みも目的も、その一切が明かされることはない。脱出後の後日談なんてものもないし、もっと言えば誰一人「本当に脱出できた」という描写はない。

 ただ、唯一終盤に登場する「先生」と呼ばれる人物、もちろん彼女も元生徒だが、彼女だけはこの世界の黒幕的存在についての考えを語っている。

 

「たとえば(石部屋の)ドアならドアを人なら人を、見ている人がいるとしてだが。きっとどこか高み的な外部から眺めてるんだろう。今この瞬間もね」

(中略)

「基本的にはやっぱ私らは二人に一人脱出するのが一番なわけじゃない。 一番手早く一番利がいい、 合理的な振る舞いを前提とするなら二三行で話は終わることになる。 長く留まるやつほど馬鹿なんだと思うよ。 合理的に動けないというか。合理的に考えられる利口な子は可及的速やかに空間から排除され、抽出した残りの馬鹿に殺し合わせる システム」

「何で また」

「ある程度能動的に関わってくれる人でないと成立しないんじゃないかな。たとえば自由に遊んで欲しいなら強制で固めるわけにもいかない。 合理性とかあんまなくても個人的に行動してくれて、都合よく状況に能動的に関わってくれる馬鹿ばかり時間当たり大量に抽出出来れば、合理的なルールや阿漕なシチュエーションを上手に作れなくとも、 そちらで勝手に動き回ってくれる。(中略)シチュエーションだけ作って最初だけ手を入れて、あとは窓とかディスプレイとか見られる媒体があれば何もせずともぼんやり眺めてられる。日々伸びる背を、色づく様を、 咲いては枯れる観賞用の殺し合いの種を撒いた無限の庭の移り変わりを」

 

 ここは普通に読み進めていけば、単に作中における黒幕の存在を示唆する台詞にも思えるが、それを含めていたとしても、作者や読者といったメタな存在まで意識した台詞なのはほぼ間違いない。その証拠に、彼女の言う「利口な子」達は作中で実際に2、3行で淡々と紹介が済まされているが、行動力のある馬鹿については喜々として数十頁に渡って詳細に語られる。なにより、脱出したとされる人物のその後が一切書かれない理由もここに見出すことができるだろう。

 やはりというか、結局のところ、この小説はデスゲームものの皮をかぶった思考実験的な観察記録なのだ。それも「特異な環境下における人間の行動記録」では不十分で「特異な舞台設定における登場人物達の行動記録」というほうがより正しいと思われる。デスゲーム設定というのはあくまで「特異な環境」を生み出すために都合の良いシチュエーションとして使われたに過ぎない。

 作中に黒幕が登場しないのは、初めから「作中の人物としての黒幕」など存在しないからであると考えるのが最も納得がいく。では、誰が少女達を石部屋に閉じ込め、こんな無益な実験を繰り返しているのか。もちろん、作者である。

 何を今更、身も蓋もないことを。作者が自作の登場人物を支配してるなんてどんな作品でも当たり前じゃないか。と、思われるかもしれないが、この作品でのミソは「登場人物達が作者の手を離れ自律的に行動している体で」それを「作者がダイレクトに観察しようと試みている」という点だ。つまり、一般的なデスゲームもののように、作者が作中の黒幕的人物を通してゲームに巻き込まれた人物達を監視管理しているのではなく、そういった作中の世界と現実を繋ぐ媒介的な存在をすっ飛ばして、作者自らが黒幕としてこの箱庭世界を上から覗き込んでいるわけである。

 作者はただ、舞台と人物を用意しただけであり、物語は彼女たちが自ら作り上げる。作者はそれを見て楽しむ。まるで自分がプログラムした人工知能の成長を見守るように。そして我々読者は、作者がそれを見て楽しんでいるところまで想像して、楽しむ。

 まったくもって悪趣味な小説だと評さざるを得ないが、この趣味の悪さはしかし、世のあらゆるフィクション、物語が「感動」「驚き」「恐怖」などの皮を被って少なからず含んでいる性質のものだと気づかなければなるまい。作者がそういう皮肉を含めたのかどうかはさておくとして。

 

 では、そんなとても収拾のつきそうにないこの小説のオチはどうなるのか。まぁ自分で読みたい方はそうしてもらってもいいが、なんのことはない。目覚めたばかりの二人の少女が、それぞれの部屋の中で扉越しに語らっているところでこの小説は静かに幕を閉じる。最後まで黒幕や謎の解明を求めていた人達にはかなり不満だと思われるが、私個人の意見としては、

 

 完璧である。

 この小説の幕引きとしてこれ以上のものは思いつかない。

 

 まず、全編においてこの最後の二人の少女だけが、その「末路」を描かれない。殺し合ったのか、心中したのか、はたまた開拓に走ったのか。書かれない事実は存在しないのと同義だ。さらには、一旦開けたドアを閉めて、それぞれの部屋に戻ってしまうという行動の生産性のなさ。観察対象として最もつまらないパターンに違いない。

 これは作者によって散々弄ばれ続けた登場人物たちが最後に見せた、ほんの細やかな抵抗であるように思えてならない。無論それを文章にしているのは作者自身であることを考えれば、これはほんの僅かな懺悔である、ともとれる。最後の最後で二人の行く末を頭の中の石部屋に留めた作者に、この上ない賛辞を送りたい。

 

 が、一読書家として、正直こういう小説はそう多く世に出てきて欲しいものではないなぁ、とも思うのであった。