「ビジネスモデル」という言葉が嫌いだ。
憎しみを抱いて嫌悪するというより、不意にその一語に遭遇すると、暗い部屋でナメクジを踏んづけてしまったような、鳥肌の立つ気持ちの悪さを覚える。そして、不覚にも自分でその言葉を使ってしまうと、いかさまを働いたようなバツの悪さに赤面する。
企業が営むビジネスの複雑性を、一つのモデル、つまり雛型に還元してしまおうとする言葉は、さらにその雛形を未来に当てはめれば、将来のキャッシュフローさえ予測できるかのような仕草を見せる。日常の複雑性を征圧し、未来の不確実性を排除しようとする言葉の不遜に、薄気味悪さを感じるのだ。
だがビジネスモデルは、そのもっともらしさ故に、つい使ってみたくなる一語でもある。事実、パートナーと共に新しい会社を創設して間もない筆者は、この胡散臭い言葉を発する誘惑に身を任せては、直ちに後悔する過ちを繰り返してきた。
例えば先日、金融機関からの借り入れを検討するにあたり、融資審査の担当者と面談する機会があった。
「まず初めに、新しい会社のビジネスモデルを、簡潔に教えてください」
融資先の返済能力を断じようとする金融機関として、ごく自然な質問を、担当者は涼しい顔で提示してくる。
ナメクジを踏んづけてしまったような気持ちの悪さに一瞬尻込みするものの、金融機関を相手にもっともらしい話を披露したい衝動にあっさり負けて、筆者は、まるでパートナーと共に緻密なビジネスモデルを描いたことがあるかのような、羞恥心のかけらもない仕草で語り始めてしまう。
不思議なことに、その言葉をいったん発してみると、何となく頭の良い話をしている錯覚に見舞われる。決して嘘こそつかないが、調子に乗って、「付加価値」、「参入障壁」、「限界利益率」などと、ビジネスモデルの子分のような、見栄えが良い言葉を並べるうちに、脳内でエンドルフィンが分泌して、どんどん気持ちよくなっていく。
ビジネスモデルという言葉は、何か賢いことを言っているかのような万能感をもたらす麻薬として脳に作用する。
だが金融機関との面談が終わり、晴れやかな表情を纏った担当者が部屋を出てしまうと、脳内麻薬の効果がみるみるうちに低下して、あとには虚しさだけが残る。
自信に満ちた説話を求める聞き手と、それを語る快感に溺れる語り手の共犯関係のうちに、大小様々な企業に関する如何わしい物語が捏造され、社会に流布している。この空虚な流通に加担してしまった罪悪感が一気に押し寄せて、居た堪れない気持ちになるのだ。