高校時代からの友人の河原が久しぶりに帰郷した。彼は今、プロの俳優として活躍している。メールでのやりとりは頻繁にあったが、直接顔を合わせるのは五年ぶりだ。彼も私も三十九歳になった。けっこういい歳だ。
「この店、ほんといいよな」
だろ、と私も笑顔を返す。私も彼も酒が一滴も飲めない。店は店でも喫茶店なのだ。二人とも、大のコーヒー好きでもある。
少し懐古的な内装で、音楽がうるさくなく、長居できる店が私と河原の好みだ。この趣味は高校生のころから変わらない。気に入った店を見つけては、美術や映画、文学、音楽を、飽きもせず語り合ったものだ。
「俺たちの好きそうな喫茶店をまた何軒か用意しといてくれよ」。六日前の電話での会話だ。いくつになっても子供っぽさの抜けない自分たちを十分自覚しつつ、それを楽しんでいる口調。私は今回、河原を連れていく店を四つほど決めていた。喫茶店の住所と雰囲気を手短かに話した。四つ目の店の場所を告げたとき河原が、「そこは、ちょっと近すぎるな── いや、べつに近くったっていいんだけど── 思えば、あれからそのへんには一度も行ってないんだよな── 」。よく意味のわからないことを半ば独り言の口調で言った。もともとそれほど勧めたい店でもなかったので、私はそこを外すことにした。ただ、河原のつぶやいた言葉が、妙に気になったことは事実だ。
三日目の夕方に河原を連れていった店は、文句のつけようのないコーヒーと、個性的な本棚をもった喫茶店だ。内外の幻想文学を中心に、詩集や画集もよく揃っている。奥へ長くのびる店内。レトロな笠をかぶった電灯がテーブルごとに天井から吊り下げてある。いちばん奥のテーブル席に、中年の男が今は一人でいるだけだった。ノート・パソコンを開いて無心に何かを書いている。私たちは入り口近くにあるコの字形に仕切られた席にきめ、テーブルの角をはさんで座った。
河原は本棚の場所へ歩いていき、本の背表紙を時間をかけて一つひとつ見ていった。「いいね。『変わり者の方だけ来店してください』って言ってるこのラインナップがいい」、何冊か手に持ってニヤニヤしながら席へ帰ってくる。六十がらみの寡黙な主人はコーヒーを運んでくるとすだれの向こうへ引っこんだまま姿を見せない。いつものことだ。〈猫カフェ〉でもないのに灰色の大きな猫がマスターの代わりとばかりにうろうろしている。ときどき膝の上にどすん、と乗ってきたりもする。河原は声をだして笑った。灰色の首筋を掻いてやりながら、
「この店、ほんといいよな」、空いた左手で私の腕もたたいてくる。
「だろ」と私も笑顔を返した。
高校生のころに戻ったような三日間が終わり、あと数時間後には河原を新幹線のホームまで送っていく。毎回、そうしている。思えば、彼がこの街を離れ、上京していくときもそうだった。たしか季節も今と同じ九月の上旬だったと記憶している。猫の背なかをなでる河原の横顔を見ていると、また当分会えないんだな、と寂しい気持ちになってくる。独りでいてもとくに苦にならない性格の私にとって、こんなふうに思えるのは昔も今も、やはり彼だけなのかもしれなかった。
「油絵、描いてるか」
膝の上の猫へ視線をやったまま、河原が聞いてきた。すこし金属的だが、心地よい声だ。
「描いてないよ」、私は笑って言った。「油は金がかかるからね。もっぱら水彩だよ。たまに飼い犬を描く。娘が喜ぶんだ。学校で友達に見せたら『私も描いてほしい』って何人かが言ったらしい。じっさい描いたんだよ。あと何枚か描かなきゃいけない」
河原はうつむいたまま、あいまいに微笑した。飼い犬の絵か、と低くつぶやいた。「いくつになった? 美樹ちゃん」
小三だよ、と私は言った。「どんどん生意気になる」
河原は片側の頬に意味のわからない笑みを含ませたまま、まだ目を伏せている。なぜかこちらも見ない。何か言いたそうに口さきをすこし動かしたのに気づいた。天井のスピーカーからはシューマンのピアノ曲が小さく流れている。ここではないどこかへ連れていかれそうになるメロディー。『子供の情景 第7曲 トロイメライ』。こんどは私が尋ねた。できるだけさりげなさを装い、
「このあいだの電話で、ちょっとそこは近すぎるとかなんとか言ってたよね」、いたずらっぽい表情をつくってみる。「なんかわけありみたいだ。よかったら教えてよ」
あぁ、あのことか、といった感じで河原も苦笑するかと予想していたのだが、こちらを向いた彼の顔には表情というものがなかった。目も唇も静止していた。一瞬、河原の顔と、妻の美佐子の顔がかさなった。けさは美佐子も比較的調子がいいように見えた。神経を落ちつかせるという漢方薬が思いのほか効いているのかもしれない。漢方薬のほうがもし身体に合うようだったら、なくなったらまた買いに行ってやろう。本人がいちばんつらいのだと思う。
発病したのは三年ほど前からだった。躁と鬱を交互に繰り返しだした。ヒステリー状態になることもあり、手当りしだいに壁へ物を投げつける。割れたコップの破片が美樹の頬に傷をつけてからは、罪の意識からか、鬱の期間が長くなったようにも思える。昔はギターを弾いて歌うプロの歌手だった。聴くだけで癒される声を持っていた。屈託なく、よく笑う女だった。私の母が脳出血から半身の自由を失ったこともあり、美佐子はギターを置き、歌うことをやめた。ことば数も減った。家にいてくれることが多くなった。私が、そう仕向けたようなものだ。── 無表情な美佐子の幻影が河原の面からゆっくりと消えると、懐かしむような、泣きたいような、今までちょっと見たことのない河原の表情がそこに残った。
「うん、そういえば、あのことは、おまえにもしゃべってなかったよな── 」
河原はそれだけ言うと、コーヒーカップの表面を親指でなで、ぼんやりした視線をそこにあてた。聞くべきじゃなかったかな、と少し後悔した。彼は顔を上げた。その動きに驚いた猫がひとこえ鳴いて膝から下りた。足元を走って見えなくなった。
「── わかった。話すよ」
河原は背すじを正し、大小のグラスが並べられたカウンターのあたりを見た。赤レンガでできた壁にはポール・デルヴォーの『森のなかの駅』がかかっている。この絵を見ると、後ろ向きに描かれた少女の目に、本当はどんな風景が映っているのだろうかといつも思う。いつもなぜか、そう思う。河原は本棚から取ってきた小説や画集をテーブルの脇へよせた。カップの位置も右に移し、それからまた元に戻した。コーヒーの香りがよじれてただよった。
「この話は、今まで誰にもしゃべったことがないんだ── 」
河原は、そこでまた口をつぐんだ。脇にやった画集の角度を指さきで変えた。鼻からすうっと息を吸い込んだ。そして話し始めた。
「きっかけ」② へ つづく