ドキュメンタリーのつく嘘とは?【知れば知るほど解らなくなる映画の話(10)】
Why So Serious ?
どうも、侍功夫です。
松江哲明監督作『童貞。をプロデュース』10周年を記念した上映のトークゲストとして登壇した出演者が、「本作撮影中に性的なシーン撮影を強要された」と訴えた問題がニュースなどでも取り上げられた。
この騒動を受けて、双方から見解が発表されたのだが、製作者側である松江監督とプロデューサー直井氏による発表の、以下の文面に驚いた人が多いようだ。
「そもそもドキュメンタリーとは、画面に映っているのは現実そのものではなく、本作品も松江監督による演出が施された作品であることは言うまでもありません」。(http://spotted.jp/2017/08/25_dtproduce/)
真実を撮影しているハズのドキュメンタリーなのに、映っているのは「現実そのもの」ではなく「演出が施されている」と言うのだ。しかし、この「ドキュメンタリーのフィクション性」は、よく考えてみればあたりまえのことである。
今回はこの「ドキュメンタリーのフィクション性」について詳らかにしていく。
撮影=演出
たとえば。カメラを持った誰かがこちらにレンズを向けているのに、誰もいないかのようにボーっと惚けていたり、鼻をほじったり出来る人は多くないだろう。事前に「動画の撮影をしますよ」と申し送っていればなおさら。自分が被写体となり一挙手一投足が撮影され、動画として残ると知っていれば、なるべくカッコ良く映っていたいと思ったり、照れ隠しにふざけてしまうのが人間だ。
原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』では被写体である奥崎健三氏が、二次大戦当時に参加していたニューギニア戦線での兵士処刑を知り、関与したとされる元兵士を訪ねて真相を究明していく。
ただ、この「奥崎健三」なる人物が極度にナルシスティックな「劇場型人間」だというのが数多あるドキュメンタリー作品とは一線を画している。日頃から右翼の街宣車もかくやというおどろおどろしいメッセージが書き込まれたバンに乗り、「神軍平等兵」を自称するアナキストの奥崎はカメラを向けられ続けたことで、自己陶酔を強め、より一層過激に、暴力的になっていくのである。
この陶酔はカメラ無しではありえなかったであろう。つまり、そこにカメラ(と撮影者)がいたという“演出”が施されているのだ。もちろん撮影者(この場合、原監督)は奥崎にカメラを向ける意味を充分に理解した上で、カメラを向け続けることで事件を起こし、作品として仕上げたのだ。
インドネシアの軍事クーデーター後に起こった「共産党員狩り」と名付けられた、実質無差別虐殺を追う『アクト・オブ・キリング』ではもっと直裁に被写体に“演出”をさせる。虐殺に加担した者に当時の様子や、心象風景を再現させるのだ。虐殺したことで鼻高々に国の名士となった彼らは、自ら当時の様子を再現することで、普段は見せない「人を殺すことで受けた心の傷」の傷口を広げていく。監督は彼らの「心の傷」が広がるハズだと確信していたであろうことは、後に公開された姉妹作『ルック・オブ・サイレンス』の存在でも明らかである。
編集=作劇
ワイドショーで街行く一般の人々へマイクを向けたインタビューが放映されることがある。たとえば芸能人の不倫騒動に対し「不倫はイカん!」といった街の人の声が何人か取り上げられ「日本を支える働く人々も不倫はいけない、と言っています」と締める。
そんな場合「あくまで個人の問題なので他人が口を出す筋合いはない」とか「法律を犯さない限り行動は自由だ」といった意見は出てこない。そんな意見を言った人がいたところで、編集でカットされてしまうからだ。
マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』の中で全米ライフル協会会長だったチャールトン・ヘストン氏へのインタビューや氏の講演活動の紹介において、かなり大胆な編集での印象誘導が行われている。
劇中、コロンバイン高校の殺人事件被害者遺族が嘆き悲しむ顔を写した直後に、チャールトン・ヘストンがライフル協会の講演に登壇し、ライフルを掲げ「死ぬまで私は銃を手放さないぞ!」とアジる光景を繋いでみせる。
あたかも、銃による陰惨な事件のことなど介せずに「銃を手放さない!」と気炎を吐いているように印象付けられるが、ヘストンの講演映像は事件前のものだ。
また、インタビュー終了後に門の外からコロンバイン被害者少女の写真を掲げたムーアに背を向けて去っていくヘストンが映し出される。こちらの場面ではヘストンが銃による被害者に背を向けたような印象になるが、実際にはヘストンが家の中へ戻る光景とムーアが呼びかける光景は別々に撮影され、編集により1つの場面のように作られている。
これは以前に紹介した映画編集における“モンタージュ効果”そのものであり、劇映画と何ら変わりのないテクニックだ。
編集による印象誘導といえば、フレデリック・ワイズマン監督の『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』で、より高度なテクニックが見られる。この作品では、上品でほとんど解らないほど洗練された編集によって観客をある種の結論へ誘導する。
出演=演技
遊園地の定番で夏は特に人気のアトラクション「おばけ屋敷」。真っ暗な中、細い通路を通っていくと傍らの井戸の中から幽霊が飛び出したり、天井から奇怪なバケモノが吊り下がってきたり。それらは用意された作り物で、本当の幽霊や怪物はおばけ屋敷にはいない。もちろん絶対に危害を加えることも無い。それでも“恐ろしい”と思った感情は本物だ。
現代アートの最重要アーティスト、バンクシーによる監督作品『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』。ストリート・アーティストの活動をビデオに納めていたティエリー・グエッタというオッサンにバンクシー自身も作品や活動を映像に残させようと思い立つが、壊滅的なセンスの無さに撮影素材の引き上げを決意する。ティエリーに素材を手放させるための口実に「お前自身でアート活動をしてみてはどうか?」と提案。ティエリーはバンクシーにアート作品を作れと言われ浮かれるも、アート作品においてもやはりセンスはナシ! しかも出来上がったのはパクリだらけの暗澹たる代物ばかり。
しかし、このパクリ作品が大人気となりティエリーはアーティスト名「ミスター・ブレインウォッシュ」として人気を博していく。
本作にはバンクシーらしい仕掛けがいくつも施されているが、中でもティエリー・グエッタの人物像は奇跡的と言えるだろう。元古着屋の経営者で、何トンものクズ同然の古着の中からブランド品を選りすぐり、高値をつけて売り出していた。というのも、後のミスター・ブレインウォッシュの活動そのものだ。加えて、パクリ作品のセンスも実に絶妙だし、自分では一切作品を手がけず、デザイナーに依頼して作らせるという手法も見事としか言いようがない。
これら、わかりやすい才能の無さや、厚顔無恥さは、おそらくバンクシーによって演出されたものだ。では、何故そうする必要があったのか?
元々『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』は「バカにクソを売りつける方法」というタイトルだったとインタビューでも答えている通り、焦点は最初からティエリーではなく、偽物であるティエリーを通して見えてくる現代アート界の浅薄な姿だったのだ。
この手法はサシャ・バロン・コーエンの『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』でも使われている。イギリス人コメディアンがカザフスタンのジャーナリスト「ボラット」を名乗り、アメリカの様々な場所で傍若無人に振る舞う。「ボラット」はニセモノだが何も知らされず偶然その場に居合わせた人々や、その反応は本物だ。
「ドキュメンタリーは嘘をつく」
多くの人が思い描く「ドキュメンタリー作品」とは、「公明正大」で「何にも偏らず」に「作為がなく」「自然な状態が自然なまま」に、撮影された映像。といったところだろうか。もしも、それらの条件を満たす映像があるとすれば気づかない場所に設置された防犯カメラの映像くらいであろう。つまり「作品」にはなり得ないつまらない代物だ。
では、ドキュメンタリー作品とは全部フィクションなのか?といえば、そうではない。むしろ、全て「真実」を描いている。ただし、監督の「主観的な真実」ではあるが。
「真実」とは必ず主観的なものになる。たとえば、1本の映画について私は「面白い」と思い、他の誰かは「つまらない」と思ったとする。双方とも、それぞれの主観に準じた真実で、どちらかが嘘をついているワケではない。
『ゆきゆきて、神軍』の奥崎健三や、『ボウリング・フォー・コロンバイン』のチャールトン・ヘストン、『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の現代アート業界の人々。みんなそれぞれ「映画に出ている自分は、監督により歪められた作為的な姿であり、本当の私とは違う!」と言うだろう。
しかし、監督の主観では作品に残された姿こそが「真実」なのだ。
ドキュメンタリー作品とは、ある事象なり人物について「作者の主観的な真実を捉えた作品」ということになる。
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