ここに両親への手紙を書かせてください。
ホントはたくさんの人の前で読みたかった手紙です。
昔からの私を知る人たちに、両親について自慢したかったのですが、
様々な事情がありそれが叶いません。
なので、ここで私から両親への思いを伝えることにしました。
Facebookに書くことも考えましたが、
マウンティングだと思われるのが嫌で、
結婚したこと自体あまり書きたくありません。
だから、私を知らない人たちに読んでもらいたいのです。
私の両親について伝えさせてください。
私と両親の一番古い記憶は、自分で歩くのが楽しくて仕方なかった頃。
県立公園へのピクニックです。
父は私が一生懸命に石段を下りるのを、手を貸さずにそばて見守っています。
その様子を遠くから母がビデオで撮っています。
一歳下の弟は、おそらく母のお腹の中にいます。
母は私や弟と出かける時、絶対に車を使いませんでした。どこへ行くにも徒歩。1,2キロの距離なら確実に徒歩でした。
車の運転が嫌いだったのだと思います。
他の子はみんな車でジャスコや駅前に行くのに、私はいつも徒歩。正直嫌でした。歩くのは疲れるし、親と歩いているところを他の子に見られるのがなんだか恥ずかしかったのです。
父はとても忙しい会社に勤めていました。単身赴任ばかりだったので平日はほとんど会うことはありませんでした。
その分、休日はたくさん遊んでもらいました。おもちゃも買ってもらいました。
平日、母には足を鍛えられ、休日、父には甘やかしてもらいました。
私は昔から大人しくて引っ込み思案な性格でした。
友達もなかなかできませんでした。休み時間に遊ぶ友達がいないので、先生のお手伝いばかりしていました。
授業中も、挙手できない子どもでした。間違えることが怖くて、絶対正解する時しか挙手できませんでした。プライドが高かったのです。
初めて挙手した問題の答えはいまでも覚えています。
「さるが4匹です」と発言しました。
なぜ覚えているかというと、嬉しくて母に報告したからです。そして、母も嬉しかったのか、そのことを連絡帳に書いたのです。
そこから私は少しずつ自信をつけはじめました。挙手できるようになり、休み時間も他の子と遊ぶようになりました。
「〇〇ちゃんちに行ってくる」と母に告げて家を飛び出すのがなんだか誇らしかったです。
他の子の家で遊ぶようになると、自分の家との違いに驚くことがありました。
まず、両親は基本的に共働きでした。夕方になって母親が帰ってくる家がほとんどでした。
そして、母親達はみんな、私の母よりも若くてオシャレに気をかけていました。
母は30代後半で私を産みました。
おそらくほかの母親達とは10歳近く年が離れていました。
また、私の母は専業主婦だったので基本ノーメイク、服も着れなくなるまで同じものを着倒す感じでした。
ほかの母親達は普段外に出て働いていることもあって、服装や化粧に気をつかっていました。
当時は自分の母親がなんだかダサく感じてしまい、せっかく選んでくれた服も大事に着ることができませんでした。
心無い言葉を吐いたこともありました。
小学校高学年になると、今まで仲が良かった人たちから突然無視されるようになりました。
無視してきた人たちは、わたしの真面目な部分が嫌だったようですが、多分各々家庭に問題を抱えていました。
無視されるのは辛かったけど、心配かけたくないので母にも父にも言えませんでした。
ただ、家に帰ると母が晩御飯を用意して待ってくれていることや、
週末には父が帰ってきて一緒に浜崎あゆみを聴きながらドライブすることで、自分は恵まれているんだ、と思えました。
中学に入ると部活が忙しくなりました。私が入部したのは県代表レベルの吹奏楽部。毎日夜遅くまで、土日も休みなく活動していました。
普段の練習に持っていくお弁当を作ってくれたり、コンクールでは遠くまで応援に来てくれたり。お金のかかる部活でしたが、両親の支えがあったから頑張ることが出来ました。
中3の夏、我が家に猫2匹が仲間入りしました。公園で捨てられていたのを弟が拾ってきたのです。
オスとメス1匹ずつ、性格は正反対、なんだか私たち姉弟のようでした。
猫達は母のことが特に好きで、いつもべたべた甘えています。
ある時、私は母にこんなことを聞きました。
「猫って赤ちゃんみたいだね。
私や弟もこんな感じだったの?」
その時の母の答えは、今も時々思い返します。
「この子達も可愛いけど
あんたたちはもっともっと可愛かったよ」
高校に入ると、今度は勉強が忙しくなりました。親に迷惑をかけたくない一心で、国公立大合格を目指して頑張りました。
高校ではたくさんの素敵な友人にも恵まれました。小中時代とは比べ物にならないくらい楽しくて充実していました。
でも、学校に行けなくなってしまいました。
誰にもいじめられていません、クラスのみんなは本当に親切にしてくれました。
高3の夏、勉強ばかりしていたところに、担任教師の叱責や学校行事のトラブルが重なり、
心がポキッと折れてしまいました。
なんだか、学校に行きたくない。
そして、これ以上生きたくなくなってしまったのです。
うつ病になっていました。
私が「生まれてこなきゃよかった」と言った時、
母は泣きながら叱ってくれました。
「生まれてこなきゃよかった人なんて一人もいないんだよ」と。
お腹を痛めて私を産んだ母に、本当に申し訳ないことをしました。
母は毎日私と一緒にいてくれました。
病気の症状で赤ちゃん返りしてしまう私を慰め続けました。
一緒にアイロンビーズで遊んだり、手芸をしたり、イオンに行ってゲームコーナーで豆しばのぬいぐるみを取って大喜びしました。
いないないばぁのぬいぐるみを買ってくれました。チェブラーシカの絵本を買ってくれました。
そして、普段は出てこない父もすごく心配してくれました。
学校に行けないことを誰も責めたりしませんでした。
私はこの頃から毎日思っていました。
「二人の子供でよかった」
「もし生まれ変わるなら、またこの二人のところに来たいな」と。
しばらく経って、学校から一本の電話がありました。
「このままだと日数が足りず卒業出来ない、朝のHRだけでも来て欲しい」
そこから、母が尽くしてくれました。
自力ではとても学校に行けない私のために、毎朝車を運転してくれたのです。
運転が苦手で、絶対に徒歩でしか出かけなかった母が、毎朝私のために、通勤ラッシュで混んでいる道を大嫌いなミニバンで運んでくれたのです。
本当に怖かったのだと思います。運転中はずっとぶつぶつ言っていました。
「大型トラックを運転する人だって世の中には存在するんだからヴォクシーなんてちっぽけだよね」とか
「大通りに出れるかな…よし、出れた」とか。
免許を取ってはじめて、あの時の母の苦労を知りました。
そんな母の頑張りのおかげで、私は無事高校を卒業することができました。
また、自宅で両親に励まされながら少しずつ受験勉強をしていたおかげで、なんとか東京の大学に合格できました。
合格発表の時、両親と抱き合ったことは今でも鮮明に覚えています。
三月、両親と3人で東京に引越し作業に行きました。
2人とも出身は東北ですが、大学は首都圏だったため、懐かしそうにしていました。
3人で家具を組み立てたり買出しに行ったのもいい思い出です。
そして、東京から両親が帰る時、母が短い手紙をくれました。
「頑張りすぎないでね。つらい時はいつでも帰っておいで。」
大学4年間、辛いことは就職活動くらいで、ほとんど楽しい思い出しかなかったのですが、
それもきっと、辛くなったら帰ってこれる場所があったからだと思っています。
一人暮らしをはじめてからはいっほう親のありがたみがわかりました。
数ヶ月に一度、お米とお菓子が沢山詰まった仕送りが届きました。
よく一緒に遊んでいたゲーム「どうぶつの森」のキャンディが入ってきた時は、ちょっとしんみりしました。
演劇サークルの公演では、どんなに出番の短い演目でも東京まで観に来てくれました。
私が熱を出して1週間以上寝込んでしまった時も、車で迎えに来てくれました。
就職が決まった時も、三人で抱き合いました。
私や弟が大学に入ってから、母に大きな変化がありました。
結婚を機に辞めていた仕事を、また始めたのです。
働き出した母は、専業主婦時代とは全然違いました。とても楽しそうで、会う度にどんどん若返っていました。
私たちを育てている期間も、社会に戻りたいという思いはずっとあったことと思います。18年間私たちと向き合うことを選んでくれて、感謝しています。
私が結婚すると言った時、父も母もすごくあっさりしていました。
「好きにしていいよ」と。
思えばいままでずっとそうでした。
習い事、部活、進学先、就職先、
親の意見や経済的事情に左右されたことは1度もありませんでした。
変に介入することなく、いつも、私の意思を一番に尊重してくれました。
本当は無関心なだけかも知れませんが、好きにさせてもらえて私はとても恵まれていました。
子どもが手を離れて、会社を定年退職して、自由な時間が増えたことでしょう。
たまに二人で温泉旅行をすると聞いて、羨ましい限りです。
私もあなたたちのような夫婦になりたい。
子供の意思を第一に尊重して、つかず離れず見守りながら、大事なところで手を差し伸べてくれる、そんな親になりたい。
命ある限り、私はいつまでも二人の娘でいたいです。
これからも頻繁に帰りますので、一緒に美味しいものを食べましょう。