日本文化 思想

日本の政治家に権威がなく、尊敬もされない理由

たそがれる国家(10)
内山 節 プロフィール

日本社会の記憶

優れた霊能力、自然能力をもって国王の権威、正統性とする発想は、古くは日本でもヨーロッパでも変わることはなかった。

だがその後の歴史は異なっていく。

ヨーロッパでは王権神授説が生まれ、神の権威と王制が一体化されていくのに対して、日本では宗政分離がすすんだといってもよい。再び宗政一致が登場するのは明治のことであり、それまでは将軍や藩主が支配者となっている。彼らは宗教的権威に依存しない世俗の権力者である。

江戸時代には武士の学問として儒教が推進されることになったが、日本の儒教は気の理論をほとんどもたない、理の理論として確立されている。いわば合理の思想なのだが、それは政治理論、社会理論、道徳理論であった。儒教がもっている死生観は重視されず、死生観の領域はもっぱら土着信仰の影響を受けた仏教が担うことになった。

その理由は日本にはこの世界をつくった絶対神が存在しないところからきている。

天皇制を正統化する神話としてはイザナギ、イザナミの二神が日本をつくったことになっているが、この二神もすべてをつくったわけではないし、神の教えを説いているわけでもない。神といっても日本は多神の世界であり、しかもその神々は仏教的な死生観とも融合しながら、中世、近世の日本では展開している。

世俗の世界としては儒教的な統治理論、国家理論が導入されても、死後をふくむ生きる世界では神仏習合的仏教がそれを支えている。

神がこの世界のすべてをつくっていないのだから、死後をふくめた永遠の世界と現実の世界は次元を異にするという二元論が、日本では定着することになった。

 

それは今日の私たちにも反映している。

欧米やイスラムの世界においては政治家、とりわけ大統領や首相は長らく権威でありつづけた。なぜなら、生死をふくむ生きる世界と現実の世界の一体化をめざした権威主義が、社会の記憶として残っていたからである。

ところが日本では首相は権威ではない。うまく政治を動かしてくれればいいだけの存在で、尊敬の対象ではない。日本的な社会の記憶としては、自分が存在する世界、自分の生きる世界と現実の世界とがどことなく分離しているのである。

もちろん今日では、死後をふくめて自分の生きる世界を感じている人がどれだけいるのかは知らない。しかし、生命的な世界と現実的な世界のあいだにはズレが生じていて、この両者は一体化しない。

さらに述べれば、今日では生命的な世界は「私の世界」として再確立され、「私の世界」という抽象的な世界に沈み込むことによってそれは成立しているといってもよい。もともとの死後をふくめた生きる世界自体が抽象的世界だったのだが、それが「私の世界」へとかたちを変えた。

実際には「私の世界」もまた現実的な世界の影響を受けているのだけれど、感覚のなかでは「私の世界」の外に現実的な世界があり、この両者は次元を異にする。

もっとも今日のヨーロッパでは、国による違いはあるにせよ、キリスト教時代の社会の記憶は急速に薄れてきているから、現実の国家や政治に対して虚無的な反応をする人たちがふえつづけている。この記憶をもっているのはいまではアメリカだといってもよく、それゆえにアメリカでは大統領は超越的な権威だといってもよいのである。

近代国家といっても、国家と国民の関係はひとつではないし、その背後には歴史的、文化的な相違が存在している。人間と国家の関係はさまざまなのである。

儒教の記憶が残る中国では、人間の生きる場そのものが国家であり、二元的な生きる世界など成立しえない。すなわち私たちは国家を世界共通のものとして扱いすぎているのである。

そしてこのさまざまな国家の違いがこれから浮き彫りになっていくだろう。そのとき国家は相対的なものになり、絶対性を喪失させるのだろうと私は思っている。

(つづく)

*内山節氏の連載「たそがれる国家」のバックナンバーはこちら http://gendai.ismedia.jp/list/author/takashiuchiyama