近代以前の人たちにとって「世界」とは、死後的世界をふくめて世界だったのである。
だから生きているあいだでも、神や仏との関係が大事だった。
キリスト教やユダヤ教、イスラム教では神の教えに従って生きることが天国にいく道になるし、儒教なら子孫として男子を絶やさず先祖を供養しつづけることが、自分の死後を守るためにも必要になる。
すなわち、その方法はさまざまであっても、切実な未来として死後をとらえていた時代には、生きることもまた死後的世界と結ばれてこそ展開していた。
とすると、近代以前の人たちはふたつの世界のなかで生きていたことになる。ひとつは死後をふくめた世界、もうひとつは現実の世界である。
現実の世界としては王制の社会であったり、税を徴収され、ときに農奴制の社会であったりする。日本でいえば豪族が支配する社会や律令制下の国家支配の時代、それが崩れて生まれた荘園制の社会、さらに武家社会などが現実の世界としては展開していた。
もっともヨーロッパやイスラム社会、日本の古代社会などの多くのところで、死後をふくめた世界と現実世界との一体化がはかられたことも確かだった。
キリスト教やイスラム教などでは、この世界は神がつくりだした。絶対神がすべてをつくりだしたのである。だからこの世界と神の教えは一体的なものだった。神の考え方に基づいてこの世界がつくられたからである。ゆえにすべての人々が神の教えを守って生きれば、この世界は神がつくろうとした世界のままに展開するはずだった。
残念ながら人間たちは神の教えを踏み外したり、邪教にだまされる者がいたり、そもそも神の教えを理解する文明段階に達していない野蛮や未開の人たちがいたりするから、この世界は神の王国にはなっていないということになる。
この考え方に従えば、現実の王国もまた神の教えに基づいて生まれたものでなければ、正統性を失うことになる。神がつくりだした世界の支配者である以上、その王国は神の意志を現実化する国でなければならないのである。
といっても、国王は神から信託された存在であるという王権神授説がフランスで生まれてくるのは16世紀のことで、それまでは国王が受け継いでいる超越的な霊能力、自然能力をもって国王の正統性の証明とすることが広くおこなわれていた。王制とキリスト教は必ずしも一体的ではなかったのである。
このかたちは日本でも同様だった。
「魏志倭人伝」には邪馬台国の女王、卑弥呼は鬼道を用いて人々を惑わしたとある。
鬼道とは一般的には道教をさす言葉なのだが、道教と理解すればそこから派生し、後に日本で陰陽五行説や独特の呪術、占術を生みだした陰陽道のようなことを卑弥呼がおこなっていたのかもしれない。
ただしこれにはさまざまな異説があり、そもそも卑弥呼はシャーマンであることや、日本に道教が伝えられたのはもっと後のことと考えられることから、鬼道はシャーマニズム的なものだと考える説などさまざまがあって、よくわからないと述べておく方がよいのかもしれない。
はっきりしていることは、卑弥呼が何らかの超越的な能力を有している、あるいは有しているとされることによって、絶対的な女王の地位を確立していたということである。
このかたちは古代天皇制においても受け継がれた。
天皇は神の子孫であり、神の世界と現実の世界をつなぎ、現実世界の安寧を祈りだす力があるとされたのである。
だから疫病や災害が頻発したときは大変だった。天皇にこの世の安寧を祈り出す力がないと思われかねないからである。