昨日の東京新聞の「新聞を読んで」という紙面批評欄に、東京都市大の小俣一平教授が書いた「読者が選択する時代」というタイトルの文章が載っていました。きょうは、これを読んでの感想を記します。

 小俣氏は、東京新聞の6月21日朝刊の「応答室だより」が、15日に首相官邸周囲で行われた大飯原発再稼働反対の大規模デモの模様を報じず、抗議が100件以上きたことについて読者に「回答」したことを評価してこう書いています。

 《「連絡ミスで、現場に出向いた記者がいなかった」「重く受け止め、ミスをなくす取材態勢を整えました」。応答室長の真摯な回答は、「新聞は、誰のものか」がよくわかる対応だった。(中略)再稼働推進の論調を掲げる新聞でも、大きなデモの事実を矮小化することは許されない》

 まあねえ、一つの時代性を示す社会現象としてとらえれば、ニュース価値はあるのでしょうねえ……。だからといって、各紙が画一的に大きく取り上げなければならないということでもないと思いますが。

 で、これは完全に個人的な感想であり、弊紙のスタンスでも何でもありませんが、はっきり言って私はデモという行為が大嫌いです。まず、私の生まれる前のことですが、60年安保の無意味なバカ騒ぎを連想してなんだかなあ、という気分になります。

 もちろん、政府なり何なりに、国民が自分たちの考えを示す意思表示の手段として、そういう手法があるのは分かりますが、デモに遭遇するとその主張を無理矢理押しつけられるようで、本当に不愉快になるのです。それは、保守系だろうと左派系だろうと、そのデモの主義・主張にかかわりません。

 チベットにおける反中共デモなど、真剣で命懸けのデモがあることは理解できますし、世界各国で起きた大規模デモが、政府なり社会なりに変革をもたらしてきたことは否定しません。そうなのですが、自由社会である日本の国会界隈で「日常的」(しょっちゅう誰かがデモしています)にみるデモには、何の感興もわきません。

 というより、こっちは仕事で道を通りたいだけなのに、デモ隊によって信号の待ち時間が長くなったり、急いでいる時に邪魔をされたり、いったいその主張を誰に聞かせようと思っているのか理解できなかったり、いかにも動員されましたという感じのだらけた雰囲気(特に労組系)に嫌悪感を抱いたりで、いつもイラっときます。

 くだんの再稼働反対デモにしても、主張の是非はともかく、自分たちの正しさを信じて疑わない陶酔したような、あるいはお祭り気分の声で繰り返し怒鳴られると、本当にうるさいし邪魔です。そして、近くを通ると、その恫喝的で暴力的な雰囲気に生理的な嫌悪感を覚えます。私は腕力や物理的な圧力で他者に言うことを聞かせようという人が、基本的に大嫌いだからでもあります。

 私が何か根本的に勘違いしているか、間違っている可能性もありますが、私のように感じる人だってそんなに少なくはないと思うのです。ここでは本音を記そうと思います。

 通行人や仕事中の人の迷惑もかえりみず、大声で怒鳴り、他者に不快感と圧迫感を与えることが、そんなに立派なことでしょうか。マスコミはそれを礼賛して取り上げないといけないのでしょうか。デモって、そんなに素晴らしい、称賛されるべき行為なのでしょうか。

 かつてフジテレビ前でデモが行われた際に、産経はなぜ取り上げないのか、と何人もの人に聞かれました。私には、事前の案内と趣旨説明が弊紙の記者に対してどの程度行われたか分かりませんから明確には言えません(左派系の人は事前の根回しが上手いものです)が、いろいろ理由があるでしょう。

 ただ、反発を恐れずあえて正直に言うと、デモと聞いてそれだけで忌避感を覚えた者もけっこういたのではないかと思います。「デモっていわれてもねえ……」と。デモは確かに民意の一部の表れではあるでしょうが、民意そのものではないはずです。それをどう価値判断するかがそれほど本質的な話なのかと疑問に感じるのです。

 繰り返しますが、これは私のただの感想であり、あるいは偏見であるかもしれません。しかし、もとより偏ったいびつな人間なので、正直に記すとこういうところになります。