前田智徳

岱明町中で野球を始める。熊本工では、1988年・2年春夏、1989年・3年夏と甲子園出場。4番センターで出場し、通算4試合で17打数4安打。入団当初は、走攻守三拍子揃った選手で、野球センスは抜群。

ボールを打つ技術、バットコントロールは天性のものを持ち、ストレートも変化球も的確なスイングでヒットにする。現役最多の11度の3割達成、通算打率(4000打数以上)は現役では5位の.302。イチローも尊敬するほどだ。

しかし一番近いと思われる首位打者は獲得していない。肩は強肩という程では無いが、捕手への制球力や捕手が捕りやすいバウンドを投げられるため、捕殺数は高い。趣味のゴルフもプロ並みでHC1。

3年時の甲子園大会後、熊工には西武を除く11球団、前田の自宅にも8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のホークスは上位指名を示唆するなど熱心だったが、同年11月に行われたドラフト会議では広島が4位指名する一方ホークスからの指名はなかった。

前田は会見場でテレビ中継を見た後1時間近く泣き続けた。前田は一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川(村上)スカウトは「ホークスは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。

同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。

デビューして間もない頃、二宮清純に「理想の打球は・・・」と尋ねられたところ、「ファウルならあります」と答えた。

ただし、「野球小僧」2006年4月号のインタビューでそれがウソであったことを告白している。

また1992年の二宮のインタビューで「打席に立つ目的は?」と聞かれて、しばらく考え込んだ後、「理想の打球を打ってみたい、ということかなぁ」と答えた。

高校3年時の1989年夏、高校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。

投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい!ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。

プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場。

初戦の日大三島戦で1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。

これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという。

1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。

ある日の練習中達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した

北別府学の200勝のかかった試合の1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。

前田は8回表一死一塁の場面で決勝打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモンドを一周した。

後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている

1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。

前田は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。

またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった

「がんばって」と声をかけた女性ファンに対し、前田が「お前に言われんでも分かっとる!」と怒鳴り付けた、という逸話がある。

これは1998年9月15日付の朝日新聞に掲載されたもので、この際前田は車の中から怒声をあげたと言われているが、その状況には不自然な点が多々あり、このエピソードそのものの真偽は定かではない。

しかしそれ以来、このエピソードは前田の代名詞として「お前に言われんでも○○」といった形で頻繁に用いられている

中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満は、現役時代「天才は俺じゃない。前田だよ」と語り、2005年の秋季練習では福留孝介、森野将彦ら左打者に対して前田の打撃を引き合いにし「真似していいのは前田だけだ。前田だけを見習え」と語っている。

また、前田自身も落合に深い尊敬の念を抱いている。実際に福留も「理想のバッティングは前田さん」と公言しており、この秋季練習では前田の打撃フォームを参考にしてフォーム改造を試みた。また熊本工業高校の後輩である荒木雅博も前田を尊敬しており、同年のオールスターゲームに出場した際にはずっと付き添い、打撃論や野球哲学についてアドバイスを受けた。

また前田から最も多くの安打を喫した山本昌は以前、浜松球場での試合で外角低めの難しいコースを本塁打された事があり「あのコースを引っ張ってホームランにされた事は今まで無かった。その時に天才だなと思いましたね」と振り返っている。

前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、彼自身が目指すレベルが異常なまでに高く、また練習などの取り組み方にしても、時には「奇行」に見えてしまうこともあるほどである。

その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といった事を繰り返していた。

プロ入り後も、フリー打撃などで思うような打撃ができなかった時には何度も声を荒げたり不貞腐れたりを繰り返し、遂には水谷実雄打撃コーチに「打撃投手が怖がって投げられないだろう」と説教を受けた事がある。

前田は野球に対する取り組み方から「サムライ」「求道者」などと呼ばれる。落合博満、長嶋茂雄、星野仙一らは前田の野球センスについて「天才」と評価する。

特に落合は「前田の打撃フォームはシンプルで無駄がない。これから野球を始める子供達がぜひ参考にすべきフォーム」などと絶賛している。だが当の前田本人は故障がちな身体になぞらえて、自らを「ガラクタ」と皮肉り評している。

また「天才」と呼ばれることに関しては「本当の天才だったら、4割打ってますよ。だいたい、落合さんやイチローのようにタイトルを獲った経験がありませんから」と語るなど、あまり気に入っていない様子である。

「侍」についても、自身が幾度も故障していることなどから「侍は、そう簡単に倒れるもんじゃないんですよ」と語っているが、その一方で自分の持ち物に『武士魂』と書き入れてもいる。