ブクログでも人気の高い、『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集(河出書房新社)』。最前線で活躍する現代の作家たちによって、古典の名作に新たな命を吹き込む、大人気シリーズです。このシリーズの記念すべきフィナーレを飾るのは、角田光代さんが訳す『源氏物語』。
ブクログ通信編集部では、この『源氏物語 上』の出版に合わせて、角田さんに独占インタビューを行いました。はじめは、なぜご自身が翻訳者として指名されたのかわからず驚かれていた角田さんが、上巻の執筆を終えた今、どのようなことを感じられているのか―このインタビューを読んでおけば『角田源氏』がもっと楽しめるはずです!
前編では、『源氏物語』を翻訳することになったきっかけと、角田さんの『源氏物語』の解釈について語られています。
取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 大矢靖之 猿橋由佳
「古典愛」はなかったけど、やってよかった
―先日の講演会(河出書房新社企画説明会:2017年6月28日 講演録はこちら)でもおっしゃっていましたが、やはり今回の『源氏物語』の依頼を受けてまさしく「晴天の霹靂」という感じだったのでしょうか?「なんで私に?」と。
そうでしたね(笑)。
―角田訳『源氏物語』でフィナーレを飾る『日本文学全集』ですが、この全集は「池澤夏樹=個人編集」というサブタイトルがあるように、池澤夏樹さんがご自身で収録作品を選定するだけでなく、現代語訳者の指名もされています。今回『源氏物語』を角田さんが訳すにあたり、池澤夏樹さんから「こうしてほしい」という直接的な要望は特になかったのですか?
なかったですね。池澤さんはおそらく「何かこうしてほしい」という要望を出すよりも、フィールドを与えるから角田は自由に力いっぱいやってみなさいという姿勢だと思います。
―講演では「古典に対する愛はない」と断言されてましたけど(笑)、今回取り組まれてみてやってみてよかったと思われますか?
はい、もちろん、やってよかったと思います。まだ上巻までしか訳していないのであくまで途中経過報告ですが。でも、古典に対する「愛」が芽生えたということはないです(笑)。
―「愛」はなかったけど、やってよかったという点を詳しくお話し願えますか?
取りかかる前は非常に偏見があって、「一人のモテ男がモテまくる話」くらいにしか思ってなかったんですね。もう一つは、長い時を経て語り伝えられてきた物語なので、おそらく短いお話がいくつも折り重なって組み合わさったような代物で、あんまり辻褄があっていないんだろうな、と思っていたんです。そういう思い込み・偏見が、上巻を訳しただけで見事にひっくり返されました。おもしろいんですよね。こんなに近代小説と似た作りで1000年も前にすでに書かれていたのか!とびっくりしたのをはじめ学ぶことが多く、本当にやってよかったなと思っています。
―わたしも、今回の角田さん訳の『源氏物語 上』サンプル版を読ませていただいたのですが、たとえば、谷崎潤一郎訳の『源氏物語』と比較すると、谷崎訳『源氏』の方は古典の調子が強く「近代小説」という実感はあまりなかったのですが、角田訳『源氏』ですと、確かに「近代小説」に近いとおっしゃるような物語構造、様々な伏線が回収されたり小さな挿話が大きな物語へと流れ込んでいくところなど、似ているポイントが、より鮮明にわかりますね。
なにか物語が変な具合に力を持っちゃった
―講演会の際に『源氏』は「小説自体が力を持ってしまった。作者が書いた後に爆発力を持ってしまった典型の作品」とおっしゃっていましたが、もう少し掘り下げて伺えますか?
たとえひとつのエピソードだけでも、こんなにみんなが知っている物語はないし、これだけ人が熱狂して訳したいと思っているものはほかにあまりないですよね。『平家物語』とか『土佐日記』とか、いろいろな古典文学はあるけれども、誰もが好きなのは『源氏物語』じゃないですか。その『源氏』を訳してみて、わたし自身つぶさに眺めてみると、これは作者たる紫式部が意図したものをはるかに超えてなにか物語が変な具合に力を持っちゃったんだなって思わざるを得ない部分が確かにあるんですね。どうしてそういうことが起きたのかと思うと、『源氏』は捉えどころがいっぱいあるんですよ。「恋愛」の物語だと捉える人もいるし、「性愛」の物語と捉える人もいたり、いかようでも捉えられる。その捉え方に、物語が柔軟に応えてくれる。それがやっぱり物語が持っている力なのだろうと思います。
―いろんな形で解釈の余地を残しながら、みんながその「自分の中の本当の物語」に近づこうとしているような感覚なんですかね。
はい。みんなの「源氏愛」にそれぞれ応えてくれる。「和歌」が好きな人からすれば、その源氏は「歌」の織りなす物語ですから、物語がそう変容し物語がそう応える。作品そのものが著者の意図を超えて、様々に受け入れられる形に爆発的に成長する。
―その、物語が著者の手を離れて変容するという感覚は、たとえば角田さん自身のご著書においても、そのようなことがありますか?
ありますよ。それは世間的に売れたとかじゃなくて、わたしはここまでしか意図してなかった、だけれども、出来上がって読んでみたときに「あ、もっと違う意味を持ってた」って気づく。そういうことはありますね。『源氏』と比べるのもおこがましいんですけどね。なんか作者の手を離れてから「違う意味」を持っちゃうってことはすごく感覚としてわかるんです。
「名を連ねる」という意識もなく「もうこれだけ揃ってるからいいじゃないか」って気持ち
―『源氏』は数々の翻訳がなされましたけども、『角田源氏』と過去の翻訳との距離のとり方についてお伺いできればと思いますが、過去の翻訳はどれくらい参考にされましたか?
現代語訳の実作業としてわたしが使っていたのは、作家が訳したものではなくて、『源氏』の基礎文献として2種類のテキスト(新潮日本古典集成、新編日本古典文学全集)があるんですね。これは「勉強する人はこれを読みなさい」みたいなものなのですが、それは原文の隣に現代語が併記されているようなテキストです。この2つのテキストは解釈がそれぞれ分かれています。この2冊をわたしの底本として使っています。またそれとは別に、いろんな方の訳した『源氏』ももちろん読んだんですけども、「距離」を感じるというか…。なので、あまり私が、今まで訳してきた人たちに対して「自分がそこに混ざる」という印象がないんですよね。
―対決するということでもなく、混ざるということでもなく、違う感覚なんですね。
講演でも言いましたが、訳すにあたって「そういう著名な人たちと名を並べる、連ねるってことに対してのプレッシャーはないのか?」ってすごく聞かれるんですね。本当にわたしにプレッシャーはまったくないんです(笑)。というのは「名を連ねる」という意識もなく、「もうこれだけ揃っているからいいじゃないか」って気持ちなんですよ。だから、わたしがこっそりやっても大丈夫って。これだけ揃っているから、っていう安心感の方が強くあります。その意味で、そこに加わるって気持ちがないので、わたしの方からも「距離」はものすごくとっているし、ぜんぜん「近く」はありません。逆になんていうのかな、最初の一文をみんなどう訳しているのだろうな、って思って読むことはあって、「ほうほうほうほう」と思う。でも全部、わたしから「遠く」感じますね。
―なるほど、対決意識がない「遠い距離感」でやられているのは、読んでみてわかる感じがいたします。『源氏』の現代語訳は角田さんで何人目になるんですかね。
あ、もうそれは数え切れないくらいに。はい。
―有名な作家さん以外も訳していますものね。確かにそうなりますよね。ちょっと別の話になっちゃいますけども、角田さんは『曽根崎心中』(リトルモア・2011年)のノベライゼーションを手がけていらっしゃいますが、その時もやはりあまり過去の現代語訳者と対決するという意識はなく、フリーな感覚だったんですか?
あ、『曽根崎』はですね、原作が5,6ページなんですよね。それを100枚以上の小説にふくらますってってことですから、相当フィクションを入れないと一冊にならないんです。なのでまったく作業として別ですね。完全に一つの世界を作っちゃう。嘘を入れてもいいし、原作に書かれていないこともたくさん入れていい、って感じです。逆に『源氏』はどこにも角田からの嘘はありません。ちゃんとすべてを訳しています。
―なるほど。特に「ここはわかりずらいから思いっきり『意訳』『超訳』しちゃった!」って箇所はほとんどないんですね?
ほとんどないですね。ある言葉、ある文章の贅肉部分をそぎ落としていくように、要は敬語・謙譲語という細々したものをなるべく削り、現代人にわかりやすくなるように努力しただけですね。
キャラクターではなく、関係の中で性格が「にじみ出る」
―講演でそれぞれの登場人部に対しても、特に誰が好きということもあまりないとおっしゃっていましたが、実際、この上巻を訳し終えてみて、改めて登場人物に少し思い入れが出てきたとかはありますか?
ないですね。
―ああ、やっぱりないですか?(笑)
はい、でもあの、普段から自分の小説を書いていても、登場人物にあまり思い入れがないので。だから同じような形で「ない」感じです。
―確かに角田さんの小説はそういうものが多いのかもしれませんね。著者と登場人物のあいだに距離があるという感じがします。
嫌いな人間のほうが多いんですよね、自分で書くと。そのほうが距離がとりやすい。なので結構この女は嫌いな感じ、っていう人が(読み手側に)多いんですけど。
―その角田さんの感覚は、作者の紫式部の感覚と近かったりするのでしょうか?
近くはないんですけど、紫式部も嫌いな人間を描いている時の方が生き生きとしていますよね。ただわたしは自分ではやってはいけないこととして止めていることでも、紫式部はかなりはっきりとやってしまっていることがあります。わたしは、嫌いなタイプの女性を主人公にして書いたときに、やっぱりその人を批判することは小説内ではやっちゃだめだと思ってるんです。それは小説の世界のことなので、作者の基準を持ち込んではいけないと思ってるんですけど、紫式部はそれを普通にやっていますね。造形しておきながら批判するっていうのをやっていて、嫌いな女を作者自身が明らかに提示してしまっていますね。
―確かに作中では人物批評が多いですよね。
でも、例えば末摘花の描写がひどすぎる部分もある一方で、最終的にはやさしい部分もありますね。最後はちゃんと救ってあげるような部分もあります。
―講演会では、いろいろな女性が「性格」ではなく「感情」で描き分けられている、そして、今、わたしたちが考える「キャラクター」とは違う、「感情」がはみ出てくるものとして人物が描かれてるということをおっしゃっていました。具体的にどういう「感情」によって人物が描かれているのでしょうか?
たとえば、自分の身分が低いっていうことをあまりにも引きずっちゃって、源氏に対して自分が気後れしすぎちゃって、卑屈にしかなれないという感情のあり方だったりとか、源氏があまりにも美しくて、自分が年上なのに妻になっちゃったことが、恥ずかしくてならないとか、だから、好きなのに、好きだと言いたいのにそれがどうしても言えないプライドの高さとか、そういう、ちょっとした感情で描き分けてる。それがたとえば「引っ込み思案」の性格とかじゃないんですよ。たとえば、葵の上なんかは、両親に対しては違う性格かもしれないけども、源氏に対してだけは、どうしても自分が恥ずかしくてしょうがない。だからストレートな態度ができないっていう。なんか、性格じゃなく、その源氏に相対するときの感情をきれいに描き分けています。関係の中で性格がにじみ出てきます。
―なるほど。確かに様々な登場人物が出てきますけれども、固定的なキャラクターとして、あらゆる人に対して同じキャラっぽい台詞・感情で「性格を演じている」という感じではないですね。現代で考えるような典型的なキャラクターが出てこない。光源氏も単なる「プレイボーイ」キャラクターかというとまたちょっと違う。キャラクターとは言いがたい、なにか様々な女性関係の束みたいな感じなところがありますね。
光源氏の顔は覚えられない
―その主人公・光源氏に対しての印象っていかがですか。
あんまり顔や、生身の肉体を持った、人間には見えてこないんですね、わたしにとって。いろんな女性と関係を結んだり、拒まれたり、須磨にいったり、帰ってきたりしますけども、それが何か生身の人間とはやっぱり思えない。何か、やはり「神の子」とか、「運命を握るもの」としての何かであって、あの、こんなきれいな顔をした何か、ってのがやっぱり想像できないんですね。
―たしかにそうですね。光源氏自体の造形って、近代小説とよく似てるという部分もおっしゃっていましたけど、あの造形自体は、今の小説であまり見ないですよね。とにかくものすごく光り輝いている様がつねに描写されていますが、一方で、女性の視点から見ていくと、極論ですけどやはり「スケコマシ」じゃないですか。そういう振る舞いに対する悪い感情みたいなものは、翻訳されていて思われなかったですか。
ないんですよ。源氏の振る舞いがひどいとか、その人でなしな部分をすごく悪く思う人がいるみたいなんですけども、それすらもないんです。というのは人とは思ってないんで、人の振る舞いととらえてないんだと思うんですね。だからとんでもないと思うこともない。
―たしかに。ギリシャ神話の神々の振る舞いにも似ている要素が確かにありますね。
そうですよね。
―いろいろと映像化されたものやマンガなどもありますが、そういうものをご覧になるといかがですか?違和感があったりしますか?
映像化されたものも見てないんですよ。マンガは『あさきゆめみし』を読んだんですけど、源氏の顔がやっぱり私は覚えられないんですね。
この続きは後編で!『源氏物語』を訳す中で角田さんが感じた、日本語の面白さについて語られています。
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