自然界の動植物を緻密な表現で描き出した江戸時代の絵師、伊藤若冲は、当時日本に入ってきた西洋の新しい顔料「プルシアンブルー」を、いち早く日本の絵画に用いたことでも知られる。代表作「動植綵絵(さいえ)」の大修理の際に行われた科学調査から、1766年に描かれたとみられる「群魚図」のルリハタの図にプルシアンブルーが使われていることが明らかになり、注目を集めた。プルシアンブルーは世界初の人工顔料で、18世紀初め、ある錬金術師の工房で偶然に生まれた。日経サイエンスでは今回、そのプロセスを再現し、実際に若冲のルリハタを描いてみた。
プルシアンブルーが誕生したのは、プロイセン(現在のドイツ)の首都ベルリンだ。錬金術師で神学者、医師でもあったヨハン・ディッペルが、動物の骨や角、血液にアルカリを加えて熱して分解し「ディッペル油」を作っていた。
彼の工房にいた染料・顔料業者のヨハン・ディースバッハはある日、カイガラムシから取った赤い色素から顔料を作ろうとした。だが作業に必要なアルカリが切れており、ディッペルに動物油の製作に使った後のアルカリを借りた。これを硫酸鉄とともに色素に加えると、突然、鮮やかなブルーが現れた。
一体何が起きたのか、当時の2人にはわからなかったろう。現代の化学の知見に照らすと、動物原料の中にあった窒素と炭素が容器の鉄などと反応して鉄のシアン化物が生成し、さらに複数の反応が重なってプルシアンブルーが生じたと考えられる。
編集部では今回、化学が専門の田中陵二群馬大学非常勤准教授の協力を得て、この過程を再現した。動物原料には、スーパーで買った豚のレバーを用いた。実験の過程で、赤いレバーは加熱により黒くなり、さらに黄色、白と変化して、最後に濃いプルシアンブルーになった。これをにかわと混ぜて絵の具にし、画家の浅野信二氏にルリハタを描いてもらった(写真)。
プルシアンブルーがオランダから長崎に伝えられたのは18世紀半ばだ。以前は平賀源内が1770年代前半に描いた「西洋婦人図」が、日本の絵画の中では最も早い使用例とみられていた。本草学者で蘭学者、外国通だった源内が、いち早くプルシアンブルーを入手し、西洋画に用いたのは想像に難くない。一方、若冲は西洋の技法にも素材にもあまり縁がない。にもかかわらず、源内の5年以上も前にプルシアンブルーを使っていた。
若冲は「色に執着した画家」だったと、調査チームの太田彩・宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官は話す。質のいい絵の具をふんだんに使い、様々な技法を駆使して、色の表現を追求した。西洋からきた稀少な絵の具を、是非とも使ってみたかったのかもしれない。
(実験の詳細は発売中の日経サイエンス10月号に掲載)