たのきんトリオ(田原俊彦・野村義男・近藤真彦)のブレイクでジャニーズアイドルへの支持が盤石になって以降、1985年の少年隊、1987年の光GENJI、1988年の男闘呼組はいずれもデビュー曲でオリコン初登場1位を獲得している。
1990年にデビューした忍者は集計が2種(「陽炎SINGLE」「水雲SINGLE」)に分かれた関係で最高3位の記録となったが、合算すると売上は同週の1位を上回っていた。
しかし1種売りのSMAPは、事情を勘案せずとも売上枚数から完璧に負けていた。
相手は1か月以上前に発売されたCHAGE&ASKAの『SAY YES』。
「大々的に宣伝して、雨の西武園で握手会をして頑張ったのに、蓋を開けたら1番を取れてなかった」
この草彅の言葉が全てである。
そして続く地方キャンペーンでも、ついに彼らに奇跡は訪れなかった。
実を言えば歌番組の消滅は、アイドルを取り囲む状況の変化の、たった一つの事例に過ぎなかった。
当時を知るファンの見解では、1985年に素人性をウリにしたグループ「おニャン子クラブ」がヒットした時点で、80年代前半のアイドル黄金時代を支えていたアイドルのスター性はすでに少しずつ薄れ始めていたという見方がある。
さらにそこへ1986年頃からアイドルに関するスキャンダル報道が多発したことで、視聴者の中のアイドル観はより一層大きく変わっていった。
その結果、それまでアイドルが独占していた熱狂は、さまざまなジャンルへと流出していく。
これはSMAPデビューの前年、忍者が『お祭り忍者』でデビューする2週間前の新聞記事だ。
「少年少女たちの夢の受け皿となってきた『アイドル』の世界に異変が起きている」
「アイドルといえば〝それ向けに作られた芸能人〟という常識は捨て去られ、代わって、そんな世界と無縁と思われてきた競馬の騎手や相撲の力士までが、タレントと同列で『アイドル』視されている」
ちょうど若手騎手・武豊のGⅠ初勝利が1988年、バンドブームの火付け役となる「三宅裕司のいかすバンド天国」(TBS)が放送を開始したのが1989年、貴花田と若花田の兄弟力士がともに新入幕を果たしたのが1990年の出来事になる。
記事の中でも写真集を買い求めたりサインをせがむなど、彼らにアイドルのように接する若者の姿が紹介されている。
さらにいえば1990年8月デビューの忍者と1991年9月デビューのSMAPの間にも、時代の大きな転換点があった。
1990年の8月、中東でイラクのクウェート侵攻が発生。
その年の1月の時点ですでに円安・株安・債券安のトリプル安に見舞われていた日本は、この不安定な中東情勢による原油高も加わったことでいよいよ景気に影が差し始め、年末にはあの社会的高揚が「バブル経済」として認識され始める。
そして6人に汗と感動と少しの怒号の記憶を残した1991年元日のファーストコンサートについても、実はこんなエピソードがある。
SMAPの初コンサートは、その開催から少し経った1991年1月19日、満を持してTBSでも放送された。タイトルは「熱狂!SMAP天国」。
当時のテレビ欄にはこう記載されている。
「興奮の武道館にひびく大歓声!!スマップの若さが大バクハツ!!」
しかし実際の放送で歌い踊るSMAPの下には、頻繁にこんなテロップが表示されていた。
「イラクに再びミサイル攻撃のニュースは5時30分からお伝えします」
新人アイドルグループのファーストコンサートがテレビで流れるわずか2日前に、イラクでは湾岸戦争が勃発していたのだ。
「SMAP天国」放送当日の新聞にもその一文はあった。
「戦場のテレビ衛星生中継は、おそらく史上初めてのことだろう」
1990年の時点で、すでにオリコン年間売上TOP10から10代のアイドル歌手は消えている。
人はこれを「アイドル冬の時代」と呼ぶ。
それは作られたアイドルを否定する前段の新聞記事の見出しから言葉を借りれば、アイドルに「脱皮」が強く求められていた時代だった。
そんな折、アイドルグループ・SMAPはCDデビューを迎えたのである。
デビュー曲『Canʼt Stop!!―LOVING―』は先輩・光GENJIを完全に踏襲した、王道アイドル路線だった。
しかし一度走り出してしまった「前代未聞」のアイドルグループは、もう止まれない。
デビューの翌月からはすでにレギュラー出演していた「桜っ子クラブ」に加えて「愛ラブSMAP!」(テレビ東京)が放送スタート、ラジオも「POP SMAP」の他に「STOP THE SMAP」(文化放送)が始まり、SMAPはますますデビュー特需の中を突き進む。
11月には「日本テレビ新人音楽祭」でベストアピール賞を、「日本歌謡大賞」では優秀放送音楽新人賞も受賞。
その勢いのまま、今度は2ndシングル『正義の味方はあてにならない』のリリースを発表する。
「このトロフィーの重さを支えられる力をつけていきたい」(木村)
「これからSMAP、一気に突っ走ります」(森)
しかしこの『正義の味方はあてにならない』が、さらに売れなかった。
電化製品の大型CMタイアップまでついたのに、オリコン初登場はなんと10位、売上は早くもデビュー曲の半分に落ち込んだのである。
当時14歳だった香取はこのデビューイヤーについて、こう感想を述べている。
「会社の人に怒られて、『あれ、何か違うんだ。うちら』『売れてないんだ』というのを中学生くらいでズケ~ンと感じて…。あの時のあの感覚っていうのは、子供も大人も関係ない気がします。人間が生きている中で感じる『自分たちはダメだ感』」
またこの時期、稲垣によれば全員がよく言われていた言葉があるという。
「YOUたちは光GENJIのメンバーの1人にも及ばない、ファンの数が」
そして怒った当のジャニー喜多川も、実は内心焦っていた。
「結果として成功したグループだけが目立って、僕は〝アイドル育成の神様〟みたいな言われ方をされているけど、すべて順調にいったケースなどありはしない。グループづくりの辛酸をたくさん味わっているんだ。これ以上続けていくのは無理かもしれないと思ったのがSMAPだ」
「グループを結成するときは、そのコンセプトをしっかり決めてメンバーを構成すること、さらにはデビューのタイミング、ライブ活動、PR作戦など、さまざまなことを具体的に検討していくのだが、SMAPに関していえば、やはり思わく違いだったのだと思う」
そしてあまりにも売れないグループの現状に頭を悩ませたジャニー喜多川は、思い切ってフジテレビにこんな相談をする。
「SMAPを平成のクレイジー・キャッツにしたいので、笑いを教えてほしい」
その直前、テレビ東京の「愛ラブSMAP!」の現場では、こんな場面が目撃されていた。
「ディレクターが稲垣吾郎に女装をさせたら、マネジャーが『困ります』と飛んできた。そこへふらりと現れたジャニーが言った。
『きれいだよ。おもしろいじゃない』」
「基本的にうちのタレントは歌って踊れて、コメディーもできるように育てている」とジャニー喜多川は言う。
そしてそんな彼は、かつて自身の尊敬する人物として20世紀を代表する有名コメディアン、ボブ・ホープの名を挙げていたことがある。
「自分はバラエティが究極の目的で大好きなんだ。ボブ・ホープを一番尊敬している」
「コメディが一番偉いんだ」