悪い父親を殴っていたら遅くなった、なんかジャズのやつが中学生殴って問題になったらしいじゃん、体罰だとかいって。
暴力は罰みたいな陳腐なものなんかじゃない、暴力は一つの圧倒的なコミュニケーションだ。
陰茎を相手に挿入することが一つのコミュニケーションであるように、拳を相手にめり込ませることがコミュニケーションでなくて何なんだ。
現に俺の父は暴力によって変わった。
以前、俺の父は粗暴で、母を殴り、俺を殴り、壁を殴った。全く話にならなかった。
父に対して注意をしようとすると拳が返ってくるのだからどうしようもない。
ある日高校生になった俺はそれまでの鬱憤を晴らそうと父を階段から突き落とし、背骨が折れるまで蹴り飛ばした。
父は泣いて許しを請い、俺はそれに満足したので腕の骨と鎖骨を折ってから止めた。非常に爽快で解放された気分だった。
それから父は俺の話を聞くようになり、俺は暴力に感動した。暴力は他人をわからせることができるのだ。
今でも父が生意気なことを言うと殴る、そうすると父はすぐ大人しくなる。まさにコミュニケーションである。
インターネットがここまで腐ってしまったのは舐めたことを言う奴らを殴ることが出来ないからである。
もし現実のように暴力がここにあればインターネットはここまで腐らなかった、やはり暴力こそコミュニケーションの極北だ。
はーい
何かで 「暴力を振るうものは、暴力で物事をコントロールすることに慣れている人だ」 って書いてあったのを思い出した。