時代の正体〈518〉ミサイル訓練の深意に目凝らせ
安倍政治を考える 記者の視点 デジタル編集部 田崎基
- 神奈川新聞|
- 公開:2017/09/07 16:43 更新:2017/09/07 17:00
3日午前、横浜市港南区にある日野中央公園で行われた「横浜市総合防災訓練」。地元市民や高校生ら700人ほどが参加した。その冒頭の約5分間で「弾道ミサイル飛来を想定した訓練」が行われた。平塚市に次いで、県内で2例目となった。
横浜市の担当者に訓練の意義を問うと、「何もしないより、やった方が確率は高まる」と話した。
「確率」とはつまり、他国から日本にミサイルが飛んできて、市民の近くで爆発し、それでも生き残る確率のことを言っているのか。その事態が「戦争状態」であるという自覚があっての発言か-。
他国を「外敵」と位置付け、「日本にミサイルを撃ってくる」と脅威をあおり、「やらないより、やった方がいい」と、頭部を抱え込む訓練に市民を参加させる。
訓練について「まるで戦前、戦中のようだとは思いませんか」と問いを重ねると、市担当者は「私には戦争経験はありませんし、戦時中のことは知りません。そこまで深くは考えませんでした」と答えた。
無自覚によって社会に生み出される、漠然とした、それでいて強度な不安が、どれほど罪深いか。「もう戦時だ。非常事態なのだ」という、現実と乖離(かいり)した認識を市民の心に刻み込むことの意味をどれだけ認識しているのか。
「政府から通知があり、市民に周知しなければならない、というのが私たちの目的ですので」と言い、「訓練の成果が実証されないことが一番望ましいことです」などと説明するのだった。
政府は4月、全国の自治体に訓練の実施を呼び掛ける通知を出し、横浜市は6月ごろから検討してきた。恒例の総合防災訓練の冒頭に組み込むことに内部で異論はなかったという。そして訓練で全国瞬時警報システム(Jアラート)の独特な和音がテスト放送され、丈夫な建物へ逃げ込むことや頭を抱えてしゃがみこむようアナウンスされた。
完全に把握?
訓練の効果が疑わしいばかりでなく、北朝鮮が日本を標的にしてミサイルを発射する恐れや緊迫度合いを政府がきちんと把握しているのかさえ、釈然としない。そのことは8月29日早朝、東日本の広範囲に鳴り響いたJアラートの顛末(てんまつ)からも分かる。
政府は、南は茨城、北は北海道までの12道県に対し同日午前6時2分、「さきほど北朝鮮西岸からミサイルが東北地方の方向に発射された模様です。頑丈な建物や地下に避難して下さい」とJアラートで速報を打った。
これほどの広域に発報したのは、発射後3分では弾道や落下地点をほぼ絞りきれないからだ。
にもかかわらず、安倍晋三首相は直後の記者会見でこう言ってみせた。
「直後から(ミサイルの)動きを完全に把握していた」「国民の生命を守るために万全の態勢を取ってきた」
一体何を「完全に把握」していたのか。「国民の生命を守る」のであれば、日本に飛来し人的、物的被害が出る可能性について把握できていなければ意味がない。実際には、ミサイルは襟裳岬の東約1180キロメートルの太平洋上、日本の領海からも、排他的経済水域(EEZ)からも遠く離れた海面に落下した。
脅威の程度を具体的かつ正確に把握していたのであれば、東日本の大半を網羅するほどの広域にJアラートを発する必要はなかった。政府の説明と対応、実際に起きた現象は明らかに矛盾しているが、この論理破綻はこう理解することができる。
政府はミサイルの動きを完全に把握していて、日本に落ちることなどあり得ないと分かっていながら、東日本の大半にJアラートを発した。浮かび上がるのは「非常時なのだ、という精神の浸透が狙いなのではないか」という疑念だ。
具体的な被害想定もないまま全国各地で開催しているミサイル避難訓練の狙いもまた、透けてみえる。
憲法の精神を
「東アジアの安全保障環境は厳しさを増している」と強調し、政府は2015年に安全保障関連法制を成立させたが、それ以降「安全保障環境」の悪化に拍車がかかる一方だ。
米国と一体となった安全保障を強化すればするほど、日本が一層危機にさらされている。この倒錯はしかし、想定されていたことであり、かつ軍拡の応酬は歴史的に証明されている戦禍への道でもある。
安倍首相は「日本国民の生命を守るために万全の態勢を取ってきた」と胸を張ったが、実際に日本にミサイルが飛来した場合、即座に取れる有効な軍事行動はほぼない。
だから、という論理でイージス艦の機能を備えた陸上型ミサイル防衛システム「イージス・アショア」を配備するための導入費を18年度予算の概算要求に計上した。
だが軍事技術は日々革新する。イージス・アショアの配備が済むころには、それを上回るミサイル技術が開発されている可能性は決して低くない。
「ミサイルが飛来したら」と考え始めれば、「もっと訓練しよう」「地下シェルターが必要だ」「より強力な迎撃システムを配備しよう」「いっそのこと複数の発射基地を同時に撃破できる攻撃能力を備えよう」となる。
違う。日本の取るべき姿勢、発想の起点はそうではなかったはずだ。
私たちの国には、戦禍による果てしない悲しみと犠牲、涙もかれた焦土から生まれた憲法がある。
前文にはこうある。
〈政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する〉
〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ〉
権力は常に暴走し、最大の人権侵害である戦争へと突き進む。そうであるから非戦の誓いを立て、権力者に対して守るべき事項をあらかじめ刻んだ。
迫る脅威に対し、頭を抱え、しゃがみ込むのではなく、問いたい。
政府は、米朝関係の緊張緩和に向け全力を挙げているか。平和的な外交努力に全力を注いでいるか。緊張が緩和しないのであれば「努力が足りない、まだ足りない」と私たちは言い続けなければならない。
憲法が求めている崇高な理想からすれば、いまの日本政府が向いている方向がどれだけ倒錯しているか。防衛省は18年度予算の概算要求に過去最大となる5兆2551億円を計上した。安倍首相は米国と一体となって圧力強化、制裁強化を言い放つ。緊張に拍車をかける為政者の振る舞いを許してはならない。
なぜなら、それもまた崇高な理想を達成するために憲法が国民に求めている誓いであるから。
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