( ※ 本項は 2012-05-02 に全面改定しました。) ──
朝日新聞 2010-04-04 によると、「この十年間の最も優れた書籍」として、ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」という本が支持されたそうだ。( 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の1位にもなっている。)
この本は非常に評判が高かったが、長らく単行本しかなかった。しかし 2012年2月に、入手しやすい文庫本が刊行された。
銃・病原菌・鉄 (上)
分厚い本なので、1冊で普通の文庫本2冊ぐらいの量がある。上下2巻だが、普通の文庫本4冊分の分量がある。とても読みでがあるし、内容が濃いので、金を払う価値は十分にある。並みの本にくらべて何倍もの価値があると言ってよい。
( ※ これを上回るのは、シェークスピアのような天才の作品だけだ。学術書のなかでは、トップレベルの価値があると言えよう。)
では、その内容は? 出版社が紹介文を提供している。引用しよう。
銃と軍馬―― 16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのは、これらのためであった事実は知られている。なぜ、アメリカ先住民は銃という武器を発明できなかったのか?彼らが劣っていたからか?ならば、2つの人種の故郷が反対であったなら、アメリカ大陸からユーラシア大陸への侵攻というかたちになったのだろうか?上のような書評は、あちこちに見られる。しかしそのような紹介は妥当ではない。
否、と著者は言う。そして、その理由を98年度ピューリッツァー賞に輝いた本書で、最後の氷河期が終わった1万3000年前からの人類史をひもときながら説明する。はるか昔、同じような条件でスタートしたはずの人間が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答えは、地形や動植物相を含めた「環境」だ。
たとえば、密林で狩猟・採集生活をしている人々は、そこで生きるための豊かな知恵をもっている。だが、これは外の世界では通用しない。他文明を征服できるような技術が発達する条件は定住生活にあるのだ。植物栽培や家畜の飼育で人口は増加し、余剰生産物が生まれる。その結果、役人や軍人、技術者といった専門職が発生し、情報を伝達するための文字も発達していく。つまり、ユーラシア大陸は栽培可能な植物、家畜化できる動物にもともと恵まれ、さらに、地形的にも、他文明の技術を取り入れて利用できる交易路も確保されていたというわけだ。また、家畜と接することで動物がもたらす伝染病に対する免疫力も発達していた。南北アメリカ、オーストラリア、アフリカと決定的に違っていたのは、まさにこれらの要因だった。本書のタイトルは、ヨーロッパ人が他民族と接触したときに「武器」になったものを表している。
著者は進化生物学者でカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部教授。ニューギニアを中心とする長年のフィールドワークでも知られている。地球上で人間の進む道がかくも異なったのはなぜか、という壮大な謎を、生物学、言語学などの豊富な知識を駆使して説き明かす本書には、ただただ圧倒される。(小林千枝子)
「銃・病原菌・鉄のせいでヨーロッパ人が現地人を滅ぼした」
というのは、ただのエピソードみたいな話にすぎない。人々に疑問を投じる形で、話に引き込もうとする小話みたいなものだ。「つかみ」みたいなものだ。そんなことは、本当はどうでもいい。
本書の核心は、次のことだ。
「食料生産力の違いが文明の発達の差をもたらした」
つまり、「文明の違いは何か?」という質問を掲げた上で、「その理由は食料生産力の違いだ」と答える。
そして、この認識に基づいて、文明の違いを統一的に説明する。特に、食料生産力の違いが環境に大きく依存することを指摘して、文明の違いが環境に由来することを指摘する。
つまり、
文明の違い ← 食料生産力の違い ← 環境の違い
という形で、文明の差が生じた理由を統一的に説明する。これが本書の骨格だ。
──
これを私なりに評価すれば、こうなる。
壮大なテーマを掲げたあげく、それを統一的に説明することに成功している。しかも、有無を言わせぬ圧倒的な説得力で、「これしかない」というほどに理詰めで説得する。これは実に素晴らしいことだ。
「食料生産力の違いが文明の発達の差をもたらした」
というのは、マルクスの
「歴史の土台は経済である」
という認識に匹敵するぐらいの重要な認識である。ただしマルクスの認識は、一種の史観であって、「正しいのだろうけれど科学的な根拠はない」というものだった。
しかるに、本書は
「食料生産力の違いが文明の発達の差をもたらした」
ということを、有無を言わせぬ科学的な説得力で、実証する。その意味で、本書は、歴史の書というよりは、科学の書である。実際、著者の狙いは、
「歴史を自然科学で解き明かすこと」
というふうに示されている。そして、そのことは、見事に達成されたと言えるだろう。
普通の歴史は、「文献」によって示される。聖徳太子がいたとか、始皇帝がいたとか、クレオパトラがいたとか、そういう「文献」に従って歴史は示される。
しかし本書は、「文献」の残っていなかった時代(有史以前:数万年前~数千年前)について、考古学的な知識から歴史を構築していくのである。
その意味で、普通の歴史の本には欠けていた「有史以前の人類」について、本書は見事に解き明かしてくれる、と言えるだろう。
その意味で、「壮大なテーマを掲げて」「見事に真実を突き止めた」という意義がある。それゆえ、他に類書のない、傑出した業績を上げている、と言えるだろう。本書が「必読の書」として、ベスト1の座を占めるのは、当然のことだ、と言えるだろう。
──
以上は、本書への評価だった。
以下では、本書の要約を示そう。
( ※ 「要約を読めば本を買わずに済む」と思う人もいるかもしれない。だが、そうではないということを、あとで示す。)
「銃・病原菌・鉄」要約
●序章
人類の発展の長い歴史を探る。なぜ欧米人が優位に立ったか? ただし、欧米人を人種的に優位と見なすような、人種的な差別主義ではない。人類の発展を環境で説明しようとする。ダーウィニズムに基づく発想だ。
●第1章
人類は、アフリカを出たあと、ユーラシア大陸(アジア・欧州)に進出した。さらにベーリング海を経て、北米・南米にひろがった。
アフリカにいた10万年前には、石器もろくに使えないありさまだったのに、4万年前の欧州ではクロマニョン人が石器や狩猟道具など、文化的な道具を使いこなすようになった。つまり、その間(10万年前から5万年前までの間)に、「大躍進」があったことになる。それが「なぜ」「どこで」起こったかは謎であるが。
その後、紀元前 11000年ごろ(今から1万3000年前ごろ)には、南北アメリカやユーラシア大陸などで、まともな生活をしていたことを示す遺跡が見つかっている。また、オーストラリアやニューギニアやアフリカでも人間は定住していた。つまり、人類文化のスタートラインはこの時期であり、それは各地で同等だったとも言える。なのに長年を経たあとでは、ユーラシア大陸ばかりで文化が発展した。それはどうしてだろうか?
●第2章
ポリネシアにはさまざまな島がある。そこでは、武力民族が他民族を滅ぼした、という例が見られる。それは「環境の差」で説明ができる。もともとは、人々は熱帯の土地に住んでいた。そこでは、農耕が発達した。一方、やや寒い地方の島々に出た人々もいたが、そこでは、熱帯の食物は育たなかったので、農耕は不可能となり、狩猟採集生活をするしかなかった。そうなると、余剰生産力がなかったので、非生産民は存在できなかった。一方、土地と気候に恵まれた地域では、非生産民が存在できた。工業職人・軍人・支配層などが存在できた。そうして多くの人口と生産力を持つ文明社会が構成された。それは狩猟採集生活をする小部落の人々にはできないことだった。( ※ 日本で言えば、縄文社会から弥生社会に移ることで、狩猟採集時代から農耕時代に移り、同時に、文明や支配層が出現したことに相当する。)
●第3章
スペイン人がインカ帝国を滅ぼした状況には詳細な報告がある。それによると、こうだ。スペイン人はキリスト教のもとで異教徒をキリスト教との支配下に置くことを栄光ある行為だと見なしていた。インカ帝国は友好的な態度でキリスト教とを歓迎したが、その歓迎のときに、聖書をはねのけられた宣教師が「異教徒を滅ぼせ」とがなり立てた。すると、スペイン人は歓迎の式典のさなかで皇帝や臣民を殺害した。8万人のインカ人のうち7000人を殺害した。スペイン人はたったの168人で、無傷のまま、7000人を殺害した。(刺し殺した。)
ではなぜ、このようなことができたか? 著者の見解では、こうだ。銃は12丁しかなかったし、弾丸もろくになかったが、鉄製の銃剣などの刃物によって殺せた。それができたのは、銃があって威圧できたこともあるが、馬によって圧倒的に優位に立ったからだ。馬は非常に強力な武器なのである。また、インカ人がスペイン人の奇襲を受けたのは、疑いを知らなかったからだが、疑いを知らなかったのは、インカ人が文字をもたなかったからだ。文字をもたなかったがゆえに、疑いを知らず、奇襲を受けてしまった。また、病原菌も重要だ。スペイン人の持ち込んだ天然痘が大流行したせいで、その後、皇帝一族に王位継承をめぐる内乱が起きて、帝国が分裂し、その後のスペイン軍との戦いで圧倒的に不利になった。つまり、「銃・病原菌・鉄・馬・文字」が、スペイン人の勝利の理由である。
●第4章
農耕と牧畜が、大きなポイントである。農耕ゆえに余剰生産物ができたので、農民以外に、支配層や職人が誕生した。そのおかげで文明が発達して、金属や銃を作れた。また、牧畜ゆえに、運搬力や軍事力が発達した。さらに、病原菌は家畜由来のものが多いが、牧畜で家畜に接すると、多くの病気をもらうようになり、同時に、免疫も受けるようになった。……以上の点で、農耕と牧畜のある社会は、それのない先住民の社会を征服することができるようになる。
●第5章
世界各地には農耕に適した土地はたくさんあるが、そのすべての土地で農耕文明が発生したわけではない。多くの土地ではかなり新しい時代まで、ずっと狩猟文化が続いており、農耕文明は発達しなかった。それはなぜか? その理由は、農耕のために必要な農産物は、限られた土地にしかなかったからだ。小麦・米・ジャガイモ・トウモロコシ・エンドウ豆・ヒマワリ・サトウキビ・コーヒーなどは、いずれも特定の土地において野生種から取り込まれて飼育栽培種となった。
それらの農産物が伝播するには、二通りがあった。一つは、交易を通じて、物だけが伝播した場合だ。もう一つは、農耕民族が狩猟民族を侵略して、人口構成が変わったあとで、農耕が始まった場合だ。後者の例には、北米・オーストラリア・シベリア・南アフリカなどがある。これらの例では狩猟民族は駆逐されてしまった。(なお、欧州南東部と中央部では、農耕の伝来と同時に、土器の製作が始まった。)
●第6章
狩猟民族から農耕民族へという転換が世界各地で見られる。その理由は何か? 実は、その二つは、明白に境界があるわけではない。初期には中間的な段階があった。狩猟民族がちょっとだけ農耕をするような段階があった。ただしその後、農耕民族が増えていった。その理由はいくつか考えられる。気候変動、動物の絶滅、野生種の増加、農作技術の向上など。
特に重要なのは、人口の増加だ。「食料安定で人口が増え、すると文明が発達し、すると食料生産が増え……」という具合で、相乗的に人口増加が生じた。こうして人口増加と文明発達が生じると、人口が少なくて文明発達のない狩猟民族は駆逐されてしまった。たとえば、アメリカインディアンやオーストラリア原住民。
●第7章
農耕は、野生種から栽培種へという形でなされた。そこでは「品種改良」という「人為淘汰」が用いられた。その結果、農産物は農耕に便利な形質をもつようになった。具体的な例をいろいろと示す。なお、このような人為淘汰は、ごく初期から行なわれていたはずだ。「有用な形質の生じた突然変異の個体だけを選別する」という形で。
●第8章
世界には肥沃な土地はたくさんある。なのに、農業が自発的に発生した土地と、そうでない土地があるのは、なぜか? また、それらの発生時期に時間差があるのはなぜか? 答えよう。農業が自発的に発生した土地としては、メソポタミア(肥沃な三日月地帯)と、ニューギニアと、北米東部がある。メソポタミア(パレスチナ)には、野生種の小麦や大麦があり、これらは容易に栽培種になるような生物学的な形質があった。一方、ニューギニアや北米東部には、野生種の小麦や大麦はなかった。別の植物はあったが、栽培にはあまり適しておらず、高収量ではなかった。これらの土地が発展したのは、他の土地から高収量の植物が伝来した後である。要するに、メソポタミアには小麦と大麦があったが、ニューギニアや北米東部には小麦と大麦がなかったということ(生物的・環境的な要因)が、違いをもたらしたのだ。
●第9章
家畜についてはどうか? ユーラシアでは家畜化が進んだのに、アフリカや南北アメリカ大陸では家畜化が進まなかった。その理由は、人間の側にあるのか、生物の側にあるのか? たとえば、ユーラシアの馬は家畜化されたのに、アフリカ大陸のシマウマは家畜化されなかったのは、なぜか?
答えよう。家畜化のためには、多くの条件が必要で、そのうちの一つでも適さなければ家畜化は不可能だ。ここで、気性などの生物学的な違いが大きい。気性の荒い種は、家畜化をしようと思ってもできない。家畜化がなされた種は、馬・牛・豚・羊などの14種にすぎない。その多くがユーラシア大陸にあった。地理的な偶然ゆえに、ユーラシア大陸には家畜化が可能な種が多かったので、ユーラシア大陸では家畜化が進んだ。一方、アフリカや南北アメリカ大陸では家畜化に適した種が少なかったので、家畜化が進まなかった。それでも、ユーラシア大陸から馬・豚などの種が伝来すると、たちまちその種は広範に家畜として飼育された。このことからしても、理由は人間の側にはなく、生物種の側にあったことがわかる。
なお、南北アメリカでは、BC 11000年ごろに大型生物はほとんどが絶滅してしまったので、家畜化しようにも家畜化する種がなかった。家畜化する種を選ぶ前に、対象となるものが何もなかった。ただ、この絶滅は、人間の側の狩猟が理由であったようだ。
●第10章
ユーラシア大陸は、東西に長く延びており、緯度が同じで気候も同じ土地が多い。そのせいで、東西方向への農産物の伝播は早かった。メソポタミアの小麦は、紀元前(弥生時代)には日本まで到達した。一方、南北アメリカ大陸は、南北に長く延びており、緯度が異なり気候も異なる土地が多い。しかも中央は狭い低地であり、涼しい高地もなかった。そのせいで、南北方向への農産物の伝播は遅かった。穀類だけでなく、家畜もまた伝播が遅かった。このように、地形の違いが、農産物の伝播の速度の違いをもたらした。
●第11章
インカ帝国を滅ぼしたのは、スペイン人の武器や馬などだったが、インカ帝国の人口を激減させたものは、その後に流行した病気(天然痘)だった。インカ以外に、アメリカ先住民の場合も同様で、欧州人がアメリカ大陸に侵攻する以前に、アメリカ先住民は天然痘のせいで人口が激減していた。これはコロンブス以後に到来した欧州人が病原菌を運んだため。同様のことは、オーストラリアでも、フィジーでも、ハワイでも起こった。いずれも欧州人が持ち込んだ病原菌(梅毒・結核・チフス・インフルエンザなど)のせいで、人口が激減した。このようなことが起こったのはなぜか?
答えよう。人間に感染する病原菌(ウイルス)というものは、家畜から人間に感染して、人間向けに進化してできたものである。ユーラシア大陸では家畜がたくさんあったので、病原菌(ウイルス)がたくさんあって、人々は免疫を獲得した。一方、南北アメリカでは家畜がほとんどなかったので、病原菌(ウイルス)がもともとなく、人々は免疫を獲得しなかった。家畜の有無が根本的な違いをもたらした。また、人口密度の違いも影響した。農耕民族は、人口密度が高く、病原菌(ウイルス)が繁殖できた。狩猟民族は、人口密度が低く、病原菌(ウイルス)が繁殖する条件を満たさなかった(詳しい理由はここでは省略する)。結局、農耕や畜産の違いが、病原菌(ウイルス)の有無という違いをもたらし、さらに免疫力の有無という違いをもたらした。
●第12章
文字はいかにして誕生したのだろうか? 文字は知識の集積をもたらし、文明を発達させるので、とても大切なものだ。なのに、文字のある文明社会と、文字のない文明社会がある。その違いは、どこから生じたのか?
答えよう。最古の文字が誕生したのは、楔形文字のメソポタミア地方であるが、そこでは当初、文字を使うのは、宮廷だけだった。(筆跡数からわかる)限られた宮廷の書記が、帳簿などにも字を使っていただけだった。そこではLとRが区別されないように、複数の音素が一つの文字で兼用されていたため、非常にわかりにくかったが、文字の使途が限定されていたので、あまり問題でなかったらしい。ただし、一般人には、文字は使われなかった。その後、まったく別系統のアルファベットが生じると、それを使って一般人が一般用途に文字を使うようになった。(ギリシャの例。)
ともあれ、当初は文字の用途は宮廷の記録だけだった。そして、宮廷の記録という用途は、食料生産の豊かな農耕社会でのみ可能になった。狩猟社会では、人々は分断され、人口密度も低く、都市はなかったから、階級社会の頂点もなく、それゆえ文字の必要性もなかった。文字の誕生の有無は、農耕社会があったかどうかに依存するのだ。( ※ ちなみに、日本の縄文時代は、狩猟社会だったので、文字は出現しなかった。その後、弥生時代になると、農耕社会が出現して、都市が形成され、同時に、大陸から伝わった文字が利用されるようになった。)
文字の出現は、各地で別系統だったようだ。中国では漢字。メソポタミアでは楔形文字のあと、肥沃な三日月地帯(セム語族のあたり)で、線文字A、線文字B、原エラム文字、ヒッタイト象形文字などが出現した。この仲間にエジプトの象形文字(ヒエログリフ)もある。ヒエログリフの一部の、音素に当たる文字から、アルファベットが派生した。最初のアルファベットはセム語である。これがギリシャ語に波及し、また、他を経由してラテン文字へと波及していく。
また、セム語のアルファベットは、別の流れでは、アラビア文字に波及した。ヘブライ語やインド語もここに含まれる。
一方、文字がまったくなかった農耕社会もある。南北アメリカの社会がそうだ。ここでは文字の必要性はあっても、文字の誕生がなかった。その理由は? 他の文明と隔絶していて、文字の模倣ができなかったからだろう。この点では、畜産と同様だ。地理的な分断が、文字の習得の分断をもたらした。
●第13章
世界各地における技術発達の水準は、大きく異なる。欧州やアジアの水準は高く、南北アメリカ大陸・アフリカ南部・オーストラリア・太平洋諸島などの水準は低い。人間の生来の能力に差がないとしたら、その違いはどこから来たのか?
ここで発明の理由として、「必要は発明の母」という言葉を考える。しかしこれは妥当ではない。多くの発明は、当初は目的が見出されず、あとになって利用法が見出された。たとえばエジソンの蓄音機は、口述録音のために発明されたが、まったく売れなかった。ところが音楽再生のために使われてから、爆発的に売れた。このような目的外利用が多い。一般的には、発明がなされるのは、必要性ゆえというよりは、何らかの興味や好奇心から生まれることが多い。だから発明がなされた時点では、それは役立たずであることが多い。たとえば、自動車は、当初は馬と対抗する能力がなく、まったく役立たずだった。しかし、戦争用にトラックの用途が生じると、急激に普及した。
発明が生じたのは、一人の天才がいたからだろうか? いや、そうではなかった。たとえばワットの蒸気機関は、彼が単独で発明したのではなく、それ以前の「前・蒸気機関」というものが開発されていたからだ。ワットは以前のものを改良したにすぎない。
問題に答えよう。技術発達の水準は、定住社会が基盤となる。定住社会で、農業生産性が高くなると、農業生産に関わらない職人が生じて、発明が起こりやすくなる。また、定住社会で、人口密度が高くなると、発明できる職人も増えるし、発明を利用する用途も生じる。このようなことが可能だったのは、多大な人口を擁するユーラシア大陸だった。ユーラシア大陸では、中国で発明されたものがアラビアを経て欧州に伝わるというふうに、発明を広範な地域で共有することができた。その多くの発明の相乗効果で、技術水準はどんどん高まっていった。そして、それが可能だったのは、東西に長いユーラシア大陸では情報の伝播が可能だったからだ。一方、南北アメリカは、前述の理由で分断されていたので、情報の伝播はほとんど起こらなかった。たとえば、中米で発明された車輪と、中央アンデスで家畜化されたラマとは、結びつけられることはなかった。そのせいで家畜による牽引という重大な組み合わせが生じず、車輪の利用そのものがほとんどなかった。結局、(東西でなく南北に長いことから来る)地理的な分断が、人間や知識の伝播を阻害し、そのせいで、技術水準の発達を阻んだのである。そのことは、南北アメリカ以外の各地(ユーラシア大陸以外以外)にも当てはまる。
●第14章
人類の社会形成は、おおむね、四つの段階に分けられる。(1)小規模血縁集団。これは血縁のある集団の「群れ」である。数人から数十人の規模で、狩猟採集をする。先史時代の長い時代は、こういう社会だった。(2)部族社会。これは定住する集団の集落である。数百人の規模で、農耕をする。統率者がいることもあるが、彼も農耕をする。富の収奪関係のない平等社会だが、余剰の食料もないので、発展の余地がない。(3)首長社会。絶対的な権限をもつ首長が存在して、もめごとを解決したり、集団作業を統率する。富の再配分も行なうので、富の収奪が可能となる。余剰の食料があり、農耕以外のことを担当するので、発展する。人口は数千人。(4)国家。これは今日、普通に見られる。人口は5万人以上。首長社会よりもいっそう集権的となっており、分業も進んでいる。
ここで問題だ。国家はいかにして誕生したか? 「国家があると便利なことがたくさんある」という目的論で説明されることが多い。ルソーの社会契約論など。しかし、「将来は国家のおかげで便利になるだろう」という推測ゆえに国家が形成された例はない。国家に吸収される側の首長社会は、たいていは吸収されることに抵抗している。歴史的には、国家の成立は、「強い側による征服」という形で起こった。たくさんの首長社会があったとき、強い首長社会が次々と弱い首長社会を征服していくことで、集団はだんだん拡大していった。
いったん国家が成立したあとでは、国家は人口を拡大していった。国家が成立すると、文明が発達し、食料生産力が高まり、人口の成長率が高まった。人口が増えると、さらに文明が発達した。この相乗効果で、国家の成立後は、文明が発達し、人口も増えていった。……こうして(1)~(4)の段階を経て、社会は発展していった。
●第15章
ニューギニアとオーストラリアの事情を見る。この両地域は、海面が低かった更新世の時代にはつながっていた。また、東南アジアの大陸部とも、海峡を隔てているだけだった。そのせいで、東南アジアの大陸部から、海峡を渡って、ニューギニアとオーストラリアに筏で渡来したようだ。その時期は4万年前ごろだろう。その後、海水面が上がって、ニューギニアとオーストラリア大陸は分断された。それぞれは独自に発展していった。
ニューギニアの方は、熱帯に位置して、高地がある。いずれも降水量は多い。低地では豊かな食料が自生していた。サゴヤシや水産物など。ゆえにそこでは狩猟社会があった。一方、高地では、タロイモなどを栽培する農耕社会があった。そこでの品目は、伝来したものではなく、現地に自生していたものに由来する。その後、かなり近年になってから、スペイン人を経由してサツマイモが伝えられたが、このサツマイモが高い栄養価で人口増加をもたらした。ただしニューギニアは地形的に厳しく、近隣との交流がきわめて制限されていた。各地には孤立した村落社会があるだけだった。ほとんど陸の孤島とも言えるほどの孤立状態だった。言語も村落ごとにまったく異なり、類縁性さえも感じさせないほどだ。このことから、はるか昔の時期から孤立した状態が続いていたとわかる。
オーストラリアの方は、非常に特殊な事情にある。場所は温帯だが、平坦な土地ばかりで、高地がない。そのせいで降雨がなく、不毛な乾燥地帯である。気候はエルニーニョやラニーニャなどの影響で、数年ごとに寒気と雨期が不規則的に来る。1年ごとの季節というものがない。人間が住むには非常に厳しい土地だ。ただし南東部だけは、温暖な温帯の気候となっており、そこでは穀物の生産も可能だ。しかしながら、ニューギニアなどの熱帯との間には、上記の厳しい気候の土地があるので、農耕が伝播することはなかった。オーストラリア全体はアボリジニの狩猟生活があるだけだった。文明は発達するどころか退化してしまった面もある。4万年前に渡来したあと、石器などの道具も使われたが、一部の知識は捨てられてしまった。オーストラリアとつながっていたあとで分断されたタスマニア島では、さらに多くの知識が捨てられたらしく、火を起こすこともできなくなっていた。
ニューギニア南部とオーストラリア北部とは、地理的には近いので、舟による人的な交流はあった。ただし知識の伝播はなかった。伝播して有益になるものがなかったからだ。ニューギニア高地とオーストラリア南部ならば、ともに農耕可能な条件にあったので、知識の交換は有益だったろう。しかしその途中に、不毛な地域があり、そこでは狩猟採集社会があるだけで、農耕の知識は伝播しようがなかった。かくて両地域はずっと分断されたままだった。
ただしオーストラリアでも気候に恵まれた地域では、集落が発生した。自生するソテツを利用する方法が開発され、また、ウナギを池にとらえておく方法も開発された。それなりの文明はあった。ブーメランを使うという工夫も生じていた。
ヨーロッパ人との関係でいうと、ニューギニアはヨーロッパ人が植民地化できなかった。というのは、熱帯のマラリアなどの病気に対する免疫力がなかったからだ。一方、オーストラリアでは、ヨーロッパ人が侵入したが、すると、アボリジニは人口が激減してしまった。銃によって砂漠に追い出されたということもあるが、ヨーロッパ人の持ち込んだ種々の疫病に感染したということが決定的に大きな影響であったようだ。当初は病死したアボリジニの死体が街中にごろごろしていたそうだ。
●第16章
中国は古くから統一されてきた。遺伝子的には均一ではなく、北部は新モンゴロイド、内部は古モンゴロイドで、かなり異なるのだが、言語はほぼ同系統で、文字はまったく同じである。これはなぜかというと、北部の文化が南部を支配したからだ。こういうことがどうして起こったかというと、地形的に平坦で、交流が容易だったからである。
一方、中国南部の人々は、さらに南下して、ミャンマー・ラオス・カンボジアなどに進出して、そこにもともといた狩猟民族を追い出してしまった。現在、これらの国にいるのは、中国からなんかしてきた人々である。もともとそこにいた狩猟民族は、今では小さな島の一部に残っているだけだ。
食料生産については、古くから行なわれたとはわかっているが、メソポタミアの食料生産とどちらが早いかは不明である。生産開始に時点では、メソポタミアの小麦とは違って、稲を栽培した。ともあれ、食料生産はとても古い時代から始まり、文明は十分に発達し、その影響は中国周辺の各地に及んだ。
●第17章
太平洋諸島に住み着いた人々(オーストロネシア人)は、どこに由来するか? その系統関係はかなりはっきりしている。遺伝子的にも、言語的にも、遺跡による考古学的にも、同一の結論が得られる。これらの人々は、台湾に由来して、島伝いに次々と遠くへ移っていったのだ。台湾を出たのが紀元前 3500年。以後、数百年ごとの間隔を置いて、フィリピン、インドネシア、フィジー、サモア、マルケサスなどに次々と到達し、ハワイやイースター島に到達したのは紀元前 500年だった。このように海洋を渡れたのは、ダブル・アウトリガー・カヌーという、自転車の補助輪みたいな腕木を横に備えることで安定性を増したカヌーを発明したおかげだった。今日、上記の諸島では(意外なことに)言語的にも系統的に同種の人々がいるわけは、以上のことによる。
オーストロネシア人の起源は台湾であるが、そのまた起源は中国の南部と推定される。ただし、中国の南部の人々は、中国の北部から来た人々に駆逐されてしまった。だが、それらの人々は、中国の南部にはほとんど残っていないとしても、台湾を経て太平洋諸島に移った子孫が残ることで、系統を保った。
オーストロネシア人は古モンゴロイドであり、東南アジアにいる人々と同じ系統に属し、ニューギニアやオーストラリアにいるオーストラロイドの人々とは系統が異なる。ただ、中間地域に当たるメラネシアやミクロネシアでは、両系統の混血が多い。以上のように、太平洋諸島の人々の系統関係は、かなりはっきりとしている。
●第18章
第3章で述べたように、南北アメリカでは、先住民が欧州人の渡来したあとで、インカ帝国などが滅ぼされた。この理由は、南北アメリカには穀類や大型家畜などが欠落していたからである。病気への免疫力の欠落も、大型家畜の欠落のせいだった。また、食料の生産性の低さは、余剰生産力の不足ゆえに、文明の発達を弱めた。
南北に延びた地形は、交流不足をもたらした。このことは言語からもわかる。南北アメリカにある多くの言語は、「語族」を構成するような系統関係がなく、まったくバラバラな独立した言語となっている。文化はたがいに伝達せず、各地域はほとんど陸の孤島であった。
以上のことから、南北アメリカの先住民は欧州人の渡来のときに敗北して激減していった。病気で死んだだけでなく、大量に虐殺されることも多かった。北米の先住民族はごく少数を残して根絶されたも同然だ。中央アメリカやアンデス地方では、気候のおかげもあって、先住民族はかなりの数が残っている。それでも現在では人口の相当多くが、欧州人やアフリカ人やアジア人などの系統となっている。南北アメリカでは、これほどにも急激な人口構成の変化が起こった。
●第19章
アフリカには黒人という単一の民族があるのではない。北アフリカは白人(コーカソイド)であり、マダガスカルはモンゴロイドである。他地域はネグロイドだが、ピグミー族とコイサン族(ホッテントット)は、身体特徴が大きく異なり、別人種と言っていいくらいだ。
より詳しい事情は、言語系統を見るとわかる。北アフリカは、アフロ・アジア語がいろいろあるが、中近東のセム語はアフロ・アジア語の一つだ。このことから、アフリカのアフロ・アジア語の一つが、中近東に出てセム語になったようだ。
ナイル・サハラ語とコイサン語は、あちこちに島状に分散しているが、これは、もともとは広く分布していたあとで、他の語に領域を奪われたからだろう。他の語とはバンツー語だ。言語学的に見て、バンツー語はカメルーン付近で発生した。それがアフリカ中部に広く拡大していって、ナイル・サハラ語とコイサン語の領域を飲み尽くしていったようだ。
バンツー語を話す人々は、その地に自生する農作物を作る農耕民族であり、それが領域を拡大していった。ナイル・サハラ語とコイサン語を話す人々は、狩猟民族だった。その領域を、バンツーを話す人々が奪っていった。ここではアジアと同様に、農耕民族が狩猟民族の領域を奪っていった。
しかしその領域の拡大は、南アフリカ共和国の手前で止まった。なぜならその先は温帯であり、熱帯の作物は育たないからだ。そこではコイサン語を話す人々が残った。ただし彼らは狩猟民族で、文化が発達していなかったので、いったん欧州人が来ると、たちまち追い出されてしまった。一方、農耕民族であるバンツー語を話す人々は、文化が発達して、鉄器も独自に開発していたので、白人と十分に対抗できたので、領域をほとんど奪われなかった。
結局、アフリカの状況は、気候と作物が大きな理由となる。熱帯の自生する作物をもつバンツー族だけが領域を拡大した。北方の人々は、中近東から穀類や大型家畜を得て、農耕生活ができたが、それは熱帯領域を横切ってアフリカの南側まで移ることができなかった。移ろうとしても、穀類は実らなかったし、大型家畜は疫病で死んでしまった。これらのものが南アフリカに届くのは、ヨーロッパ人が来たときだ。
なお、以上で述べたことのほかに、エチオピア付近では、そこに自生する農作物で農耕がなされていた。ここの農作物は独特のものであり、世界的には知られていない。ただしコーヒー豆だけはエチオピアから世界各地にひろがった。また、バナナはアジアのオーストロネシア人から(マダガスカル経由で?)伝わったが、それは西暦 1000年よりも後のことらしい。
基本的には、アフリカの農耕はアフリカ独自のものであり、ユーラシア大陸に比べると、種類も生産量も限られ、始まった時期も数千年遅れている。畜産も同様で、家畜化できる大型獣がなかった。さらに、南北に長いことで、伝達も困難だった。このような自然環境の理由で、アフリカの文明発達は大きく遅れた。その事情は、南北アメリカの事情と似ている。
●エピローグ
ユーラシア内の文明を比較する。
なぜ肥沃な三日月地帯(メソポタミア周辺)の文明は勢いを失ったのか? この地域は今では乾燥地や草原(ステップ)となっており、農耕はろくになされていない。当初は森林だったが、次々と開墾され、伐採されたが、降雨量が少なかったので、森林は再生されず、草木も茂らず、さらに山羊が草木を食い荒らした。灌漑をすれば、塩分がにじみ出て、塩害となった。こうして一帯は荒れ地となり、食料生産力がなくなった。人々は自ら土地を破壊してしまったわけだ。ただ、そうなったのは、降雨量が少ないという気候のせいだった。
なぜ中国でなく欧州の文明が発達したのか? 中国は最初から最後まで肥沃な土地だった。しかも平坦な地形だったので、国家的な統一が強固に進んだ。そのなかで皇帝は船団の派遣を停止した。だから外国を植民地化できなかった。一方、欧州は地形が複雑だったので、各地は分断され、言語も政治も独立化していった。そのせいでコロンブスの大西洋横断は、三人の君主に断られても、四人目の君主に認められたので、実現した。結局、地理的な統一は、強すぎれば中国のようになり、弱すぎれば南北アメリカのようになる。その中間の欧州のような状況でのみ、大西洋横断のような技術発達が可能となる。
他にも影響をもたらした要因はある。たとえば、モンゴルの騎馬民族による襲来は、イランやイラクを破壊したが、欧州ではハンガリーで止まった。中国はメソポタミアや欧州から遠く離れていたので、そこからの影響は少なめだった。
これら以外にも、個人の資質や偶然が歴史を大きく動かした例もある。たとえばヒトラーの暗殺未遂や交通事故は、紙一重の差でヒトラーの命を助けたが、これが後に莫大な歴史的影響をもたらした。このようなことから一般的法則は導き出せないし、歴史では予測不可能なことがとても多い。しかしそれでも、歴史についての認識を科学的になすことは可能となるだろう。
以上は、本書の要約だ。
「これを読めば本を買わずに済む」と思う人もいるかもしれない。だが、そうではない。以上の要約は、本書を買った人のためにある。読んだあとの「知識の整理」として。簡単に言えば、「長めの目次」のようなものである。読んだあとで、知識の整理が付く。全体の見通しが良くなる。
だが、目次だけを読んだところで、内容がよくわかるわけではない。比喩的に言えば、映画や漫画の「あらすじ」を読んだところで、映画や漫画を見たことにはならない。映画や漫画の面白さを体験するには、実際に映画や漫画を見るしかない。それと同様だ。
実を言うと、本書の価値は、そこに記されている内容自体よりも、それを読みながら味わえる知的体験にある。著者の話を読みながら、「なるほどそうか」と思うだけでなく、「あれはどうかな」「これはどうだろう」というふうに、読者が自分の頭でいろいろと考えることができるが、そのような考える体験こそが、何よりも大切だ。
その意味で、本書を読むときは、スラスラと読まずに、じっくりと時間をかけて読むといい。「情報を得よう」と思うよりは、「これを手がかりに知の冒険を楽しもう」と思うといい。
コンピュータ・ゲームでは、「怪物のいる魔法の国を冒険する」というようなアドベンチャーゲームがある。それに似た感じで、「謎のある未知の古代世界を冒険する」というような楽しみがある。その際、読者は、「剣や弓」のような武器を使うかわりに、「自らの知力」という道具を使う。それによって謎の世界を冒険するわけだ。
「考えることの楽しみ」
を味わえる本として、本書は傑出している。多くの疑問が出され、それに対する解決が味わえるあたりは、ちょっとした推理小説のような雰囲気もある。
本書の分量は、普通の文庫本4冊分だが、実は、読むためには普通の文庫本 10~20冊分以上の時間をかけて読むといい。それだけの濃い内容がある。また、読む間にときどき考える時間を取ると、何日間もの時間を使うことができる。
その意味で、本書を読むのは、長い連休の時期がふさわしい。ゴールデンウィークとか、夏休みとか、そういうときに、1週間近くの時間をかけて、じっくりと読むと良さそうだ。
あるいは、毎朝・毎夕の通勤の時間に読んでもいい。(ただしそれは通勤時間が長い人向けだ。通勤時間が短いと、なかなか読み終えないだろう。)
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さて。
以上のように絶賛しているわけだが、私としては、本書の内容を全面肯定しているわけではない。本書の掲げた問題提起は、他に類を見ない素晴らしいものであるが、その解決編は、いくらか難点があると思える。
では、どんな難点が? ……それについては、私の個人的な見解となるので、ここに書評の形で記すには適さない。別の項目に書くことにしよう。次の二つの関連項目だ。
【 関連項目 】
→ 「銃・病原菌・鉄」への私見1 (次項)
→ 「銃・病原菌・鉄」への私見2 (次々項)
※ これらを読むには、あらかじめ本書を読んでおくことが必要。
本書を読まずに感想みたいな話を読んでも、意味がないので。
文庫本
銃・病原菌・鉄 (上)
単行本