著者の海部さんは国立科学博物館で人類史を研究していらっしゃいますが、台湾から沖縄へ古代の舟で渡るという実験を企画したということでニュースにもなりました。
その実験も、この本も現生人類がアフリカで生まれそこから世界中へ広がっていった過程を明らかにしたいという思いから為されたものです。
「日本人の起源」といった題材は他の本でも数多く論じられていますが、縄文人と弥生人の二重構造説などと言ってもやはり日本国内だけか、せいぜい東アジアの事例が研究されているだけのようです。
人類全体の移動の様子を再現するには世界的に遺跡・遺物の検討をする必要があるということでしょう。
アフリカで生まれた現生人類ホモ・サピエンスの祖先はその後約10万年ほど前にアフリカを出ました。
その後、徐々に広がって行きその過程であちこちに分散してその環境に適応し、様々な形態の特徴もできていき、それが現在の人種の分布につながっているという印象を持っていました。
しかし、どうやらそのイメージは実際とは大きく異なっているようです。
特に欧米の研究者の間で常識のようになっているのが、「海岸移住説」というものです。
ホモ・サピエンスの最初のユーラシア進出はアジア南端の海岸沿いにオーストラリアまで至るというものだったとしています。内陸への進出はそれよりはるかに遅れて起きたということです。
しかし、著者が各地の遺跡の年代のはっきりしているものを精査した所、まったく異なる様相が見えてきました。
それらの遺跡の年代はほとんどが4万8000年から4万5000年前までに含まれており、徐々に広まったような跡も見られなければ、それに先行して海岸沿いに広がったということも無いようなのです。
つまり、ホモ・サピエンスは4万8000年前まではほとんどがシナイ半島付近に居て、その後3000年くらいの間にアジア大陸の南ルート、北ルート、そしてヨーロッパへの拡散が同時に起こっているようなのです。
そして、オーストラリアへの到達もほぼ同時期、東アジアへの到達はやや遅れるようですが、シベリア方面の寒冷地へも達していました。
日本列島を見れば、その遺跡の年代の確実なものを整理すると3万8000年前より以前には人類遺跡は見当たらず、その時期に突如爆発的に現れるようです。
つまり、その前の時期までに日本列島への入り口まで達していた人類が一挙に列島に渡って来たと見られるのです。
その時期はまだかなり寒冷な気候であったために、海面も現在よりは相当下がっていました。
それでも対馬海峡は今よりはかなり狭いものの確実に存在しており、台湾から沖縄の間には100kmに及ぶ海面が隔てていました。
つまり、その時期の人類はすでに航海術を持っていたということです。
対馬海峡ではただ一度渡ってきただけではなく、何度も往復していることが遺物からも推測できるそうです。
3ルートそれぞれから渡ってきた人々は、遺伝的にはすでにかなり隔たった人々でした。
しかし、彼らはもともとのスタート時には近い関係だったわけです。それがヒマラヤの北と南に分かれて東進したためにかなり異なる形態となっていました。それが約1万年の後に東アジアで再び巡り合ったとも言えます。
そしてそこで混血も進みました。
対馬ルートから入ってきた人々は縄文時代まで続いていると考えられます。つまり縄文人と言われているのはその人々だということです。
その後、弥生時代にかけて大陸からさらに渡来した人々が多く、その人々も日本人の祖先となりました。
これらの歴史をまとめた文が本書最後に掲げられています。
かつてアジア南北のルートを別々にたどり、それぞれ違う困難をくぐり抜けてきた兄弟姉妹が、再会を遂げた舞台の1つ。それが後期旧石器時代の日本列島であった。ただし、西アジアで別れてから既に1万年の時が経過しており、再会した彼ら自身は、互いが血を分けた兄弟姉妹であることに気づきようがなかった。
その後、大陸からの新たな渡来民や列島内での移住を経て当初の集団構造は変化していった。それでも偉大な旅を続けてきた旧石器時代の祖先たちの血は今もこの列島の私達の中に様々な形で継承されている。
こういった見方というものが大事なものと感じます。