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戦前の権力は「エロ本」をこうやって検閲・発禁した

検閲官は、一日200冊をチェック

1923年9月1日の関東大震災は、大手町にあった官庁街をも焼き尽くした。警察と地方行政を牛耳り、全国の俊英が雲のごとく集まるとうたわれた内務省さえ、自然災害には勝てず、庁舎を丸焼きにされた。

内務省の主な仕事のひとつに、「検閲」があった。その関係で、内務省の倉庫には明治以来の発禁図書や貴重な資料が保管されていたのだが、これも灰燼に帰してしまった。そのため、現在でも1923年以前の検閲の実態には不明な点が多い。

これにたいし、1923年以降の検閲に関する資料は比較的よく残っている。とくに内部向けの月刊マル秘資料「出版警察報」の刊行が開始された1928年、つまり昭和3年以後はなおのことそうである。

 

検閲と発禁はこうして行われた

戦前の検閲とはいかなる制度だったのか。ひとくちに検閲制度といっても変遷があり、論点も多岐にわたるので、ここでは昭和戦前期の出版検閲に焦点をあてたい。

内務省の長である内務大臣は、新聞紙法や出版法にもとづき、新聞、雑誌、書籍などの検閲を行い、問題があると認めた場合、発禁処分を行うことができた。

もっとも、内務大臣が直接仕事にあたったわけではない。実際は、内務省警保局図書課の担当課員によって、検閲の実務が担われた(一部例外あり)。俗にいう、「検閲官」たちである。

新聞紙法は、新聞や時事を扱う雑誌を取り締まり、出版法は、書籍、ビラ、時事を扱わない専門誌などを取り締まった。いずれの場合も、版元はすみやかに完成品を内務省に納付しなければならなかった。

検閲官は、これを待って審査を行った。主なチェックポイントは、安寧秩序の妨害(紊乱)と風俗の壊乱だった。簡単にいえば、国家体制や治安を揺るがす危険思想がないかどうかと、公序良俗を乱すエロ表現がないかどうかの確認である。

検閲の実務では、まず、属官(現在でいえばノンキャリアの役人)、嘱託(非常勤の専門職。語学に秀いで、外国語文献などを担当)、雇員(非常勤の職員)たちが、出版物の審査を行った。

つぎに、事務官(係長級。現在でいえばキャリア官僚)が、問題があるとされた出版物を審査し、可否の最終判断を事実上行った。トップの図書課長は、めったに実務には関わらなかったという。

問題があると認められた出版物は、発禁処分を受けた。正式には発売頒布禁止処分といい、有償で売ることも、無償で配ることも禁止された。また、店頭の出版物は警察に押収され、紙型なども没収された。

問題の程度がそこまで酷くない場合は、一部削除や注意処分(次回やったら発禁処分だと警告)などで済まされることもあった。

反対に、悪質と判断された場合は、裁判所に告発され、ときに著作者、編集者(人)、発行者(人)などが300円以下の罰金刑や2年以下の禁固刑を受けることもあった。

さらに、新聞紙法の対象である新聞・雑誌に関しては、発行禁止処分という司法処分まであった。これは、問題のあった号だけではなく、今後その媒体を永久に発行できなくさせるという、たいへん強力な処分だった。実際に発動されることは少なかったが、版元にとっては心理的な圧力として機能したことだろう。