日米問わず体罰を必然とする文化は最近まであった
トランペット奏者の日野さんが中学生の頬を叩いたことが物議をかもしている。
この機会に「体罰と躾」について語りたい。
私が育った昭和の時代は、体罰を必然とする考え方が普通であり、家庭だけでなく、学校でも教師が公然と体罰を行っていた。中学校のある男性英語教師は、宿題をしなかった生徒を教室の前に並ばせて竹の棒で叩いた。
この慣習は日本独自のものではない。
イギリスや北アメリカでは、子どもだけでなく、夫が妻を体罰で「教育/躾」するのも当然だと思われていた。ごく最近まで子どもは親の、妻は夫の所有物だったからだ。
女王がいたイギリスでさえ、結婚した女性が土地や親からの財産を自分で所有できるようになったのは、19世紀末のことだ。アイルランドでは、1976年まで夫がすべての権利を握り、妻へのレイプも1990年まで合法だった。
殺しさえしなければ、父や夫が「お前のためなのだ」と言って、子どもや妻にけっこう自由な範囲で暴力を振るうことができた時代は、そう昔のことではない。
そして、現在でも「古き良き時代」の慣習として体罰を残すべきだと思っている人は少なくない。
ちなみに、現在の体罰擁護派の意見は次のようなものだ。
・体罰は子どものために大人がやってあげること。暴力とはちがう
・自分も親から叩かれたが、ちゃんとした大人に育った。したがって体罰は有効だ
・子どもに善悪を即座に教えこむときには、体罰が最も有効
・教室で悪い行いが蔓延しないためには体罰が必要なときがある
・叩かないと、やってはいけないことがわからない子、行動をコントロールできない子はいる
・子どものためにも、反抗を許さない強い父親像は必要
現在はアメリカでも体罰は不適切だとされている
その後、女性が男性と同じ人権を得て発言力も持つようになり、次に「子どもの人権」が重視されるようになって躾としての体罰の考え方が変わってきた。
米国児童青年精神医学会は、次のような理由で体罰に反対している。
「大規模な調査の結果、体罰はすぐさま行動を修正させるのには有効であるかもしれないが、長期的には効果はないことが明らかになっている。また、体罰は子どもの攻撃性を高め、適切な行動の道徳的な内面化を低下させる(良い行いを習得しにくくなる)」
それに加え、体罰には次のようなネガティブな結果があると書かれている。
・体罰が暴力にエスカレートする危険がある
・ 他人への(心身の)攻撃が問題解決の許容される手段と学ぶ
・心身に痛みを与えられることで、学習能力が下がる
・特定の行動がなぜ悪いのかを理解できなくなる
・将来、恐怖心から自分の行動を取るようになる
親に教育のアドバイスを与える「Center for Parenting Education」のサイトでは、同じような内容をわかりやすく説明している。
・これまで行われた調査で、子どもへの体罰が長期的に良い影響を与えたという結果はたったひとつもない
・子どもを殺してしまった両親の多くは、最初から殺すつもりではなく、体罰がエスカレートしたものだった
・親が体罰を与えた子どもは、将来ドメスティック・バイオレンスの加害者になりやすく、わが子へ暴力をふるう傾向がある。暴力の輪が続く
・幼児期に大人から叩かれた子どもは、体罰を与えられていない子どもに較べてIQが低いという調査結果がある
・頻繁な厳しい体罰を与えると、幼い子どもは恐怖心、怒り、敵意といった感情を溜め込む。それらの子どもは、後に、攻撃的な行動、自殺念慮、自殺、うつを起こしやすい。
別のサイトには次のような説明もある。
・「力は正義」という不公平なメッセージを与える。その結果、自分より小さくて弱い者を見下したり、虐めたりするようになる。
そういった理由から、 米国小児科学会も、体罰を強く否定し、別の方法でしつけをするよう親にアドバイスしている。
決意は簡単だが、守るのは容易ではない
娘が生まれた24年前、私たち夫婦はどちらも米国小児科学会のアドバイスなどは知らなかったが、「体罰は絶対に与えないようにしようね」と話し合った。
どちらも、自分が子どもの頃に受けた体罰のトラウマがあったからだ。
「子どもの頃に体罰を受けたときに感じたのは痛みと屈辱だけだった。自分がやった何が悪いのか理解できなかったから、反省もしなかった。行動の善悪などはまったく学ばなかった。残ったのは、大人が絶対の力で子どもを制することへの憤りと大人への不信感だけ」という夫の意見に、私も完全に同意した。
決意は簡単だが、守るとなると、けっこう難しい。
娘だけでなく、家の中を無茶苦茶にして暴れる娘の遊び相手など、子どもをピシャリとやりたい衝動に駆られたことは一度や二度ではない。
それでも行動に移さなかったのは、この衝動の背後にあるのが、「子どものための教育」ではなく、状況をコントロールできない私自身の苛立ちと怒りだということを自覚していたからだ。
「体罰を与えたら、父や教師が私からの尊敬を失ったように、私も娘からの尊敬を失う」と自分に言い聞かせて、難しい時期を乗り越えた。
そして、ここが重要だが、体罰よりも、もっと有効な方法がいくらでもあることを学んだ。体罰に頼るのは大人の怠慢だということも。
娘が3〜4歳のときに通ったプレスクールで教わったのは、悪い行動を取ったときすぐさま与える「タイムアウト」という罰則だ。
楽しい遊びの場から引き離して、教室の隅など退屈な場所におもちゃなしで一人で座らせる。罰を与えるのは悪い行為の直後で、「●●はしてはいけないこと」と短く理由を説明し、罰はほんの数分。それでも、体罰よりずっと効果がある。
これは18ヶ月から10歳くらいまでが対象だ。
また、幼いときから大人になるまで、一貫して重要な子育てのルールがある。
それは、「最初から学校や家庭の行動ルールをはっきりさせて、大人も守る」ということだ。これは、親子の絆を強め、どんな子育てのテクニックよりも効果的だった。
夫や私が子どものころに体罰を受けたとき、「衝撃、屈辱、憤り、不信感」を覚えた理由のひとつが、「なぜいきなり叩かれたのか理由がわからない」ということだった。罰を与えた人の頭の中にはルールがあったかもしれないが、受けた者にはそれは読めない。
体罰を擁護する人のなかに、やむを得ない事情になった「文脈が重要」という意見があるが、体罰を受けた側にはその「文脈」は見えていない。だから、痛みや屈辱や恐怖でその時に行動を改めても、長期的な効果はないのである。
体罰を行ったものの人格攻撃は重要ではない
住んでいるボストン近郊の町で「住民の建設的な対話を構築するための委員会」に属していたときのことだ。
休憩時間に委員長と体罰やしつけについて上記のような雑談を交わしていたところ、黙って耳を傾けていた女性委員がいきなり泣き出した。そして、「私は、娘が幼いときに体罰を与えていた。それを今でも後悔している」と告白を始めた。
離婚で精神的にボロボロになっているときに、同じく精神的に不安定な幼い娘の行動を持て余し、体罰で対応してしまったというのだ。彼女自身も体罰で躾けられた世代であり、悪いとわかっていながらも、手を出してしまったのだ。体罰を与えた期間は短かったが、ヒビができた親子関係の修復はそう簡単にはいかなかったという。
彼女の告白に私は驚いた。なぜなら、人種や宗教、性的指向、社会経済的背景、心身のハンディキャップにかかわらず、すべての子どもが公立学校で安全かつ平等な教育を受けられるように貢献してきた教育委員だったからだ。
差別されている人がいたら、すぐさま助っ人として駆けつける、頼りがいある人だった。
体罰を与えたことを知った後でも、彼女への尊敬は変わっていない。
この経験から私が学んだのは、人間は複雑なものであり、「体罰を行った」というひとつの事象だけで、簡単に判断したり、制裁したりするべきではないということだ。
「体罰は重要な躾」の時代に疑問を持たずに育った人が、「この場面ではいたしかたない」と体罰をしてしまうことはあり得る。また、そういう行動に出た人が、必ずしも悪人だというわけではない。
とはいえ、人徳者がやったからといって、「文脈が重要」と言って体罰を容認するつもりはない。
私が提言したいのは、ビンタをした人の人格攻撃はやめて、「躾としての体罰は百害あって一利なし」という調査結果を広めることだ。それは、子どものためだけでなく、私たち大人の心の平和のためでもある。