書評
夜のみだらな鳥 (集英社)
introduction
『百年の孤独』のように人口に膾炙した作品ではないが、その衝撃度において、南米文学の山脈にひときわ高く聳(そび)えるのがドノソの『夜のみだらな鳥』である。日本には、集英社の全集《世界の文学》で紹介された。先輩世代の栄養が河出書房の《グリーン版世界文学全集》や、集英社のひとつまえの《世界文学全集》だったように、ぼくは《世界の文学》から多くの糧を得ている。セリーヌ『なしくずしの死』、ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』、シュルツ『肉桂色の店』、カルペンティエール『失われた足跡』などは、この全集で出会った。いまあげた作品はのちに文庫本で読めるようになっているが、『夜のみだらな鳥』は文庫化はおろか一度も再刊されていない。あれほどの傑作なのに、どうしたことだろう。▼ ▼ ▼
小説などという得体のしれぬものに耽溺しているぼくだが、幼いころは溌剌たる理科少年だった。この宇宙のあらゆる謎は、いずれ科学によってスッキリと解明されると信じてうたがわなかった。そのころの殻がいまでもかろうじて残っているらしく、ときどき“センス・オブ・ワンダー”と口走っては友人たちの失笑をかっている。“センス・オブ・ワンダー”とは、コリン・ウィルスンによれば「化学実験を見まもっている十一歳の少年が感じる驚異」と定義される。それは実験装置を媒介として、ふだん体験している雑然たる日常世界が、じつは奥のレベルでは理路整然と律されていることを知る喜びだろう。
しかし、そういう平和な日々も長くはつづかない。この世界は美しく割りきれるものではないことを、ぼくはある日、気づいてしまう。それは、人間の価値観が多様だからとか、それぞれの文化に独自のパラダイムがあるとかいって、生ぬるく納得できることではなく、なすすべのない混沌だ。
その混沌のありさまを、さまざまな文学が表現しようと試みてきた。ぼくにとって、いちばんの手引きになったのが『夜のみだらな鳥』である。ページをめくるにつれ、わが身がコールタールのなかへ沈みこむように、グロテスクで粘度の高いリアリティが押しよせてくる。この大作を要約するのはほとんど困難だ。以下の紹介は、絡まりあう複数のストーリイを思いきり単純化し、どうにかこうにか辻褄をあわせたものだということを、あらかじめおことわりしておく。
緩慢な死と退廃が支配する修道院のなかで、ムディードは自身の数奇な人生を語りはじめる。だが、すでに聾唖となり、尼僧たちの慰みものにされるばかりの彼の独白は、全体に妄想がからみつき、時系列が混乱し、挿話が歪曲されている。しかも、語りつづけるにしたがってムディードという統一された人格が崩壊し、思い起こしている過去のできごとに、修道院にいるほかの人物たちの思考や会話が流れこんできたりする。
ムディードの回想によれば、彼はかつて上院議員ドン・ヘロニモ・アスコイティアの腹心の秘書を務めており、ドン・ヘロニモに畸形の子どもが生れて以降は、世間と隔絶した豪邸でその子息の養育をまかされた。子どもはボーイと呼ばれ、その姿は「混沌あるいは無秩序そのものであり、死がとった別の形、最悪の形だった」としか形容のしようがない。ドン・ヘロニモは、ボーイの異形を見るなりすぐさまこれを葬りたい激情にかられるが、思いとどまる。ボーイを殺すことは、混沌のまえに膝を屈することにほかならない。教会の後ろ盾をもち、政界で権力をふるう彼は、もうひとまわり大きな世界を支配したいと願っていた。そして、ボーイのために“別の”楽園をつくりだすことで、混沌すらも掌中におさめようと決意する。ボーイが暮らす屋敷は、まがまがしくデフォルメされた不具のアポロやヴィーナスの像で飾りたてられていた。そして、この子が成長すると、全国から畸形の者たちが集められ、その程度に応じて迷宮のような邸の各所に住まわせられた。もちろん迷宮の中心には、混沌の最高の具現者であるボーイが君臨する。
カルロス・フェンテスは、『夜のみだらな鳥』を「ボッス的」と評した。この作品に描かれれた地獄図/楽園図はまさしく、あのフランドルの画家が描いたままの感触なのだ。しかし絵を眺めるのとは異なり、読者はこの世界の全体を離れた位置から俯瞰することはできない。ドノソが紡ぎだす文章を読みすすむのは、ちょうどボッスの絵のなかに入りこみ、自分の足でその異様な世界を経めぐるようなものだ。そのうえ、その世界はムディードの崩壊しかかった意識によって、パースペクティブが著しく歪んでいる。
作者ドノソは、この小説について次のように語っている。
わたしはただ、縺(もつ)れあったオブセッション、テーマ、記憶などを小説に仕立てる可能性を試しただけです。もっとも恣意的なものを現実と見做(みな)した上で、分裂症的な世界を語ること。三十八の、いや四十もの可能な現実がそこにあるでしょう
ボーイから同心円的にひろがる異様な豊穣世界のなかで、ムディードもまた異形と化すことをまぬがれない。ドン・ヘロニモから命じられて彼の伝記に取りかかったところ、持病の胃潰瘍が悪化して喀血してしまう。その手術を受けもった医師がとんでもないやつで、ムディードに畸形の者どもの血を輸血し、その身体の一部を移植する。そのうえドン・ヘロニモまでが、自分のうなだれたペニスを、ムディードのそれとつけ替えるしまつだ。身体を切り刻まれたムディードは、必死の思いで屋敷を脱出する。
その昔、ドン・ヘロニモが政治の表舞台にのぼるにあたり、ムディードは懸命に働いた。銃弾に身をさらしたことさえある。ボーイの楽園にしたところで、彼がいたからこそ維持できたのだ。そうした献身は、けっきょく報われなかったのだ。修道院に身を隠したムディードは、ドン・ヘロニモに対する復讐を練りあげていくのだ。
時間の連続性がさだかでなく、いくつものエピソードが輻輳するなかで、次々と不思議でグロテスクな情景が展開される。現実なのか夢想なのか。いま起きていることなのか過去のことなのか、それともこれから起きようとしていることなのか。そして、つぎつぎと押しよせる出来事の裏に、いかなる真実が秘められているのか。かいもく見当がつかない。いや、そもそも単純明快な真実などは、最初から期待すべくもないのだ。なんという過酷な世界。“悪夢のような”という修辞は、まさにこの小説のためにある。
『夜のみだらな鳥』を読んだら最後、いつまでもその悪夢につきまとわれる。あの「美しい真実」に魅了されていたころの無垢は、もう二度と取り戻すことはできない。だが、こういう文学には、“センス・オブ・ワンダー”とはちがった種類の“驚異”がある。ぼくは、それに魅入られているのだ。
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