05年3月に亡くなった5代目桂文枝さん(享年74)一門で、筆頭6代桂文枝(74)に次ぐ2番目の弟子、桂きん枝(66)が再来年3月、師匠の前名「4代桂小文枝」を継ぐことになり、4日、師匠が最後の高座に上がった大阪・高津宮で会見した。

 「小文枝」は、師匠の先代文枝さんの前名で、54年から92年まで名乗っていた。27年ぶりの名跡復活。きん枝は66年、上方落語を復興させた「四天王」の1人、5代目文枝に師事。兄弟子には一門総領の文枝、弟弟子には桂文珍(68)がいる。

 「悩みました。弟子20人のうち、18人が『小文枝』に入門してますから、一門にとって大事な名前で、俺でいいんかな? と。でも『きん枝君なりの小文枝を作ればいい』と言ってもらって決意しました」

 上方では、今年は笑福亭松喬、来年は桂春団治の名跡襲名興行が控えており、小文枝襲名は再来年に決定。19年3月12日、師匠の命日を興行初日として進めている。早めの発表になった経緯には、先代夫人の長谷川君枝さん(87)が高齢であることから「発表だけ先にしようと思った」と説明した。

 今回の襲名は、その先代夫人ら、家族の強い要望だった。夫人は「お父ちゃん(先代)が一番手を焼いて、かわいがっていた弟子。お父ちゃんが一番長く名乗っていた名前を継いでほしい」と長年、要望。3年ほど前から話が具現化していき、襲名へと至った。

 きん枝は66年の入門後間もなく、親友の月亭八方らとともに、往年の人気番組「ヤングおー!おー!」に出演。文珍、故4代目林家小染らと「ザ・パンダ」として活躍した。

 若き日にはやんちゃを繰り返し、一時は「破門」にも遭ったが、生来、人からかわいがられる性格で、復帰に当たっては、故6代目笑福亭松鶴さんが尽力したとされる。文枝、きん枝、文珍と、先代の弟子のうち、上から3人は年齢も近く、関西では長く「しっかり者の長男・三枝(文枝の前名)、うっかり次男・きん枝、ちゃっかり三男・文珍」と評されてきた。

 師匠の先代文枝さんも、創作の第一人者であり筆頭の文枝、古典にかけては当代屈指の文珍と、芸にとりわけ秀でた2人の弟子以上にかわいがっていた。

 先代文枝さんは生前、自身の名跡について「誰に継がせるかは言えんけど、誰に継がせたいか、いうたらきん枝。3人のうちで、一番かわいいのはきん枝や。あんだけ迷惑かけたヤツ、どこにもおらんで。親はデキの悪い子ほどかわいいもんや」と話していた。

 きん枝は10年4月、民主党から参院選へ比例代表として出馬し、吉本興業との契約を解除。上方落語協会も退会したが落選。同年、吉本、協会へ復帰した。

 協会では現在、兄弟子の文枝をサポートする副会長に就き、文枝から、大阪の天満天神繁昌亭に次いで2館目の定席を神戸に建てるための「委員」に任命され、「神戸新開地・喜楽館(きらくかん)」の来夏オープンまで、こぎ着けた。

 きん枝は天満天神繁昌亭の開館後、本業の落語への熱をより一層、入れだしたが「やっぱり、実演会とか、やれる場所があると言うのは違う。落語は空気でやれるというか…」と説明。すると、文枝、文珍がそろって「実演会? 実演ってなんや! 独演会やろ!」とつっこんだ。

 この辺りがかわいがられるゆえん。ほぼ同時期に入門した文珍は内弟子時代「同じことしても、彼だけが見つかってどつかれてた。でも、人をどつくのは愛があるから。私は嫉妬しましたね」と振り返った。

 この日は、文枝、文珍がそろい踏み、吉本興業からは吉野伊佐男会長、大崎洋社長も同席。文枝は「一門の問題児だったが、面倒見がよく、気がいい男。(師匠の)奥様から強い要望もあり、ご家族の面倒もよく見ている。(襲名は)賞を取ってハクがついてからと思っていたんですけど、まあ『功労賞』やなと思う」と話した。

 若き日のやんちゃぶりも見てきた吉野会長は「ひじょうに気にかかるはなし家が、師匠の前名を継ぐとは本当にめでたい」。大崎社長は「入社して、次の日ぐらいに(きん枝に)キャバクラへ連れて行ってもらった。ああ、こういう世界かと…」。芸人の世界をいきなり教えてくれた“師匠”との思い出を語っていた。